水彩画と御城印で巡る 日本の名城 52 戦国北奥を駆けた城 ― 浪岡城、脇本城、鶴ヶ岡城

天下統一の陰にあった北奥の戦国 ― 浪岡城・脇本城・鶴ヶ岡城をあるいてみた

戦国時代と聞けば、
多くの人は **織田信長、**豊臣秀吉、**徳川家康を思い浮かべるだろう。
 
京都や畿内では、天下の行方を左右する大合戦が繰り返されていた。
しかし、中央から離れた北奥や出羽の地にも、独自の戦国時代があった。
 
雪深い津軽の平野。
日本海を見下ろす男鹿半島。
豊かな穀倉地帯が広がる庄内平野。
 
そこでは、**北畠氏、**安東氏、**武藤・大宝寺氏といった勢力が、 
それぞれの土地に根を張り、領国を守ろうとしていた。
 
彼らの戦いは、必ずしも「天下」を目指したものではない。
一族の存続をかけ、周囲の勢力と結び、あるいは争い、
北の大地で生き残るための戦いだった。
 
今回訪ねるのは、**浪岡城、**脇本城、**鶴ヶ岡城。
 
華やかな天守を誇る城ではない。
しかし、この三つ城には、
中央の歴史だけでは見えてこない「北奥の戦国」が刻まれている。

浪岡城 ― 北の名門・浪岡北畠氏の栄華と滅亡経験した城

浪岡城 高い家格から「浪岡御所」とも呼ばれた城(青森県青森市浪岡)

**浪岡城は、15世紀後半の1460年代ごろ、
**浪岡北畠氏によって築かれたとされる。
 
浪岡北畠氏は
**南北朝時代に **後醍醐天皇を支えた **北畠親房の子孫と伝えられ、
その高い家格から「**浪岡御所」とも呼ばれた。
16世紀前半には最盛期を迎え、京都との交流も盛んに行われたという。
 
城跡を歩くと、山頂に築かれた険しい要塞ではないことに気づく。
 
広い台地を堀によって区切り、
内館、北館、西館、猿楽館など、複数の館を並べた大規模な平城である。
それぞれの館には建物や井戸が置かれ、
一族や家臣たちの屋敷が集まっていたと考えられている。
 
一人の城主が高い櫓から全体を見下ろす城というよりも、
北畠氏一族と家臣団が集まって暮らす、
一つの都市のような空間だった。
 
浪岡北畠氏は、武力だけでこの地を治めたのではない。
名門としての権威と、京都につながる文化を背景に、
津軽の有力者たちをまとめていた。
 
しかし、名門ゆえの結びつきは、同時に一族内部の対立も生んだ。
 
1562年に起こったとされる川原御所の乱によって一族の結束は揺らぎ、
勢力は次第に衰えていく。
 
そして1578年、**大浦為信、のちの **津軽為信に攻められ、
浪岡城は落城した。
 
長い歴史と高い家格を誇った浪岡北畠氏は、
津軽の新しい戦国大名の台頭によって
歴史の表舞台から姿を消したのである。
 
現在の浪岡城跡には、土塁と堀、広々とした館跡が静かに残る。
浪岡城は、古い権威が去り、
新しい力が北奥に現れたことを告げる城であった。
 
2023年7月1日 
続日本100名城 No.103 浪岡城公式スタンプ取得

御城印は青森市中世の館にて拝受

脇本城 ― 日本海を見渡した安東愛季の大城郭

脇本城 安東愛季が1577年に大規模に整備した城(秋田県男鹿市)

