水彩画と御城印で巡る 日本の名城17  九州戦国武将 島津義久・義弘

不屈の薩摩 島津義久・義弘ゆかりの城――内城・飫肥城・人吉城をあるいてみた

戦国時代の九州で、最後まで勢力を伸ばし続けた大名がいた。
薩摩を本拠とした **島津義久 **島津義弘を中心とする島津氏である。
 
島津氏は鎌倉時代以来、南九州に根を張る名門であった。
長い歴史の中で幾度も内紛や争いを経験しながらも、
島津兵の精神的基盤である「捨て肝(ぎも)」気概を奮って、
その勢力を薩摩・大隅・日向へと広げ、
やがて戦国九州を代表する大名へと成長していく。
 
島津氏の強さを支えたのは、一族の結束と巧みな戦術であった。
特に鉄砲を効果的に用いた戦い方や、
退却しながら敵を誘い込む「釣り野伏」と呼ばれる戦法は、
九州の戦場で大きな威力を発揮した。
 
1584年、肥前の 沖田畷の戦い。
この戦いで島津軍は、肥前の覇者 龍造寺隆信 を討ち取り、
九州の勢力図を大きく塗り替える。
 
その後、島津氏は九州各地へと勢力を広げ、
九州統一に最も近づいた戦国大名となった。
 
その3拠点となったのが、
薩摩の本拠 内城、
日向支配の拠点 飫肥城、
そして南九州の要衝 人吉城 である。
 
それは、戦国の激しい戦いの中で生き抜いた、
薩摩の武士たちの物語でもある。

内城――島津政権の九州制覇へ向けた統制拠点

内城 島津氏の行政・軍事の司令塔(鹿児島県鹿児島市)

薩摩国の中心、現在の鹿児島市にあった **内城 は、
1550年(天文19年)に**島津貴久が築き、
島津氏が戦国大名へと飛躍する転換点を象徴する城となった。
錦江湾に近く、背後には城山の丘陵が控える地形に築かれ、
海と山に守られた天然の要害でもあった。
 
この城を拠点として南九州に勢力を広げたのが、
島津氏の当主 **島津義久 である。
 
義久は弟の **島津義弘、**島津歳久、**島津家久 と力を合わせ、
島津四兄弟として知られる強力な一族体制を築いた。
 
内城はもともと中世の館に近い構造で、
壮大な天守を持つ近世城郭とは異なり、
政治と軍事の拠点として機能した城であった。
 
この城を中心に、島津氏は薩摩・大隅・日向へと勢力を広げていく。
 
16世紀後半になると、島津氏は南九州をほぼ掌握し、
九州の覇権をめぐる戦いへと乗り出していく。
その勢力は北上し、やがて肥前の戦国大名 龍造寺隆信 と激突することになる。
 
1584年の **沖田畷の戦い で**龍造寺隆信を討つと、
島津氏は九州最大の勢力へと成長していく。
 
その出発点となった城が、この内城であった。
 
現在、城の遺構は多く残っていないが、
城山周辺には当時の城跡を示す史跡が残されている。
鹿児島湾と桜島を望むこの地に立つと、
南九州から勢力を広げた島津氏の歴史を感じる。
 
戦国九州を揺るがした島津氏の勢力拡大が始めた本拠の城――
ここは**内城**である。
 
2023年3月27日 訪城
内城は名城指定されていないため公式スタンプなし

飫肥城――日向南部を押さえる要衝

飫肥城 日向攻略の拠点(宮崎県日南市)

日向国南部、現在の宮崎県日南市に築かれた **飫肥城 は、
九州南部の勢力争いの中で重要な役割を果たした城である。
周囲を山と川に囲まれた地形に築かれたこの城は、
日向南部を押さえる要衝であり、
南九州の戦国史を語るうえで欠かすことのできない城の一つである。
 
