ママという鎧を脱ぐまで。嵐のような23年を越えて見つけた、50歳のランウェイ


50歳になった今、ようやく私は自分の人生の運転席に座れた気がする。約17年前、キッチンで包丁を握りしめ、自分という存在そのものを消してしまいたかったあの日の私には、今のこの穏やかな日常は想像もできなかったはずだ。すべては、あの嵐のような日々から始まった。

​存在を消したかったのではない。ただ、あまりにも必死すぎて、自分の名前さえ分からなくなっていただけだった。

ただ、怖かったのだ。嵐の中に一人で取り残されたような、あの孤独と恐怖が、今の私をここまで強くした。

未来を見つめる今の私になるまでに、乗り越えなければならなかった「嵐」があった。あの頃の私が、どんなに必死に、そして不器用にもがきながらも生きてきたのか。その記憶を、忘れないために書き記しておく。

今の私は、あの頃の毎日を詳細に思い出すことができない。忙しすぎて、必死すぎて、記憶が白く塗りつぶされているからだ。でも、ふとした瞬間に、あの重いベビーカーのハンドルの感触や、16時半を知らせる時計の音が、唐突にフラッシュバックして心臓が締め付けられる。

息子と娘がまだ小さく、手がかかる真っ只中の頃のことだ。お祭りの屋台の看板が落下してくるという、思わぬ事故にあった。息子を抱っこして屋台に並んでいたときのこと。上から看板が降ってきた衝撃と痛みは、想像を絶するものだった。すぐに病院へ行き、初診でCT検査を受けたが、家に帰ってからも落下の衝撃による痛みがどうしても治まらない。ただでさえ毎日の育児で限界なのに、どうして体までこんな目に遭わなきゃいけないのか。あまりの激痛と精神的な不安定さのなかで、私は人生で初めて、自分のために救急車を呼んだ。

救急搬送された後、私は「もっと詳しく調べてほしい」と、自分から願い出てMRI検査をしてもらった。あの時、なぜか「ちゃんと検査をしなければ」と強く思ったのだ。そして、自らお願いしたMRI検査の結果、思いもよらず見つかったのが「脳動脈瘤」だった。

あの狭く冷たいMRIの機械のなかで、ガタガタ、ゴトゴトと鳴り響く金属音を聴きながら、私の心は恐怖で凍りついていた。「もし私に万が一のことがあったら、この小さな子どもたちはどうなってしまうのか。ダウン症のこの子を、誰が守ってくれるの?」

看板落下事故から、約1年後のことだ。主治医の先生から「そろそろ手術しましょうか」と、頭を開ける開頭手術の説明があった。事故をきっかけに発見された未破裂脳動脈瘤を放置するリスクを考え、決断したことだった。当時、息子は5歳、娘は4歳。お医者さんから手術のリスクを淡々と説明されたとき、私は恐怖でお腹がカチカチに硬くなり、呼吸の仕方を忘れてしまうほどだった。それほどまでに、私はただただ、死ぬことが怖かったのだ。手術室の冷たいベッドの上で、心の中で『神様、お願いだから私を家族の元に帰らせてください』と、叫ぶことしかできなかった

あまりの恐怖とパニックで、私の精神状態は完全に限界を迎えていた。今だから言えることだが、当時の私は、キッチンで包丁を握りしめ、夫に向かって『お願いだから私を殺して!』と叫んだことさえあった。一番近くにいる夫にさえ、私の心の底にある「助けてほしい」「一人にしないでほしい」という叫びは、うまく言葉にして届けることができなかった。

誰にもこの狂いそうな心を打ち明けることができず、お家の城の中でただ一人、得体の知れない暗闇と戦っていた。術後、麻酔から覚めて、初めてぼんやりと目を開けたとき、視界の先に家族の顔が見えた。その瞬間、張り詰めていたものが一気に崩れ、涙がボロボロと溢れて止まらなかった。ああ、私は生きて、私の愛するお家へ帰れるんだ、と。手術から三週間後、夢にまで見た家族の待つ家へ、ようやく再び戻ることができた。

けれど、目の前には待ったなしの生活があった。朝起きて、洗濯、ごはんを作って、子どもたちの送り迎えなどをして、いつも通り1日を過ごさなければならない。母親として「大丈夫なふり」を必死にしながら、本当のところ、私の心には1ミリの余裕もあなかった。滋賀から嫁ぎ、実家から離れた兵庫での初めての子育て。ダウン症の息子の育児と、終わりの見えない家事。日々の出会いといえば『〇〇くんのママ』『〇〇ちゃんのお母さん』という肩書きばかり。誰かと出会っても、名前を呼んでもらえることはほとんどなかった。美幸という一人の女性の名前は、記憶の隅で埃をかぶっていた。

とくに我が家の夕食は、毎日16時半がタイムリミットだった。息子が19時台には眠りについてしまうため、それまでに食事を終え、お風呂に入れ、寝かしつけの準備を完璧に整えなければならなかったからだ。生活リズムが異なる夫のお弁当を毎日のように用意し、家事をすべて一人で回さなければならず、余裕なんてなかった。

息子がダウン症だと分かり、言葉の通じない不安を一人で抱えていた。発語がほとんどない息子への接し方や、死産の傷が癒えない中での手探りの育児。「もっと子どもの事を考えてあげられる、笑顔の絶えないお母さんでありたい」。そんな強い理想の想いがあればあるほど、現実とのギャップに空回りし、私はいつの間にか「自分なんてダメな母親だ」と自分を責める負のループにはまり込んでいた。

