山から戻った時に「おかえり」が聞こえるまち、吉野山の道と暮らし
2004年、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界文化遺産に登録された。道そのものが遺産として登録されたのは、1993年に登録された「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路(カミーノ・デ・サンティアゴ)」に次いで二例目で、いずれも1000年以上の歴史を持つ。
高野山、熊野三山、そして吉野・大峯。和歌山、三重、奈良にまたがる三つの霊場とそこに至る参詣道のうち、吉野と熊野三山を結ぶ『大峯奥駈道』は別格とも言える険しさで、1,300年以上に渡って山伏たちが身を投じてきた奥駆修行に因む。
本格的な山岳装備が必要な修験道では、野営はもちろん、道中の水の確保についても現地の情報収集やしっかりとした計画が必要だ。加えて山ビルの生息域でもあるから、日は長くとも夏は適さない。
そんな大峯奥駈道の起点となるのが千本桜で名の知れた吉野山で、その集落を貫く通りもまた、その道の一部である。桜を鑑賞しながらそぞろ歩きする道が、そうとは意識せずとも世界遺産の一端であることも吉野の魅力の一つではなかろうか。
これは山と道、そして其処にある暮らしについての話である。
遠路はるばる吉野へ
私が初めて吉野を訪れたのは大学生の時。
その頃は奈良ではなく高知に居て、親しい人間が吉野へ行ってみたいと言うので遥々やってきた。ガソリンが1リットル90円台の時代。数日前に南海電鉄がフェリー事業からの撤退を発表した南海フェリーも、まだ深夜便があった頃の話だ。
高知から大歩危小歩危の大渓谷を越え、徳島の吉野川沿いをひた走る。徳島港から紀伊水道なる穏やかな海域を越え和歌山に至る2時間は、仮眠を取るなど船内で自由に過ごせるのが良い。
真夜中の海は何にも見えなかったけれど、内陸育ちの我々にとってこの船旅はロマンに溢れていた。同行者もまた高知県の山間部の出身だった。
そんな風に山越え谷越え、海をも越えて辿り着いた吉野は、地元奈良の一端とはいえ感慨深かった。何しろ高校の同級生が吉野出身で、部活の朝練のために郡山まで始発でやってきていたから、それはそれは遠いところという印象があった。
あれは夏だった。
しっとりした杉林を横目に歩いた気がする。確か道端でミヤマクワガタを見つけたんだっけ。上千本を過ぎるとほとんど人には会わなかったし、すれ違う車もほんの数台だった気がする。集落を歩くことが吉野山を登ることになる不思議な場所だ。
吉野駅近くの駐車場に車を置いて、下から歩いて吉野山を登った。

あの時は金峯神社の近くの源義経の隠れ塔を見てほほうと思ったくらいで吉野のことを殆ど知らなかったし、奈良を出るまで、自分が奈良のことを全然知らずにいることを気づいてすらいなかった。
そこまでの道はほぼアスファルトだったとは言え、誰も居ない水分神社で一息ついた時には「吉野へ来るときはせめてスニーカーじゃないとダメだ」と互いの足元のサンダル履きを見て苦笑いした。

帰郷のち
山歩きに誘われて、はじめに歩いたのは奈良の古道、山の辺の道だった。ハッキリ言って平坦である。初期の頃は寺巡りが中心だった。
だが仏教寺院の称号として付けられる山号は所在の山の名称であることが多いから、寺巡りとはすなわち山巡りでもあろう。吉野もまた、金峯山寺に立ち寄ることを目的の一つとして訪問した。
間近で目の当たりにした真っ青な蔵王権現は、ものすごい迫力で、奥大和はいわゆる奈良とは一味違うぞ、と悟ったのはこの時だったように思う。

それもやはり桜シーズンでも紅葉シーズンでもなく、師走のこと。
この時はじめて修験者の方達にも間近でお目にかかった。

今度はちゃんと山靴を履いて、大峯奥駈道の女人結界までの道や奥千本も巡ったが、ただでさえ日が短い上、山に囲まれた土地である。
薄暗くなるのが早い。
集落まで戻って一服し、そのあと吉野駅まで下ってゆく道すがら、なぜか芥川龍之介の『トロッコ』のクライマックスを思い出した。

明るい時分は普段とは違う場所にいる高揚感に包まれていたのに、すぐそこにある集落を後にして目指す自分の家が随分と遠いことと、日暮れの薄暗さが相まって焦燥感に駆られる。
その時なぜか、主人公の少年、良平の気持ちが染み入るようにわかった気がした。