もともとこの城は、
日向の有力大名 **伊東義祐 を当主とする伊東氏の本拠であった。
 
伊東氏は長く日向を支配していたが、
16世紀後半になると薩摩の島津氏との争いが激しくなる。
 
薩摩の本拠 内城 を拠点とする島津氏は、
当主 島津義久 とその弟たちを中心に勢力を拡大し、
南九州の統一を目指していた。
 
1577年、島津軍は日向へと進出し、伊東氏を破って飫肥城を掌握する。
この戦いによって伊東義祐は豊後へと逃れ、
日向南部は島津氏の支配下に入った。
 
飫肥城の獲得は、島津氏にとって九州制覇へ向けた重要な転機となった。
薩摩と大隅に加えて日向を押さえたことで、
島津氏は南九州をほぼ掌握することになる。
 
その後、島津氏の勢力はさらに北へと広がり、
九州各地の戦国大名との戦いへと進んでいく。
こうして島津氏は、九州統一に最も近づいた戦国大名となったのである。
 
現在の飫肥城は江戸時代に整備された石垣や城下町が残り、
九州でも屈指の城郭景観を今に伝えている。
静かな杉林に囲まれた城跡を歩くと、
かつてここが南九州の勢力争いの舞台であったことを思い起こさせる。
 
島津氏が日向へと勢力を広げ、九州制覇へ向かう歩みを象徴する城――
ここは **飫肥城** である。

2022年3月25日
日本100名城 No.96. 飫肥城公式スタンプ取得

飫肥城観光駐車場チケット販売所にて御城印を拝受


 

人吉城――肥後南部を押さえる戦略的同盟拠点

人吉城 島津勢力圏の“北端となる城(熊本県人吉市)

肥後国南部、球磨川のほとりに築かれた **人吉城 は、
南九州と肥後を結ぶ交通の要衝に位置する城である。
 
川と山に囲まれたこの地は古くから防御に優れた要害であり、
戦国時代には肥後南部を支配した **相良氏の本拠として知られていた。
 
城は球磨川に面した台地に築かれ、
川そのものが天然の堀となる構造を持っている。
 
現在も残る石垣の中には、
反り返るように積まれた「武者返し」と呼ばれる特徴的な石垣も見られ、
堅固な城郭の姿を今に伝えている。
 
16世紀後半になると、薩摩を本拠とする島津氏は南九州を掌握し、
さらに北へと勢力を広げていく。
 
当主 島津義久 と、その弟たちによる強固な一族体制のもと、
島津氏は九州最大の勢力へと成長していった。
 
その勢力拡大の中で、肥後南部に位置する人吉城は重要な拠点となる。
この地を押さえることで、薩摩から肥後へと続く戦略的な通路が確保され、
島津氏の軍勢は九州各地へと進出していくことになる。
 
こうして島津氏は九州各地の大名と戦いながら勢力を広げ、ついには九州統一に最も近づく戦国大名となった。
 
球磨川の流れを望む城跡に立つと、
南九州から広がる戦国の戦いの重要な舞台であったことを感じる。
 
島津氏が九州の覇権へと迫った時代を象徴する城――
ここは **人吉城** である
 
2022年3月25日
日本100名城 No.93. 人吉城公式スタンプ取得

島津氏にゆかりのある三城を巡って ― 島津氏の九州進出


 戦国時代、南九州から勢力を広げ、九州統一に最も近づいた大名がいた。
薩摩を本拠とした 島津義久 を中心とする島津氏である。
 
その歩みは、三つの城を巡ることでよりはっきりと見えてくる。
 
まず出発点となるのが、薩摩の本拠 内城 である。
この城を中心に、義久とその弟たちは一族の結束を固め、薩摩・大隅の支配を固めていった。
島津氏の勢力拡大は、ここから始まる。
 
次に重要となるのが 飫肥城 である。
日向南部の要衝であったこの城を奪取したことで、島津氏は南九州をほぼ掌握することになる。
飫肥城は、九州制覇へ向けた転機となった城であった。
 
そして肥後南部の 人吉城。
球磨川に守られたこの城は、南九州と肥後を結ぶ要衝であり、島津氏の勢力がさらに北へ広がる最前線となった。
 
三つの城は、
南九州から九州全体へと勢力を伸ばした、
島津氏の力強い歩みを今に伝えているのである。


いいなと思ったら応援しよう!