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【超・水戸学入門3-6】幕末日本の奔流の中で(前編)――将軍継嗣問題と条約調印、そして斉昭の迷走

1.孤立する斉昭


安政2年(1855)10月、安政の大地震によって右腕であった藤田・戸田の「両田」を失うという痛手を蒙った斉昭でしたが、加えて堀田正睦が老中首座となったことに反発し、益々幕閣内で孤立を深めていきました。またこの頃、斉昭の野心の風評が立ったこともあり松平慶永や島津斉彬などこれまで斉昭を支持してくれた大名たちも距離を置くようになっていました。
さらに追い打ちをかけるように安政4年(1857)6 月、盟友・阿部正弘が没したことにより、幕府内での後ろ盾を失った斉昭は、同年7月幕政参与を辞任、表舞台から去っていきました。

2.斉昭と正弘


斉昭がそこまで信頼を寄せた阿部正弘との関係は、意外な形で始まりました。そもそも甲辰の国難の際に斉昭に謹慎処分を下したのは25歳で老中となった阿部でした。しかし、弘化2年(1845)に老中首座となってから斉昭と書簡を通して,海防問題などについて意見を交換する関係となりました。やがて正弘は、幕府内の反対を押し退けて斉昭を海防参与に抜擢します。

私的にも正弘は斉昭から多くの影響を受けました。その一つが福山藩弘道館の改革に際して、水戸弘道館にならい「文武一致」を掲げるなど教育内容を一新したことがあげられます。阿部は、福山藩弘道館の学制改革を行い、校名を「誠之館」(せいしかん)と改め、斉昭に扁額の揮毫を依頼しました。まさに正弘と斉昭は公私ともに盟友関係へと発展していったのでした。それだけに阿部の死は、「両田」を失ったときに等しい衝撃と喪失感を斉昭に与えたのでした。

徳川斉昭揮毫「扁額 誠之館(模写)」(出典:福山誠之館同窓会HP)

3.将軍継嗣問題と慶喜の困惑


安政3年(1856)7月、アメリカ総領事ハリスが着任。通商条約締結への交渉が開始されましたが、同時に13代将軍家定の後継問題もクローズアップされました。家定は病弱でも子もできず、就任当時より将軍継嗣は喫緊の問題となっていました。
後継には、家定の従兄弟である紀伊藩主徳川慶福を推す井伊直弼を中心とするグループ(南紀派)と、斉昭七男で一橋家当主の慶喜を推す斉昭はじめ、島津斉彬、松平慶永、伊達宗城、山内豊信などのグループ(一橋派)の対立です。

一橋派の中心・松平慶永は幕府に、慶福はまだ「御年も御幼弱」として「天下の人心」をつなぎとめるには「一橋公」でなければならないと力説しました。一橋派の中心は、家門と外様の大大名であり、ついで朝廷からの期待もありました。つまり慶喜を支持する勢力は、幕府の外にありました。彼等は既存の権威的な古い意思決定システム(旧体制)に挑戦する抵抗勢力(改革派)だったのです。
一方、井伊を中心とする南紀派にとって大切なのは、リーダーシップを取れる将軍擁立ではなく、旧体制の維持でした。将軍は血統正しい人がただ担がれていればよく、実際の政治は譜代大名を中心とする老中がこれにあたる、という保守的な考え方でした。
 
両者は、朝廷、大奥も巻き込んで激しい運動を展開しました。ところが、英明との評判が高かった慶喜自身は将軍就任への意志はなく、斉昭にもそのことを強調し、風聞の取り消しを求めるほどでした。しかし、慶喜本人の意志とは関係なく、将軍継嗣問題は、難航する条約問題と絡んで政局の中心課題となっていきました。

徳川慶喜(出典:Wikipedia)

4.迷走する斉昭

下田に到着したハリスは、強硬な姿勢で交渉を進めました。その結果、安政4年(1857)12月に入ると通商条約交渉も進展し、年末にはほぼ妥結しました。この間、斉昭は老中に驚くべき意見書を提出します。 それは「自らをアメリカに派遣してもらえれば、現地に商館を建てて貿易を行う」という、当時としてはあまりに突拍子もない内容でした。この提案は幕閣を狼狽させただけでなく、水戸藩内でも寝耳に水の話であり、家老が慌てて意見書を回収する騒ぎとなりました。かつての右腕・藤田東湖が存命であれば、このような迷走は起こり得なかったでしょう。東湖に続き正弘をも失った斉昭の孤独が、こうした極論を招いたのかもしれません。

