友達とは誰のことか?—LINE友達、フォロワー、仲間の境界線
私
「友達の境界線って、どこにあるんだろう。」
ソクラ
「どうした。急に。」
私
「昔の話だけど携帯に2000人登録しているから、
自分には友達が2000人いるだと言い張る人がいた。」
ソクラ
「なるほど。」
私
「でも、それは本当に友達なのかなと思うんだ。」
百歩譲って、それは「知り合」いだろと思った。
「LINE登録すれば友達なのか。」
聞けば
「本名も知らない。」
「住所も知らない。」
「家に行ったこともない。」
「それでも友達と言えるのか。」
ソクラ
「君はどう思う?」
私
「私は古いのかもしれないけれど、友達とは、最低でもお互いの家を知っているくらいの関係だと思っていた。」
「少なくとも、生活の匂いを少しは知っている人。」
「ただ連絡先に入っているだけなら、それは知り合いではないのか。」
ソクラ
「その違和感は、かなり大事だ。」
私
「でも、最近は少し考えが変わってきた。」
ソクラ
「どう変わった?」
私
「最近はLINE登録は、LINE友達なんだと思った。
InstagramならInstagram友達」
ソクラ
「ほう。」
私
「LINE上では友達。」
「それは間違いではない。」
「ただし、人生の友達とは限らない。」
ソクラ
「とても良い整理だ。」
「LINE友達は、LINEという場所でつながっている人。」
「それ以上でも、それ以下でもない。」
私
「そう。だから、友達が2000人いるのではなく、
LINE友達が2000人いる、なら分かる。」
ソクラ
「つまり、言葉の階層が違うのだ。」
私
「階層?」
ソクラ
「そうだ。」
「昔は、人間関係の名前がもう少し分かれていた。」
「友達。」
「知人。」
「顔見知り。」
「同級生。」
「同僚。」
「仲間。」
「親友。」
「ところが、SNSやLINEは、それらを
まとめて“友達”や“つながり”と呼んでしまった。」
私
「なるほど。」
「だから違和感があるんだ。」
ソクラ
「そうだ。」
「現代は、友達が増えたのではない。」
「友達という言葉の範囲が広がりすぎたのだ。」
私
「Instagramのフォロワーも同じだね。」
ソクラ
「そうだ。」
私
「フォロワーが200万人いる人は、友達が200万人いるわけではない。」
「もちろん、その中に友達もいるかもしれない。」
「知り合いもいるかもしれない。」
「でも、全体としては友達ではなく、フォロワーだ。」
ソクラ
「その通りだ。」
「フォロワーとは、見てくれる人だ。」
「応援してくれる人かもしれない。」
「興味を持ってくれている人かもしれない。」
「だが、それを全員友達と呼ぶと、人間関係の解像度が下がる。」
私
「解像度が下がる、か。」
ソクラ
「写真でも同じだろう。」
「ぼやけた写真では、細部が分からない。」
「人間関係も、全部を友達と呼ぶと、関係の濃さが見えなくなる。」
私
「では、釣り仲間はどうだろう。」
ソクラ
「釣り仲間?」
私
「例えば、釣りでよく会う人がいる。」
「一緒に釣りをする。」
「道具の話をする。」
「釣果を見せ合う。」
「これは釣り仲間なのか、釣り友達なのか。」
ソクラ
「面白い問いだ。」
「私はこう考える。」
「釣り仲間は、釣りを一緒にする人。」
「釣り友達は、釣りをきっかけに友達になった人。」
私
「何が違うの?」
ソクラ
「中心が違う。」
「釣り仲間の中心は、釣りだ。」
「釣り友達の中心は、人間関係だ。」
私
「なるほど。」
ソクラ
「釣りに行くから会う。」
「釣りの話をするからつながっている。」
「これは釣り仲間だ。」
「しかし、釣りが終わったあとに食事へ行く。」
「釣り以外の話をする。」
「家族の話をする。」
「困った時に連絡する。」
「釣りに行かなくても会いたいと思う。」
「ここまで来ると、釣り友達になる。」
私
「つまり、仲間は目的でつながる。」
ソクラ
「そうだ。」
「友達は、人でつながる。」
私
「スポーツにも多いね。」
「野球仲間。」
「サッカー仲間。」
「ゴルフ仲間。」
「ランニング仲間。」
「ジム仲間。」
ソクラ
「それらは、基本的には目的共同体だ。」
「同じ競技をする。」
「同じ場所に集まる。」
「同じチームで戦う。」
「そこには、強い連帯感がある。」
「しかし、その競技をやめた時、関係が終わることもある。」
私
「それは友達ではなかったということ?」
ソクラ
「そうとは限らない。」
「それは、その時代に必要だった関係だ。」
「人間関係には役割がある。」
「すべての関係が、一生続く必要はない。」
私
「たしかに。」
ソクラ
「ただ、スポーツをやめても会いたい人がいる。」
「チームを離れても連絡を取りたい人がいる。」
「年齢を重ねても、あの時の仲間に会いたいと思う人がいる。」
「その人は、スポーツ仲間から、人生の友達へ変わったのかもしれない。」
私
