水彩画と御城印で巡る 日本の名城 50 古代国家の北辺を守った城 ― 多賀城・秋田城・根室半島チャシ跡群

北の律令国家の中心地 ― 多賀城、秋田城、根室半島チャシ跡群をあるいてみた

日本の城と聞くと、多くの人は天守や石垣、
堀に囲まれた近世城郭を思い浮かべるかもしれない。
 
しかし、日本列島における「城」の歴史は、
戦国時代や江戸時代よりもはるかに古い。
 
そこには、国家が北へ向かって支配を広げようとした時代の記憶がある。
都から遠く離れた東北の地に築かれた政庁。
日本海側の北辺を守った城柵。
そして、北海道の海を望む断崖に残るアイヌのチャシ。
 
今回訪ねるのは、多賀城、秋田城、根室半島チャシ跡群。
 
いずれも、日本100名城や続100名城に名を連ねながら、
いわゆる「城らしい城」とは少し趣を異にしている。
 
しかし、そこに立つとわかる。
城とは、単に戦うための施設ではない。
人が土地を治め、境界を意識し、
時に祈り、時に交渉し、時に守ろうとした場所でもあったのだ。
 

多賀城 ― 古代東北の政治・軍事・文化の中心地として栄えた「北の都」

多賀城 都の貴族たちが憧れる「みちのく」の象徴(宮城県多賀城市)

最初に訪ねるのは、多賀城である。
 
多賀城は、神亀元年、724年に大野東人によって創建されたとされる。
陸奥国府が置かれ、奈良時代には鎮守府も置かれ、
古代東北における政治・軍事の中心であった。
 
現在の多賀城跡に立つと、そこに天守はない。高くそびえる石垣もない。
だが、広い丘陵の上に政庁跡が整えられ、復元された南門や築地塀が、
かつてここが東北支配の中心であったことを静かに物語っている。
 
多賀城の魅力は、城郭というよりも
「国家の意思」がそのまま地形に刻まれている点にある。
 
都から遠く離れた陸奥の地に、
役所を置き、軍事拠点を置き、儀式を行う空間を設けること、
それは、単なる防衛施設ではなく、
律令国家が東北をどのように見ていたかを示す巨大な舞台であった。
 
政庁跡に立つと、周囲の空が広い。
復元された朱の門を中心に、淡い青空と緑の丘を余白多く描けば、
古代の都の静けさが浮かび上がる。
 
多賀城は、武士の城ではない。
しかしここには、後の日本の城につながる「支配の拠点」としての原型がある。
 
2023年4月23日 
日本100名城 No.7 多賀城公式スタンプ取得

御城印は多賀城跡ガイダンス施設にて拝受

秋田城 ― 日本海側の北辺を守った城柵

秋田城 奈良時代から平安時代にかけて栄え、国の史跡に指定(秋田県秋田市)

多賀城から視点を日本海側へ移すと、秋田城が現れる。
 
秋田城は、東日本に置かれた古代城柵(古代の役所を兼ねた拠点)
の中でも最北の城柵官衙遺跡とされる。

律令国家が蝦夷の支配や統括を目的として設けた軍事・行政機関であり、
行政、軍事、北方交易・交流の役割を担っていた。
 
多賀城が陸奥国の中心であったなら、
秋田城は出羽国の北辺を意識した拠点である。
 
ここでは、国家の力は単に北へ伸びていくだけではない。
日本海を通じて、北方との交流や交易、
さらには大陸とのつながりも意識されていた。
 
秋田城跡を歩くと、復元された外郭東門や政庁跡、
水洗厠舎跡などが目に入る。
特に水洗厠舎の存在は、古代の役所としての機能を実感させる。

戦国の山城のような荒々しさではなく、
ここには役人が働き、人々が往来し、
文書が交わされた古代行政の息づかいがある。
 
日本海から吹く風、遠く北へ向かう道。
そこに、古代国家の最前線としての秋田城の姿が見えてくる。
 
多賀城が「北の都」なら、秋田城は「北への窓口」であった。
この二つを並べることで、古代国家が東北をどのように治め、
どこまでを自らの世界と考えようとしたのかが見えてくる。
 