工事現場を見に行く
2020年の春、当時の仕事の契約期間が終了するタイミングで、スペインの巡礼路「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路(カミーノ・デ・サンティアゴ)」を歩きに行くつもりでいた。
巡礼路からは外れるものの、ついでに完成してしまう前のクレーンに囲まれたサグラダファミリアも見ておきたかった。
いっそ二ヶ月ほどまとめて滞在してみようと思い切ったことを考えて、初めて次の仕事を探さず、荷物の軽量化を研究し、現地情報を収集して冬を過ごしたが、パンデミックに見舞われ、夢は潰えてしまった。
スペイン巡礼路(カミーノ)への憧憬もさることながら、いつ収束するとも知れぬコロナ禍で身動きを取れずにいる間にサグラダファミリアが完成してしまうのではないか、とまたしても焦燥感が募る。
県境を越えての不要不急の外出が制限される中、スペイン渡航のために貯めた費用に手をつけないよう出歩かず、最低限の光熱通信費と食費だけを毎月ポツポツと支払う日々を過ごしていた。
そんな折、独りお忍びで吉野山の金峯山寺を訪問し目の当たりにしたのは、周囲を錚々たる足場に囲まれ、屋根の上、天に向かって伸ばされたクレーンの、長い長い首を背負った国宝・仁王門だ。

極めて抽象度を上げて解釈すれば、これは私が見たかった光景ではなかったか。キリスト教ではなく仏教だが、信仰の場であることに違いはない。教会ではなく寺院だし、塔ではなく門だが、そんな些事に小言を溢すのは馬鹿げている。
これで良いのだ。
少なくとも無闇に感じていた焦燥感は和らいだのだから。

この金峯山寺の仁王門に収まっていた仁王像は、改修工事の間、奈良国立博物館の仏像館にて展示されている。東大寺の仁王像に次いで迫力満点な阿吽も、普段見ることのできない角度から鑑賞できる。
仁王門の完成予定は令和十年(2028年)。
創り続けている様でいて、実は修復なども交えながらジリジリと天高く伸び、塔の数を増やしてきたサグラダファミリアと、老朽化した柱などを解体し、新たに立ち上げてゆく金峯山寺の仁王門は、やはり同等に思われた。
仁王門を見てサグラダファミリアを想うのは、まるで南仏の風景の中で未だ見ぬ日本に焦がれて描き続けた絵描きのゴッホの様ではあるまいか。
時間座標を変えて何度でも赴く場所
クレーンを生やした金峯山寺の仁王門を眺めたあくる年、2022年には初めて春に吉野を訪れた。かの有名な千本桜に包まれる山を拝んだわけだ。
けれど桜見物が目的ではなかった。前年の晩秋に出会った、樹上の奇妙な彼らの様子を見に行ったのである。

桜の木に付いたこのぼんぼりは半寄生植物のヤドリギ(宿木)である。
ヤドリギは一般的な植物で言うところの土に張る根を持たない。代わりに寄生根と呼ばれる特殊な根で、樹木の枝から水と無機栄養を拝借して生きている。言い換えれば、土から離れてしか生きられない可哀想な生物である。
寄生根が着生しやすいのか、ヤドリギにとって桜は相性が良いらしい。
吉野山の桜守の方からすれば厄介な寄生生物だろうが、生物間コミュニケーションの観点では非常に興味深い。

ヤドリギの学名はViscum Coloratumと言って、属名のViscumは果実の粘性(Viscous)に由来する。
鳥が好んで食べるヤドリギの甘い果実には、種子の周り(果肉)にベタベタとした強粘性物質が含まれている。そのため鳥が糞をしようにも妙に尻切れが悪い。だから用を足したそのおしりを枝に擦り付けて、スッキリ解消してから飛び去っていくのだそうだ。
この樹上を狙った奇妙な鳥散布方式こそがヤドリギの生存政略であり、比較的樹上の高い位置に生えている理由でもある。
加えて生薬(漢方処方の原料)としても利用されるヤドリギは、その生薬名を「桑寄生」と言って、血圧降下のほか、主に痛みの緩和に用いられるようである。

桜の花が旺盛に咲き誇っている間は吉野に多くの人間がやってくる。
けれど儚く散り、向けられる人の目が希薄になる頃に現れるのは、果実目当ての鳥と物好きな人間である。
落葉しきった姿を見てどうにも気に入ってしまった桜の木を個人的に定点観察木に設定したので見にきてみれば、晩秋には人っこ一人居なかったその場所は、お花見ランチスポットになっていて微笑ましい。
吉野桜の錚々たる顔ぶれ
折角の機会だから、もちろん道すがら吉野桜を眺め歩いた。
日本各地に植樹されたソメイヨシノは花が散り始めると葉桜へと移行する。吉野山の主な樹種はシロヤマザクラで、花と赤みを帯びた若葉が同時に開くのが特徴だ。

