オトナの恋愛小説『水桜』 連載(10)
平岡の想いを、拒絶した水桜
恋は終わろうとしていた
そして、ふたりの第3章が
はじまる
それは、平岡和宏が、愛する女の過去を
さがす旅だった
第17話 とまどいの空間
その後、社長と秘書の関係は、なにごともなかったかのように、続いていた。
しかし、あの夜から、ふたりの逢瀬は、途切れたままだった。
「私の恋は、おわったわ!」
そう、自分に言い聞かせる水桜。
「はい、これ、プレゼント。明日、誕生日だろ
。あ、なんの下心もないから。よろこんでく
れるといいけど」
平岡は、そう言って、建築現場視察へでかけて行った。
サクラの花びらを模した、ダイヤのピアス。それに、硬めの白い封筒に入った、1枚のチケット。
「これ、ベルリンフィルの日本公演の。なかな
か取れない高額のプラチナチケットだわ」
翌日、水桜が出勤すると、平岡は、社長室のソファで寝ていた。
「社長、起きてください!8時40分です。ま
た、遅くまで、飲んでたんですか?」
「うっせ〜なあ〜、もうちょっと寝かせろ!」
「いいえ、起きてください。10時から、市ヶ
谷で業界の会議が入ってます」
水桜は、毛布を思い切りひっぱがし、平岡の腕を引っ張った。平岡は、上半身を起こしながら水桜の腕をつかんだ。
目と目が合って、水桜は目をそらす。
とまどいの空間が、ふたりを包んでいた。
「『恋人たちの場所』は、まだある?」
水桜は、黙ってうなずいた。
「複合コピー機の選定は、だれに任せますか
?」
「石橋にやらせてくれ」
「それから、ニューヨークでの学会の件です
が、ホテルは3泊しか予約してません。
あとの2泊は、どうしますか?」
「ニューヨーク郊外に、オヤジとおふくろが住
んでる。そこに、泊まる」
「承知しました」
「水桜、一緒に行かないか?ニューヨーク。君
を、両親に会わせたい」
「ここで、水桜と呼ぶのは、やめてください」
とまどいに耐えきれない水桜は、社長室を出ようとした。
「水桜」
平岡は、後ろから水桜を強く抱きしめた。あらがうことが、できない水桜だった。
「じゃ、秘書さん、行ってくるよ」
「明日の来ない恋」は、まだ終わらない。
事務所を出て帰宅する水桜を、石橋が追って来た。
「藤沢さん、さっきはありがとうございまし
た」
「いいえ、私も勉強になったわ」
複合コピー機の新規入れ替えで、その選定を社長から任されたのが、いちばん若い社員、石橋だった。石橋は、水桜に相談した。
「藤沢さん、一緒に食事しませんか?今日のお
礼に、ごちそうさせてください」
水桜と石橋は、後楽園ラクーアのレストランで、食事した。
「藤沢さん、カレシいるんですか?」
「残念ながら、いないわ。石橋さんは?」
「僕、カノジョいない歴7年です。女性と付き
合うより、仕事のほうが面白くて。うちの社
長なんか、両方器用にこなしちゃうからな
あ。理想的男性像です!」
「そうなの?」
水桜は、吹き出しそうになるのを、グッとこらえた。
「だって、そうでしょう。イケメンだし、頭も
いいし、背も高いし、金持ってるし。奥さん
は、有名企業の会長のひとり娘です。鈴木産
業の次の社長は、平岡社長だってウワサで
すよ」
水桜は、石橋の話を、聞いていない素ぶりをした。平岡の話題にはふれてほしくなかった。
「あのう、藤沢さん。ミオさんって呼んでいい
ですか?」
「どうして?」
「水桜って、ステキな名前だから」
水桜は、若い石橋が、まるで弟のように、かわいいと思えた。
「ええ、いいわよ。ただし、事務所の中では、
ダメよ!」
「はい、水桜さん!」
遊園地でデートする、しあわせそうな若いカップルに混じって、水桜と石橋は、ジェットコースターの爆音の下で、噴水を眺めていた。