二人の子どもを連れての外出は戦いだった。縦型の二人用ベビーカーは小回りが利かず、なかなか思い通りに動いてくれない。息子は、自分の見たいお惣菜コーナーへと一瞬のうちに走っていってしまう。迷子にならないか常にヒヤヒヤしながら探し回ることは、日常茶飯事だった。きれいな服を着てママ友同士で楽しそうにランチしている方たちとすれ違うと、髪を振り乱して必死にカートを押す自分の姿との違いに、心がチクッとすることもあった。

必死すぎて自分が自分か分からなかったあの頃。そんな白く塗りつぶされた記憶の中に、鮮明に残っている一枚の絵がある。言葉で伝えるのが苦手な私たち夫婦が、絵を通じてようやく通じ合えた気がしたあの日の記録だ。

毎日が忙しすぎて、感謝の言葉が足りない私の代わりに、夫は私たちの日常をユーモアたっぷりの四コママンガにして表現してくれた。コーヒーが大好きな夫は自分を「コーヒーのお面をかぶったパパ」として、常に時間に追われている私を、耳がピンと逆立っているような「うさぎママ」として登場させた。あの頃に夫が描いてくれた四コママンガ約50枚は、今でも私の大切な宝物だ。四コマの中に、笑っている自分がいた。それを見た瞬間、胸の奥の氷が少しだけ溶ける音がした。「ああ、この人は私の必死な姿を、笑い話に変えて許そうとしてくれているんだ」。そう気づいた時、恥ずかしさよりも先に、熱いものが込み上げてきた。

さらには、夫は写真をトレースして、一枚の絵に描き直してくれたこともあった。線画でなぞられた私たちは、実物よりも少しだけ優しく、温かそうに見えた。一枚の絵の中に込められた、口に出せない不器用なエール。その線の一本一本に、私は何度も救われてきた。あの絵は、嵐の中の我が家に掲げられた、唯一の『安らぎの灯火』だった。

そんな孤独と戦いながら必死に生きていた私の世界に、もう一つの光が差し込んだのは約4年前のことだ。私は「マイコレ(マイストーリーコレクション)」を知り、京都の会場へと向かった。会場で目にしたのは、一般のお母さんたちがスポットライトを浴びて輝く姿だった。その衝撃に、私の魂が奥底から叫んだ。「私ももう一度、美幸として輝きたい」と。

2026年、私はついにマイコレモデルとしてステージに立つ決断をした。光あふれるランウェイを歩きながら、VIP席に座る夫の姿を見つけた時、華やかなステージから私は心の中で静かに呟いていた。「俊くん、私、自分の足でここまで歩いてこられたよ。いつも隣にいてくれて、本当にありがとう」と。

この経験をきっかけに、私は自分の歩んできた道のりを一冊の本にまとめることにした。かつての「嵐の記録」は、今や誰かの明日を照らすための灯火へと変わった。

マイコレのランウェイでステージに立ったあの感動を胸に、今、私は夫と新しい時間を歩んでいる。2026年の冬、障害福祉サービスという力を借りて、子どもたちをショートステイに預け、何十年ぶりだろうか、夫と二人だけで出かけることができたのだ。

ああ、そうだった。あの時、近くに住んでいた義両親や夫が差し伸べてくれた手に対して、当時の私は素直に「ありがとう」と言えなかった。忙しさと罪悪感で、心が麻痺していたからだ。感謝を口にすれば、自分が限界であると認めてしまうような気がして怖かった。でも、今の私なら分かる。あの時、彼らが積み上げてくれた沈黙と行動こそが、何よりの愛だったのだと。ようやく今になって、私はその愛を、痛みと共に受け取ることができるようになった。

そう思えるようになったのは、50歳という年齢のおかげかもしれない。50歳という年齢は、人生の折り返し地点だと言われる。けれど、私にとってこの年齢は、ようやく『自分自身の人生の第一章』が始まる合図のように思えるのだ。若さの輝きを失うことではなく、これまで背負ってきた重荷を一つずつ下ろし、ようやく身軽になって、自分の足で大地を踏みしめるための年齢。この先、耳鳴りがしても、心が揺れても、私はもう自分を置き去りにはしない。

そうしてようやく自分自身の時間を取り戻した今、私は日々のささやかな癒やしを大切にしている。心の中で歌を口ずさむこと。好きな香りを吸い込むこと。それは、生存することに必死だったあの嵐の中では知る由もなかった、贅沢な喜びだ。

完璧な笑顔とは言えないかもしれない。今も耳鳴りや心身の不調と向き合う日々だ。それでも、かつての私を抱きしめながら、今日という一日をどうにか生きている。50歳のランウェイ。そこは、派手なスポットライトが当たる場所ではないのかもしれまない。けれど、私と大切な家族が、ささやかな温もりを分け合いながら歩く、誰にも奪えない愛おしい場所だ。

私はこれからも、このランウェイを一歩ずつ歩いていく。たとえ明日が少し辛くても、あの日の私を抱きしめて、また笑って歩きたい。私の心に咲いた花と、あなたの心に秘められた花が、それぞれの場所で満開に咲いていきますように。

#創作大賞2026   #エッセイ部門



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