そのため全体として桜がいる辺りはピンク色に見える。

だがヤマザクラは変異しやすいらしく、時に青々とした黄緑色の若葉を付けるものもいる。

そういった多様な変種を含め、他にも枝垂れ桜や八重桜など吉野山にはおよそ200種ほどのサクラが生息するというから驚きだ。

ちなみに吉野山では塩と梅酢で漬けた「桜の塩漬け」を桜湯(茶)として飲むほか、料理や菓子の彩りにも使われる。その原料となるのは豪華な花が目に楽しい八重桜だと聞く。

これで町のデザインマンホールに桜が登場しなかったら逆にビックリするくらい、吉野は桜の町である。

ちなみに花桃と桜とのわかりやすい違いは花弁の形だ。
桜は花弁の先端がハート型に割れているのに対し、花桃はスッと尖っている。桜と同じくバラ科の植物で、同じ時期に開花するので吉野山の彩りに一役買っていた。

実は私にとって桜はわざわざ見に行くようなものではなかった。
雑木の山の遠景を眺めてポツリポツリと白むヤマザクラの姿を認めれば春だなと思うし、山歩きの最中に思いがけず出会うのが楽しい。
通学路や川沿いの道の植栽は大抵ソメイヨシノとはいえ、高校や大学のそばが桜の名所であったことも、桜は暮らしの片隅にあるものという感覚を育てるのに一役買っていたのだと思う。
けれど実際に吉野山を訪れてみれば、樹種が多く、その山容にはコントラストがあることを知った。

本当に、実際に赴いてみなければ感じ取れないことの方が圧倒的に多い。
七曲坂と門前町
それまでずっと避けてきた、と言い切れるほどではないにしろ、桜シーズンの吉野は人が多いだろうと二の足を踏んできたのは事実だ。
それなのに、あえて桜花に埋もれるヤドリギを見にきたのは、やはりコロナ禍だったからである。県外からの観光客が減れば、例年に比べて桜シーズンの混雑具合もマシだろうと思った。この機を逃す手はない、と。
それで平日にふらりと出かけ、その週末にも再び吉野へと参った。

例年と比べようもないけれど、平日にも関わらずそれなりに人が居た。老若男女、国籍問わず、ついでに犬連れも多かったが、これは吉野山の吉水神社が、犬(ペット)の健康長寿や病気平癒などの御祈祷を行なっているからかもしれない。
それはそれは気持ちの良い、温かな春日だった。この日は集落の其処此処で、ソフトクリームを手にする人を多く見かけたくらいだ。

下千本の七曲坂を回避する形で設けられたロープウェイは、下千本が満開の頃なら眺めるに良いし、終わりかけなら七曲坂をスルーできること自体に心理的な満足を得られそうだ。何しろ七曲りのような蛇行する道を設けるのは、下千本のあたりが直登すればかなりの急坂だからこそだ。
空を滑りゆくロープウェイを見送って、緩やかな七曲坂を突っ切る急登の近道を登る。
七曲坂には多くの紫陽花が植栽されており、その数なんと4000本だというから驚きだ。梅雨の頃に吉野へ足を運べば、この七曲坂こそがメインルートになることは間違いないだろう。
七曲坂を越え、ロープウェイが到着する辺りから賑やかになる。

桜花と新緑のカラーリングの羊羹が可愛らしく、ピンク色の方に入っている塩漬け桜花が甘じょっぱくて美味しい。

街角には春の訪れを告げるミツマタやボケなどが咲き乱れていた。

三つの山門
しばらく行くと見えてくるのは金峯山寺の総門・黒門だ。城郭に用いられる高麗門様式で、現在の門は昭和60年(1985年)の秋、金峰山寺の本堂・蔵王堂の大屋根大修理にあわせて改築されたもの。
金峯山とは吉野山から大峯山に至る峰続きのことで、この黒門は軒を連ねていた修験道関係の寺院らの総門だったそうだ。かつては公家大名であっても、この門より先の寺内町では馬を降り槍を伏せて通行したという。

そんな黒門のすぐ手前に茅葺き屋根の小屋があって、中でキツネのにーさんが山栗を売っていた。こんなところに小屋があっただろうか、と人に化けきれていないキツネさんを微笑ましく思いつつ、帰りしなに買って土産にしようと通り過ぎた。

