水彩画と御城印で巡る 日本の名城 51 大宰府を守った城 ― 水城、大野城、基肄城

海の向こうの敵に対する城 ― 水城、大野城、基肄城をあるいてみた

663年、朝鮮半島の **白村江で、倭国の命運を左右する戦いが起こった。
 
滅亡した **百済の復興を支援するために海を渡った **倭国軍は、
唐・新羅連合軍の前に大敗した。
それは、遠い異国での敗戦だけでは終わらなかった。
 
次に **唐と **新羅が海を越え、**倭国へ攻め込んでくるのではないか。
 
朝廷は、これまで経験したことのない危機感に包まれた。
博多湾の先には朝鮮半島があり、
その奥には当時の東アジア最大の勢力である唐があった。
 
西海道を治め、大陸との外交を担う大宰府は、
国防上の最前線となったのである。
白村江の敗戦後、
**倭国は博多湾岸から内陸部にかけて防衛体制を急速に整え、
**水城、**大野城、**基肄城を築いて **大宰府を守ろうとした。
 
平野を横断する巨大な土塁、水城。
大宰府の背後にそびえる四王寺山を囲んだ大野城。
南方の交通路を押さえた基肄城。
 
この三つの城は、それぞれ独立した城ではない。
山と谷、平野と街道を巧みに利用し、
大宰府を包み込むように配置された一つの防衛網であった。
 
今回は、白村江の敗戦が生んだ三つの城を巡りながら、
古代国家が直面した危機と、
そこから始まった国づくりの姿をたどってみたい。

水城 ― 平野を断ち切った巨大な土塁による防壁

水城 記録上、その存在を確認できる日本最初の城(福岡県太宰府市・大野城市)

最初に訪ねるのは、水城である。
 
「城」という名が付いているものの、山城でも平城でもない。
現在の太宰府市から大野城市にかけて、
平野を横切るように築かれた巨大な土塁である。
 
『**日本書紀』には、**天智天皇3年、664年に
「大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城といふ」と記されている。
記録上、その存在を確認できる日本最初の城ともされる。
現存する大土塁は全長約1.2キロメートルに及び、
博多湾側には幅約60メートルの濠が確認されている。
 
白村江の敗戦から、わずか一年後の築造である。
 
この短期間に、
山ではなく平野そのものを遮断するほどの大土木工事が行われた。
そこからは、朝廷が抱いた危機感の大きさが伝わってくる。
 
博多湾から大宰府へ向かおうとすれば、北側から平野を進むことになる。
水城は、その進路を大土塁と濠によって横断し、
敵の侵入を食い止めようとした。

土塁の両端には門が置かれ、官道が通されていたため、
防衛線であると同時に、大宰府への正面玄関でもあった。
 
展望所などから全体を見渡すと、丘陵と丘陵の間をつなぎ、
平野を閉ざすように延びる土塁の姿がわかる。

近世の城郭のような華やかさはない。
だが、大地そのものを城壁に変えてしまった発想には、
壮大な力が感じられる。

その背後には、大宰府と二つの巨大山城が待ち構えている。
 
敵を迎え撃つ最前線――
ここは **水城である。

2022年10月10日 
続日本100名城 No.182 水城公式スタンプ取得

現地での水城の配布が無かったため大宰府の御朱印を拝受

大野城 ― 四王寺山に築かれた大宰府の背後の守り

大野城 日本最古の本格的な山城(古代山城)(福岡県大野市・太宰府市・宇美町)

水城を越えて南へ進むと、四王寺山の山並みが見えてくる。
 
この山を取り囲むように築かれたのが、大野城である。
 
大野城は、天智天皇4年、665年に基肄城とともに築かれた。
『日本書紀』には、百済から亡命した憶礼福留と
四比福夫が築城を指揮したことが記されており、
朝鮮半島の山城築造技術が取り入れられたと考えられている。

大野城は大野城市・太宰府市・宇美町にまたがる巨大な古代山城で、
大宰府政庁の背後を守る位置にあった。
 
城内に天守や櫓はない。
 
山の尾根に沿って土塁を巡らせ、谷を通過する部分には石垣を築き、
山全体を防御施設として利用している。
土塁の総延長は約6.5キロメートルに及び、
その内部には門跡、礎石建物跡、水門などが残されている。
 