2023年7月2日 
続日本100名城 No.107 秋田城公式スタンプ取得

根室半島チャシ跡群 ― 16世紀から18世紀頃にかけて造られたアイヌ民族の遺跡群

根室半島チャシ跡群 ― 根室市内には32ヶ所のチャシ跡が確認(北海道根室市)

北の大地に残るもう一つの城
 
最後に訪ねるのは、根室半島チャシ跡群である。
 
多賀城、秋田城から一気に北海道へ渡る。
ここで風景は大きく変わる。
政庁跡も、復元された門もない。
目の前に広がるのは、海と草原、そして断崖である。
 
「チャシ」とはアイヌ語で「柵囲い」を意味し、
砦、祭祀の場、見張り場など多目的に用いられたとされる。
 
根室市内には32か所のチャシ跡があり、
そのうち24か所が国指定史跡「根室半島チャシ跡群」となっている。
 
根室半島のチャシは、海を望む崖上に築かれたものが多い。
壕で区画された地形は、近世城郭の縄張とはまったく異なる。

しかし、そこに立つと、
ここもまた「守る場所」であり、「見張る場所」であり、
人々の精神的な拠点であったことが伝わってくる。
 
根室半島チャシを、
単に「日本100名城の一番」として見るだけではもったいない。
 
これは、中央の律令国家が築いた城柵とは別の文化圏に生まれた、
もう一つの城の姿である。
 
祈りの場、談判の場、戦いの砦。
その役割は時代とともに変化し、
海とともに生きた人々の暮らしの中にあった。
 
水彩画にするなら、建物を描く必要はない。
むしろ、広い空、草原、崖、そして海を大きく描きたい。
人工物の少ない風景の中に、静かな緊張感を漂わせる。
そこにこそ、チャシの本質があるように思える。
 
多賀城、秋田城が国家の北辺を示す城であったなら、根室半島チャシは、国家の枠組みとは異なる北の世界を示す城である。
だからこそ、この三つを並べる意味がある。
 
2023年9月9日 
日本100名城 No.1 根室半島チャシ跡群公式スタンプ取得

御城印がなかったので、チャシ跡群のある納沙布岬の証明書を購入

北辺に刻まれた三つの記憶を巡って
 

多賀城、秋田城、根室半島チャシ。
この三つの城は、時代も性格も異なる。
 
多賀城は、陸奥国を治める古代国家の中心であった。
秋田城は、日本海側の北辺に置かれた行政と軍事、交流の拠点であった。
根室半島チャシは、アイヌの人々が海と大地の中に築いた、
祈りと守りの場であった。
 
共通しているのは、いずれも「境界」に関わる場所であるということだ。
 
都から見た北。
国家の支配が及ぶ場所と、及ばない場所。
文化が交わり、時にぶつかり、時に結びつく場所。
その境界に、城は築かれた。
 
天守も石垣もない城を歩くと、城郭の見方が少し変わる。
城とは、権力の象徴であり、防衛の拠点であり、
同時に人々の生活と記憶が積み重なった場所でもある。
 
第50回という節目に、この三つの城を訪ねることができたのは、
私にとっても意味深いものとなった。
 
華やかな天守のある城とは異なり、ここには静かな余韻がある。
目に見えるものは少ない。
 
けれども、そこに立つと、かつてこの列島の北辺に向けられた
人々のまなざしが、確かに感じられる。
 
多賀城から秋田城へ。
そして根室半島チャシへ。
南から北へ、国家の城からもう一つの文化の城へ。
 
日本の名城を巡る旅は、ここで改めて原点に立ち返る。
城とは何か。
誰が、何を守ろうとしたのか。
その問いを、北の空と海が静かに投げかけている。




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