仁王門は相変わらず改修工事の最中で、幕に覆われていた。
その手前にある銅鳥居は、宮島の朱塗りの鳥居、大阪市天王寺の石の鳥居と並んで日本三鳥居の一つ。東大寺の大仏鋳造で余った銅を用いて聖武天皇が建立したとも伝えられる。
吉野山から大峯山に至る大峯奥駈道には、発心門・修行門・等覚門・妙覚門と続く金峯山四門があり、巨大かつ重厚なこの銅鳥居は第一の門・発心門にあたる。
修験者たちが俗界を離れて修行への志を立てる入り口に相当し、この鳥居に手を触れ、「吉野なる銅鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」と唱えて入山するそうだ。

道中、思わず足を止めてしまったのは、大粒の梅干しをどーんと乗せた白い握り飯が目に入ったから。ショーケースの中を覗き込めば「焼竹の子」にも目移りした。

やはり何度も訪れると、その土地に対する解像度も上がってゆく。気づいた時には採れたて揚げたての「山わさび天プラ」を手にしていた。
その名の通り葵のようなハート型の葉をした山葵は、日本原産の生薬として古くから民間薬にも用いられてきた山の幸だ。

ヤドリギの定点観察を済ませ、上千本を越えて進んでゆくと人通りはかなり少なくなった。

奥千本口に現れるのは黒門とも銅鳥居とも違った雰囲気が漂う木造の修行門だ。重要な境界であり、修験道の聖地、大峯山へと続く金峯神社の参道でもある。
これより先、奥千本へと向かう急坂は「心臓破りの坂」とも呼ばれ、俗世を離れた修験者たちが険しい山道を越えて心身を鍛える「祈りの道」が続く。

桜にまつわる信仰のはじまり
吉野桜の起源は修験道の開祖・役行者が修行の末に感得した蔵王権現の尊像をヤマザクラに刻んで祀ったことだとされる。それゆえ吉野では桜を御神木とし、献木された桜を植え、大切に守り続ける信仰が根付いた。
そして奥駈修行を志してやってきた西行法師が、二度の修行の間に魅せられた吉野桜を後の全国行脚の際に各地で褒めちぎったことで、吉野は全国に知られる桜の名所となった。

旅先で出会った県外の方に、「吉野の桜は人が植えてんですよ」と説明して驚かれたことがある。(吉野のことを何にも知らなかった私が偉そうに)
自然界のせめぎ合いの中ではヤマザクラがあれほど密生することはないと思うのだけど、それも身近に雑木の山が無ければ知り得ないことなのかもしれない。

あるいは現代の情報拡散の順序からして、かつてのように人伝てに噂を聞いてやってきて、初めてその光景を目の当たりにするという順ではないからだろうか。
切り取られたビジュアルを知り、それと同じものを観たくてやってくる。手元のカメラで見たことのある構図の写真を撮って満足してしまえば、話を聞く、踏み込んで調べるというステップが欠けてしまうこともある。
それを勿体なく感じてしまうけれど、現代社会ではイメージ先行事例はそう珍しくもないのだろう。

(平安時代の最末期のインフルエンサー・西行法師が二年余り過ごした場所)
それはそうと、酸っぱくて塩気が効いた件の梅おにぎりは、山歩きのお供にぴったりである。自分で握って持参する場合も梅おにぎりにするのだけど、これは良い。

熊野や吉野では高菜漬けに包んだ「めはり寿司」が山仕事のお供として知られているが、実は「わさび葉寿司」というのもある。
和歌山の有田地方や奈良の山間部が発祥とされ、貴重な海の魚を塩漬けしたわさび葉で包み、保存食としたり、ハレの日(祭りや田植え)の食事としたのが始まりとされる。

街と山が一体となった土地を歩き、景観と山の幸を楽しむ贅沢な時間を過ごした。
遅めの出発でのんびり歩いたからか、町へと降りてくると観光客はもうほとんど居らず、どの店も閉める準備をしていた。その傍らの道端で、出てきた地元住民たちが立ち話をしていたりする。
店の前を通り過ぎがけに挨拶すると、「おかえりなさい」と返されてなんだかじんわりとした。ついさっきまで山の中に独りで居て、町で感じる人の気配にほっとしていたところだった。
この町の人たちは険しい道をゆく人たちを見送り、また帰ってくる場所を構えてここに居てくれる。人の暮らしの気配、それは何よりの道標だ。