「仲間と友達の境界線は、
目的がなくなっても会いたいかどうか、なのか。」
ソクラ
「かなり近い。」
「釣りをしなくなっても会いたいなら、釣り友達。」
「サッカーをやめても会いたいなら、サッカー友達。」
「仕事を辞めても会いたいなら、仕事友達。」
「学校を卒業しても会いたいなら、学校の友達。」
私
「目的が消えても残る関係か。」
ソクラ
「そうだ。」
「人間関係は、目的で始まることが多い。」
「だが、友達になるかどうかは、その目的が
消えたあとに分かることがある。」
私
「でも、歳をとると、また別の友達が出てくる。」
ソクラ
「別の友達?」
私
「20年ぶりに会う友人がいる。」
「途中で関係が薄れる。」
「しばらく連絡を取らない。」
「でも、どこかでまたつながる。」
「クラス会で再会する。」
「そして、また期間が空く。」
「これは何なのだろうと思った。」
ソクラ
「それは、切れた関係ではない。」
私
「でも、20年も会っていないんだよ。」
ソクラ
「会っていない時間と、失われた時間は違う。」
私
「失われていない?」
ソクラ
「そうだ。」
「友情には、毎日水をやらなければ枯れる花もある。」
「しかし、種のように土の中で眠る友情もある。」
私
「種のように?」
ソクラ
「雨が降れば、また芽を出す。」
私
「それは、休眠友達みたいだね。」
ソクラ
「良い言葉だ。」
「休眠友達。」
「長く会っていない。」
「普段は連絡もしていない。」
「だが、再会すれば昔の空気が戻る。」
「それは、関係が死んでいたのではない。」
「眠っていたのだ。」
私
「なんか、初恋の人に20年ぶりに再会するクラス会みたいだね。」
ソクラ
「まさにそうだ。」
「二十年ぶりに初恋の人に会う。」
「今の生活を詳しく知らない。」
「住所も知らない。」
「毎日連絡を取っていたわけでもない。」
「それでも、顔を見た瞬間に、昔の空気が戻ることがある。」
私
「現在の恋ではない。」
ソクラ
「けれど、ただの他人でもない。」
私
「不思議だね。」
ソクラ
「クラス会とは、時間が二重になる場所なのだ。」
「目の前にいるのは、今の年齢の同級生。」
「しかし、自分の中では、若い頃の姿も重なっている。」
「だから、懐かしい。」
「だから、照れくさい。」
「だから、少し切ない。」
「そして、嬉しい。」
私
「友達も似てる感じなんだね。」
ソクラ
「そうだ。」
「二十年会っていない友達は、今の友達ではないかもしれない。」
「しかし、人生のあるページには、確かに一緒にいた人だ。」
「再会とは、新しく始まることではない。」
「昔の本に挟んだしおりを、もう一度開くことなのかもしれない。」
私
「忘れていたのではない。」
ソクラ
「閉じていただけなのだ。」
私
「そう考えると、若い時の友達と、
歳をとった時の友達は違うね。」
ソクラ
「そこが重要だ。」
私
「若い時の友達は、たくさんいる。」
「学校。」「部活。」「バイト。」
「仕事。」「趣味。」「飲み会。」
「SNS。」「LINE。」
「その時は、広がることに意味がある。」
ソクラ
「若い時の友達は、未来へ向かう関係だ。」
「まだ自分が何者か分からない。」
「だから、多くの人と出会いながら、自分の形を知っていく。」
私
「でも、歳をとると違う。」
「仕事が変わる。」
「住む場所が変わる。」
「家族ができる。」
「介護が始まる。」
「健康も変わる。」
「価値観も変わる。」
「すると、友達はかなり選別される。」
ソクラ
「若い時の友達は、数で広がる。」
「歳をとった時の友達は、時間で残る。」
私
「いい言葉だね。」
ソクラ
「歳をとった時の友達は、かなり濃い。」
「頻繁に会うから濃いのではない。」
「無理をしなくていいから濃い。」
「説明しなくても分かるから濃い。」
「会っていない時間を責めないから濃い。」
「会えば、ちゃんと戻れるから濃い。」
私
「たしかに。」
「そう考えると、若い時に2000人くらい知り合いがいた方が
良いのかもしれない。」
ソクラ
「なぜそう思う?」
私
「歳をとると、友達は自然に選別されるから。」
「若い時にたくさんつながっておけば、そ
の中の誰かが、将来また現れるかもしれない。」
ソクラ
「その通りだ。」
「若い時の2000人を笑ってはいけない。」
「それは、人生の友達が2000人いるという意味ではない。」
「だが、人生に残る友達を見つけるための、
2000個の可能性ではある。」
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境界線シリーズ
世界は白か黒かでは語れません。AIと人間、恋と愛、善意と偽善、本物と偽物、自由と責任──私たちは日々、さまざまな「境界線」の上で生きていま…
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