現地を歩くと、まず城域の広さに圧倒される。
 
百間石垣をはじめとする石垣、尾根上に延びる土塁、建物の礎石。
一つ一つの遺構は森の中に静かに残っているが、
それらを結んで歩くことで、
初めて山全体が一つの城であったことが見えてくる。
 
大野城では、大きな視点が必要になる。
 
どの谷をふさぐのか。
どの尾根を城壁とするのか。
兵や武器、食料をどこに置くのか。
大宰府へ向かう敵を、山そのものを利用してどう食い止めるのか。
 
大野城は、単なる逃げ込みの場所ではない。
人員や物資を収容し、長期間にわたって抵抗することまで想定した、
巨大な軍事拠点だったと思われる。
 
今も山中に続く土塁や石垣は、
名もなき人々が国家の危機に動員された記憶でもある。
 
大宰府の背後に立つ巨大な盾――
ここは大野城である。
 
2022年10月10日 
日本100名城 No.86 大野城公式スタンプ取得

御城印は宇美町立歴史民俗資料館にて拝受

基肄城 ― 大野城と同年(665年)に対に築かれた古代山城

基肄城 南の道を押さえたもう一つの山城(佐賀県三養基郡基山町・福岡県筑紫野市)

大宰府の南には、筑紫平野から有明海方面へと通じる交通の要衝がある。
 
そこを見下ろす基山に築かれたのが、基肄城である。
 
基肄城も大野城と同じ665年に築かれた。
基山とその東峰にかけて谷を囲み、
尾根には土塁、谷には石塁を築いた朝鮮式山城で、
城壁は約4キロメートルに及ぶ。
大宰府を南側から守る役割を担い、
大野城と対になる位置に置かれていた。
 
基肄城の特徴は、
山の尾根と谷を一体として城内に取り込んでいることである。
 
谷の出口には石塁が築かれ、
その下部には城内の水を外へ流すための水門が設けられた。

城内には40棟以上の建物跡が確認され、
その多くは食料や武器などを保管する倉庫であったと考えられている。
 
ここにも、大野城と同じく籠城を意識した姿が見える。
 
敵が北の水城を突破したとしても、
大野城と基肄城が左右の高地を押さえている。
さらに、南から大宰府へ向かう道も基肄城が見張る。
 
つまり、水城が前面を閉ざす壁であるなら、
大野城と基肄城は、その背後を南北から固める二つの山の要塞であった。
 
**基山の山頂付近に立つと、筑紫平野を広く望むことができる。
天候に恵まれれば、博多湾方面や有明海方面を見渡せるという、
ここが単なる山中の城ではなく、
北と南を結ぶ交通を監視する場所だったことが実感できる。
 
**大宰府の南を守る城であると同時に、
大宰府と九州各地を結ぶ道を見張る城――
ここは基肄城である。
 
2022年10月10日 
続日本100名城 No.184 基肄城公式スタンプ取得

三つの城で築いた大宰府防衛網を巡って

**水城、**大野城、**基肄城。
 
この三つを地図の上に置くと、古代国家の防衛構想が見えてくる。
 
北から博多湾を経て接近する敵に対しては、水城が平野を遮断する。
その背後では、大野城が大宰府の北東側と背後の山地を守る。
南には基肄城があり、筑紫平野を通る交通路を押さえる。
 
さらに、その中心には、西海道諸国を統括し、
大陸との外交窓口でもあった大宰府が置かれていた。
大宰府は単なる地方役所ではなく、外交、軍事、行政を担う西日本の一大拠点だった。
 
三つの城は、山や谷、平野を利用しながら、
大宰府を一つの巨大な要塞都市へ変えようとしたのである。
 
結果として、唐・新羅の軍勢が日本列島へ攻め込むことはなかった。
やがて唐と新羅の関係も変化し、直接的な侵攻の危機は遠ざかっていった。
 
白村江の敗戦によって、**倭国は東アジアの国際情勢の厳しさを知った。
そして、国を守るための施設を築き、軍事体制を整え、
中央集権的な国家づくりを急いだ。
 
白村江の敗戦から生まれた三つの城は、千三百年以上の時を越えて、国を守るとは何かを、今も静かに問いかけている。



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