さて、予想はしていたが、黒門まで戻ってきたものの時すでに遅し。
キツネのにーさんが切り盛りしていた『やまぐり』のお店はシャッター……ではなく、簾が下りていた。

当然、山栗はお預けである。
ならばまた吉野山へ赴かねばならぬ。

(令和4年5月23日より新意匠が使用開始されたので、今となっては貴重な一押しになった)
あれから半年後
2020年から2023年にかけて『MIND TRAIL 奥大和 心のなかの美術館』が開催された。奥大和とは奈良県南部・東部の19市町村、山地山岳の暮らしと修験道の文化が根付くエリアのことだ。
コロナ禍においては他県からの修験者たちが赴けず、困窮する奥大和の営みへの動線としての「歩くアートフェスティバル」だった。

コロナ禍の自衛手段としてSNSをはじめとしたネット情報の9割を断っていた私が『MIND TRAIL』を知ったのは2021年の秋、会期終了間際のことだった。

2022年の秋、会場となったまちの一つ、吉野を再び訪れた。
と言っても、自然界の中に現代風のアートを設置されるとキョーレツな違和感(そこに居るはずのない魔物に遭遇したようなザワザワとした感覚)を覚える性分ゆえ、独り戦々恐々と歩いた。
何より私の場合はやはりアート鑑賞ではなく、山と道、そして此処にある暮らしを見つけにきたのである。ただ『MIND TRAIL』として整備されたルートを辿りながら眺めてみるのも面白そうだと思った。

吉野山の暮らしと一体になった生業には観光業や寺院のお勤め、あるいは桜守のような特殊な専門業もあるだろうが、吉野と言えば圧倒的に林業の町だという印象がある。

駅周辺はもちろん、町の至るところで木材がふんだんに使われているのも良い。なんなら自動販売機すら木目調に仕上げられている。

私が観光地を歩くときに気をつけているのは、其処に暮らす人の生活圏を侵さないことだ。それは自宅の裏手のひと気の少ない路地を見知らぬ人が彷徨いていたら不審に思うからでもある。

だから『MIND TRAIL』のルートでなければ入らなかったであろう路地などに堂々と踏み込めたのは楽しかったし、発見もあった。

天候のせいもあってか、ひと気がない。
だから余計に「行手に人ではない何かが居るぞ」と度々ギョッとする。

雨の後だったか。しっとり、どんよりとした吉野を歩いた。
滑りやすいところには分かりやすく表記されている。これは日常の一部なのか、それとも『MIND TRAIL』のための配慮なのか。

しっとりとした杉林の中を歩くのは心地良かった。

『MIND TRAIL』のテーマは自然とアート、そして自分との対話。
ここでのアートとは芸術作品のことだろうけれど、歩きながら自然と目についたのは、人の営みにまつわる人工物の方だった。

それがたとえ朽ち果てていたとしても、人の暮らしの痕跡はやはり道標のようなものだと思う。

何に使っていたのか、何故そうしたのか、もはや知る人はいないかもしれないけれど。

確かにここに人の営みがあるのだと感じながら歩く。

アートフェスティバルに来ておいて、全く関係の無いものばかりを撮るだなんて外道かもしれない。

けれども、これこそが私自身の土地との対話なのだから仕方がない。

上千本と奥千本のちょうど中間あたりの展望台に設られた立派な休憩所に、これでもかと贅沢に木材が使われているのを見て驚いた。

そんな空間から覗き見えるものもあった。

風見鶏を乗せたそれは『MIND TRAIL』のために設置された作品だが、曇り空の下に張りつけらているようで哀れに思えた。

解放してあげる方法はきっと一つ。

誰もいない山の上で桴を振るうと、低く唸る音が周囲の山々と空に溶けていった。

吉野山からのお便り
定番のクマ以外の動物をかたどったチェーンソーアートを吉野の町中で多く見かけたのは、きっと此処での暮らしに身近だからだろう。
もちろんクマも居た(コロナ禍らしくマスクを着用していた)が、郵便局のポスくまを見かけたのは吉野が初めてだった。

吉野の駅前と町中に設置された円筒形の郵便ポストには桜の装飾がなされ、それぞれ京都の俳人・貞室(江戸時代)と西行法師の句が刻まれている。それが松尾芭蕉も吉野へ呼び寄せ、桜を詠んだ詩が増えた。
吉野は桜と共に、詩も溢れる町なのだ。
日本独自の文化が誇る俳句は、世界で一番短い詩。元は複数の作者が集まって作る連歌・俳諧から派生したものだ。
それはまだ見ぬ誰かへ宛てた便りなのかもしれない。

おそらく私は何度でも吉野の地を踏むだろう。
桜シーズンにしか吉野山へ行かないなんて、人生の9割を損しているのだから。

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