【超・水戸学入門4-9】「最後の水戸藩主」徳川昭武の試練――焦土からの再建と理不尽な箱館出兵命令
1. 数奇な運命:水戸藩主襲封と明治天皇との絆
明治元年(1868)11月23日に昭武は東京城(とうけいじょう・旧江戸城)にて一歳年上の明治天皇に拝謁し、ナポレオン3世からの親書や贈答品を奉呈しました。その際、昭武は自身が見聞したヨーロッパで得た知識や情報を天皇に上奏しました。年の近い昭武に明治天皇は親近感を持ちました。明治天皇と昭武との関係は、このときに始まり、以後43年間にわたりました。この間、昭武に寄せる明治天皇の信頼感は終生変わることはありませんでした。
拝謁後の11月25日、昭武は、第11代水戸藩主に襲封しました。17歳での藩主就任です。歴史的には「最後の水戸藩主」となりました。
昭武の兄・第10代藩主徳川慶篤は、昭武がまだパリにいた前年慶応4年(1868)4月5日に亡くなりました。慶篤には鉄千代(篤敬)という世嗣がいましたが、当時の複雑な藩内事情により昭武に白羽の矢が立ったのでした。藩主慶篤は、水戸藩内において、市川三左衛門ら諸生派を信任して、父・斉昭や将軍慶喜と意見を異にしていました。これが幕末期の水戸藩混乱の原因の一つとなっていました。とりわけ、天狗党の乱の際に諸生党により天狗党に加わった藩士の家族が多数処刑されたり投獄されたりしたため、後々まで禍根を残すこととなりました。
戊辰戦争により、今までの体制が変わる中、4年近く国許を反対党に抑えつけられていた本圀寺勢(天狗派)が、市川三左衛門らの処罰を含めた勅命をもたらしました。藩主慶篤は、この勅を持って水戸に下り藩政改革を推し進めようとしたが、すでにその時には病状は悪化していました。慶篤の没後、藩政に返り咲いた本圀寺勢の中には、反対党の中で育った鉄千代(篤敬)をそのまま主君にはし難い空気があり、鉄千代(篤敬)が幼年であることを理由に、一旦、昭武を水戸家に復帰させて藩主とし、その後を篤敬に継がせることになったのでした。幼年とはいえ、鉄千代は、昭武のわずか二歳年下にすぎません。昭武は「中継ぎ的な立場」で水戸藩主になったのでした。「天狗党の乱」の時と同様、父・斉昭が残した藩内混乱の「尻ぬぐい」(負の遺産)を負うことになったのでした。
2. 昭武の藩政改革:農村経済の立て直しと藩内融和
昭武が帰国する直前の明治元年10月1日、水戸では弘道館を舞台に諸生党と本圀寺勢(天狗党)との間で後に「弘道館の戦い」と呼ばれる激しい戦闘が繰り広げられ、市川三左衛門ら諸生党は水戸から敗走し、下総八日市場の戦いで壊滅しました。元治元年の騒乱以来、藩内の抗争も、諸生党の壊滅と本圀寺勢の政権掌握によってようやく統一されることになったのでした。
昭武は藩主就任後早速水戸に帰国しました。父・斉昭没後の文久3年(1863)に水戸から江戸に出てきて以来、5年ぶりの帰藩でした。幕末から維新にかけての戦火により、水戸城や弘道館はかつての面影を失っていました。水戸に帰国した昭武は、混乱した藩政の実権を集中することに努力しました。本圀寺勢の政権が確立したとはいえ、藩体制の確立と藩財政の立て直しは、昭武が否応なく取り組まなければならない問題でした。
就任早々の昭武に与えられた課題は、①藩内の人心一致(藩内融和)、②農村経済の立て直しの二つでした。昭武は先ずのびのびになっていた前藩主慶篤の葬儀を執り行うと共に、武田耕雲斎以下天狗党ら、各地で幽死・刑死した多くの人々についてその待遇を改め、水戸に改葬することを許しました。
また、藩主就任直後、四人の郡奉行を呼び、各村に対して「数年来の国難で百姓ども難渋しかつ疲弊し、今もって難儀する者があるが、なお一層勧農撫育に努力するよう」伝えさせ、翌明治2年(1869)早々には昭武直々の領内巡視を行い、農業出精の者等を表彰しています。昭武は水戸への帰国後、混乱し、バラバラになった藩内の心の融和(藩内融和)を最優先に掲げました。

3.箱館出兵:理不尽な新政府からの命令と水戸藩の「尊王精神」
藩内の立て直しは喫緊の課題であり予断を許さない状況にありましたが、昭武にはこうした厳しい環境の中、日本への帰国直後、新政府より箱館五稜郭の旧幕府軍を討つべく命じられました。幕府海軍副総裁榎本武揚は、幕府艦隊八隻を率いて蝦夷地に逃走し、五稜郭を占領、さらには松前藩の福山城も陥れ、蝦夷地全島を手中に収めつつありました。しかし、これに対抗する艦隊を持たない新政府は、旧幕府軍への対抗として旧主筋の者を起用しようと考えたのでした。新政府が昭武に箱館出兵を命じた背景には、単なる兵力期待だけではなく、徳川家(水戸家)が旧幕府勢力(榎本軍)と通じていないことを証明させる「踏み絵」としての政治的意図も隠されていました。
昭武は、こうした政府の命に従い、箱館出陣のため水戸藩の軍制を改革して近代式軍隊に編成替えを行い、「常盤隊(ときわたい)」の精鋭200名が蝦夷地に出動しました。戦争の経過から新政府は、既に旧主筋徳川の力を借りるまでもないと判断しましたが、水戸藩側の強い要望により一部の兵力の出動が認められたのでした。水戸藩側が強く出兵に拘ったのには、旧幕府軍の戦意を削ぎ、水戸藩の新政府(天皇)への忠誠(尊王精神)を強く示すためでした。水戸から出兵した精鋭部隊は、1869年(明治2)4月江差に渡り、矢不来の戦、新道砲台・赤川神山の戦に参加、6月9日、東京に凱旋しました。水戸藩からは戦死者9名、負傷者19名を出しました。水戸藩が新政府から信頼を得るための尊い犠牲となりました。また、水戸藩伝統の「尊王精神」に偽りがないことを示す行動でもありました。
思えば、昭武は、帰国途中の上海で、蝦夷地共和国の統領に担がれる誘いがあり、帰国すれば逆に蝦夷征討の命を受ける等、本人の意思とは全く関係なく、矛盾した皮肉な運命に翻弄され続けました。しかし兄・慶喜や徳川家を守るために、新政府による、旧幕府軍の戦意を削ぐため箱館の旧幕府軍に旧主筋徳川家の力を利用しようとする、昭武にとってはあまりに理不尽で、政治的な思惑の強い命令にも昭武は愚直に従ったのでした。しかし、その底流にあったのは、光圀以来の「尊王精神」でもありました。