男鹿半島の南側、日本海と八郎潟方面を見渡す丘陵に、
広大な城跡が残されている。
 
**脇本城は、それ以前から存在していた城を、
**安東愛季が1577年に大規模に整備し、
居城としたと伝えられる。
 
城域は約150ヘクタールにも及び、
東北地方でも最大級の中世城郭とされている。
曲輪、土塁、空堀、井戸跡、虎口などが良好に残り、
国の史跡に指定されている。
 
安東氏は、津軽から秋田にかけて勢力を広げた北方の有力氏族である。
 
なかでも安東愛季は、一族をまとめ、戦国大名としての基盤を固めた。
 
その勢力の背景には、土地の支配だけでなく、
日本海の海上交通と交易があった。
 
**男鹿半島は、日本海を行き交う船を見張るうえで重要な場所である。
城内の高台からは、海だけでなく、
かつての八郎潟や遠く鳥海山まで望むことができる。
 
脇本城に立つと、この眺望こそが城の力だったことがわかる。
 
海から来る船を見張る。
沿岸の道を押さえる。
内陸部と海上交通を結ぶ。
 
この城は、単なる山城ではなく、
北日本海の交易と交通を支配するための拠点だった。
 
城内には、多くの曲輪が丘陵の地形に沿って広がっている。
石垣を高く積み上げた近世城郭とは異なり、
土を削り、盛り、尾根と谷を利用して築かれた城である。
 
その規模は大きいが、現地の風景には不思議な開放感がある。
草原の向こうに海が光り、空が大きく広がる。
 
安東愛季は、この場所から何を見ていたのだろう。
 
広大な日本海の向こうには、
津軽や蝦夷地、さらに遠い北方世界へ続く航路があった。
 
脇本城は、北奥が決して閉ざされた辺境ではなく、
海によって広い世界と結ばれていたことを教えてくれる。
 
2023年7月1日 
続日本100名城 No.106 脇本城公式スタンプ取得

鶴ヶ岡城 ― 古くは大宝寺城と呼ばれ、大宝寺氏・上杉氏・最上氏により争奪された城

鶴ヶ岡城 江戸時代に庄内藩酒井氏の居城となり、近世城下町の中心となった城(山形県鶴岡市)

**浪岡城、**脇本城が戦国大名の本拠としての姿を色濃く残すのに対し、
鶴ヶ岡城は戦国から近世へと受け継がれ、城下町の中心となった城である。
 
**鶴ヶ岡城は、古くは **大宝寺城と呼ばれた。
室町時代初期、**武藤長盛による築城が始まりとされ、
庄内を支配した **武藤・大宝寺氏の城であった。
 
しかし、一族内部の争いや周辺勢力の介入によって次第に弱体化した。
やがて庄内は **上杉氏の支配下に入り、
関ヶ原の戦い後には **最上義光の領国となる。
 
1603年ごろに **鶴ヶ岡城と改称され、
1622年に **酒井忠勝が入部してからは、庄内藩酒井氏の居城となり、
**明治維新まで約250年にわたって庄内支配の中心となった。
 
庄内平野は、最上川水系と日本海に結ばれた豊かな土地である。
 
現在、城跡は**鶴岡公園として整備されている。
 
本丸跡には荘内神社が建ち、堀や土塁の一部が往時の面影を伝える。
桜の名所として知られ、春には城跡全体が淡い花の色に包まれる。
 
鶴ヶ岡城は、一つの家の滅亡だけを語る城ではない。
 
**大宝寺氏、**上杉氏、**最上氏、**酒井氏。
支配者が替わるたびに、城の役割も変わった。
 
戦うための城から、領国を治める城へ。
そして、近世城下町の中心へ。
 
その変化の中に、北奥の戦国時代が終わり、
江戸時代が始まっていく姿を見ることができる。
 
2023年7月2日 
続日本100名城 No.108 鶴ヶ岡城公式スタンプ取得

御城印は荘内神社 社務所にて拝受

北奥の三つの城を巡って

**浪岡城、**脇本城、**鶴ヶ岡城。
 
三城は、同じ北日本にありながら、その姿も歩んだ歴史も異なる。
 
浪岡城では、名門・浪岡北畠氏が古い権威を背景に津軽を治めた。
しかし、一族の内紛によって力を失い、新興の津軽為信に滅ぼされた。
 
脇本城では、**安東愛季が一族をまとめ、日本海交通を見渡す巨大な城を築いた。
そこには、海を通じて北方世界と結ばれた戦国大名の姿がある。
 
鶴ヶ岡城では、庄内をめぐって支配者が入れ替わり、やがて城は近世大名の領国支配の中心となった。
 
滅びた名門。
海を押さえた戦国大名。
近世へ受け継がれた城。
 
三城は、それぞれ異なる形で戦国という時代を駆け抜けた。
 
中央では、信長、秀吉、家康が天下統一を進めていた。
しかし、その動きが北奥へ届くまでには時間がかかった。
 
北の武将たちは、雪と海と広大な土地の中で、周囲の勢力と争いながら、自らの領国を守り続けた。
 
彼らが目指したものは、必ずしも天下ではなかった。
 
一族を残すこと。
土地を守ること。
交易路を押さえること。
そして、変わりゆく時代の中で生き延びること。
 
それもまた、戦国大名の戦いであった。
 
北奥の武将たちは、天下の覇者にはならなかった。
しかし、それぞれの土地で懸命に時代を生きた。
 
その姿を、城跡は今も静かに伝えている。

 

 

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