「思い切って、言います!あの、水桜さん、僕
と、、、、」
爆音が、石橋の最後のフレーズをかき消した。
第18話 朝のトワイライト
平岡は、ニューヨークで毎年開催される、建築学会に出席するため、羽田空港近くのホテルに前泊することにした。朝イチの便に乗るためだ。
「秘書さん、忘れ物した。ホテルまで、届けて
くれ」
水桜は、平岡に頼まれた資料をプリントアウトして、ホテルまで届けに行った。
「この資料、PDFにして社長のノートに転送し
てありますよ。本当に必要なんですか?」
と、水桜は、ドリップコーヒーのとってを、カップにひっかけながら、不満そうに言った。
「ああ、今夜は必要なんだ」
「え?」
水桜は、資料が口実だったことに気づく。
小さなテーブルを挟んで、ふたりはコーヒーを飲む。
「石橋に相談されたよ。君と付き合いたいっ
て。君が好きだって」
「え!」
「君の気持ちを、僕に聞いてくれって。自分で
言えばいいのに、意気地のないヤツだ!」
「だって、私より7つも年下よ」
「男女の間で、歳は関係ない。僕と君も、7つ
違いだ」
水桜の頭の中は、混乱した。平岡の意図が、遠くにしか、見えなかった。
「石橋となら、普通の恋ができるな!」
「私、帰ります」
水桜は、ドアノブに手をかけようとした。しかし、平岡は、素早くドアの前に、立ちふさがった。
「水桜、今夜は、帰さない!」
平岡の熱い抱擁。全身がしびれるような、濃厚なキスが、水桜を襲った。
「水桜、君の子どもがほしい。僕の子どもを産
んでくれ」
「だって、あなた、半年したら」
「知ってたのか?」
「ええ、奥さまから聞いたわ」
ふたりは、テーブルに戻り、平岡は語り始めた。
「僕は、子どもを作った実感がないんだ。成美
とはもう、なん年もSEXしてない」
「どういうことなの?」
「体外受精だよ。受精卵を凍結するんだ。子ど
もの欲しい夫婦にとっては、最善の方法かも
知れない。否定はしない。でも、僕は、そこ
までして、成美の子どもは欲しくなかった」
平岡は、深いため息をついて、髪をかき上げるように、両手で頭を抱えた。
「今まで、なん度も失敗した。失敗するたび、
成美は半狂乱になった。僕が、協力的でない
って、うちへ帰るたび、責められた。成美に
に必要なのは、僕の精子だけだった」
「やっと、成功したのね」
「ああ、成美の歳だったら、成功率は15%くら
いだった。今度も失敗だろうと思って、のん
きに構えてた」
平岡は、残っていたコーヒーを飲み干した。
「今までは、家庭なんてどうでも良かった。で
も、君と出逢ってから、間違いに気づいた。
僕は、初めて女を愛した。女に甘えられるよ
ろこびを知った。君がくれる安らぎが、僕に
は必要なんだ」
水桜は、平岡の頭をやさしく、胸に抱いた。この世で、いちばん愛しい人だった。
「あなたが好き」
平岡の嵐のような愛撫。水桜の肢体は、身もだえ、激しい喘ぎ声をもらして、平岡の身体に吸いつくように濡れていった。
「あなた、体に気をつけてね。飲みすぎないよ
うにね」
水桜は、まだ眠る平岡の額にキスをして、部屋を出た。
「朝のトワイライトだわ」
「お客さん、なんか言いました?」
ホテルから乗ったタクシーの運転手が、水桜に問いかけた。
「トワイライトよ。日本語では、薄明と言う
の。朝日が昇る直前と、陽が落ちた直後のう
す明かりの刻のことよ。今は、朝のトワイラ
イト」
「へえ〜、お客さん、博学だね」
「朝のトワイライトは、今日の始まり。昨日と
違う、今日の始まりよ!」
「昨日と違う今日って、なにが違うんです?」
「新しい私の始まりよ!」
水桜の身体に染み込んだ、平岡との逢瀬は、忘れられないせつなさを残した。
「あなた、愛しています。心から」