5.大老井伊直弼の就任と将軍継嗣の決定


条約調印に向けて最大の難関は、朝廷の勅許でした。老中堀田正睦が上京しましたが、孝明天皇のかたくなな姿勢を変えることは叶わず、安政5年(1858)3月末堀田は空しく江戸へ帰府しました。
こうした厳しい情勢下、4月23日、井伊直弼は大老に就任しました。直弼と斉昭は、将軍継嗣問題が絡み、激しく対立していました。折しも大老就任前日には、「水府老公陰謀」説が井伊の元に届きました。これは「当将軍様を押込、一ツ橋殿を立、ご自身御権威御振なさる」という斉昭のクーデタ計画でした。これにより両者の関係は抜き差しならないものに発展しました。こうした情勢を受けて井伊は、6月1日,紀伊慶福の将軍継嗣を正式に決定しました。

井伊直弼(出典:Wikipedia)

5.「日米修好通商条約」調印と一橋派処分


安政5年6月16日、清はイギリスとの戦争(第二次アヘン戦争)に敗北し、イギリス、フランスと天津条約を結びました。これを受けハリスは、イギリス・フランスの脅威を説いてアメリカとの通商条約の調印を強く迫りました。井伊はあくまで勅許を得るまで調印延期を考えていましたが、最終的にはハリスに押し切られ、6月19日、ついに天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約の調印を断行しました。井伊はついで25日に将軍継嗣決定を諸大名に公表することを決定しました。直弼は無勅許条約に対する一橋派の攻勢を防ぐために先手を打ったのでした。

その前日、一橋派の尾張藩主徳川慶恕は、斉昭・慶篤親子と福井藩主松平慶永を誘って登城、違勅調印の責任追及を口実に将軍継嗣発表を延期させようとしましたが失敗に終わりました。 逆に7月5日、慶恕、斉昭、慶永らには、「不時登城」を口実に隠居や謹慎の処分が、一橋慶喜、徳川慶篤にも当分登城禁止という処分が下されました。

タウンゼント・ハリス(出典:Wikipedia)

 6. 戊午の密勅と安政の大獄


一橋派からの反撃は、斉昭らへの幕府の処分に不満を持つ孝明天皇によってもたらされました。 安政5年8月8日、朝廷は水戸藩に勅諚を下し、かつ諸藩への回覧を命じました。内容は幕政改革を促すものでしたが、幕府を介さず直接水戸藩に下された(幕府へは2日後)点を、幕府は「密勅」として重大視しました。
幕府は直ちに勅諚の返納を求めましたが、これに反発する藩士・領民が、9月に入ると水戸から江戸へ続々と向かいました。藩当局は江戸手前の小金宿(松戸市)で抑止に努めましたが、その数は1200名以上に及び、中には悲憤のあまり自刃する者も出る有様でした。

斉昭が訓戒に努めて事態はようやく収まった頃、今度は勅諚を受け取った水戸藩留守居・鵜飼吉左衛門、幸吉親子が京都奉行所に拘引されるという報が届きました。これから一年近くにも及ぶ、水戸藩関係者を中心とした尊攘派志士の逮捕・処罰、すなわち「安政の大獄」が幕を切って落とされたのです。 大老・井伊直弼としては、勅諚降下が「斉昭の命(陰謀)」である動かぬ証拠を捜索することが最大の目標でした。

安政6年(1859)8月27日、幕府は水戸藩関係者への最終的な処分を決定しました。斉昭に対しては国許での「永蟄居」、慶篤は「差控」、そして徳川慶喜は「隠居謹慎」という、極めて厳しいものでした。

斉昭としては、弘化元年以後、三度目の処罰を被ることになりました。御三家の当主がここまでの処罰を受けた例は他にありません。
安政6年9月1日、斉昭は駒込藩邸を水戸に向かって出発しました。斉昭が江戸に戻ることは、二度とありませんでした。   

斉昭は国防のための改革派でありましたが、彼のスタンスは御三家として佐幕であり、反幕ではありませんでした。しかし、井伊直弼から見た斉昭は幕府にとって危険で厄介な存在でしかありませんでした。ここに水戸藩の良かれと思ったことが裏目に出る「潜在的逆機能」が顕在化しました。

次回は、幕末史のエポックとなる「桜田門外の変」とその後、幕末維新の奔流の中での斉昭と水戸藩の姿を追っていきたいと思います。そしてエピローグとして、幕末の水戸藩・水戸学が後世に残したものを整理する予定です。


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