第九章:新たな環境、再びの挑戦
新たな職場での初日、雄二は緊張と期待が入り混じった面持ちで会社のエントランスをくぐった。受付で名前を告げ、案内されたのは、予想通りの、どこか年季の入ったオフィスフロアだった。ソフトバンクのような煌びやかさはないが、ここには彼が求めていた「ものづくりの息吹」が確かにあった。部署に案内されると、社員たちは皆、黙々と作業に没頭している。フロア全体に漂うのは、油の匂いと、機械の単調な稼働音。活気もなければ、笑顔もない。まるで、過去の時間が止まったかのような、古びた工場だった。
雄二は自分のデスクに案内され、簡素な事務用品を受け取った。そして、直属の上司が紹介された。五十代半ばの男性で、初対面にも関わらず、雄二の目を見てニヤリと笑った。「おう、山城か。これからお前を鍛えてやるから覚悟しとけよ。悪いことは全部、俺から学びな」上司のよくわからない言葉に、雄二は戸惑いを覚えた。まるで、悪い手本になることを宣言されたかのようだった。
しかし、この時はまだ、その言葉がどれほどの意味を持つのか、雄二は知る由もなかった。

配属されたのは、製品開発職だった。業務はデスク作業と現場作業が半々で、CADでの図面作成や提出資料の作成といったデスクワークに加え、試作品の組み付けなども行った。その分、作業着は油や汚れで汚れることが多く、時には長時間、試作品の調整に没頭することもあった。残業は平均して月20時間程度だったが、雄二は「8時間やって帰る」をモットーに、定時で帰ることがほとんどだった。ソフトバンクでの経験から、自分の心身の健康を最優先しようと決めていたのだ。しかし、上司の仕事の振り方は、雄二の計画を大きく狂わせた。締め切りの2〜3日前にいきなり大量の仕事を依頼してくることが常だった。定時で帰ろうと準備を始めた矢先に、当日になって業務量が大幅に増加することもあり、プライベートの予定は常に組みづらくなった。定期的に案件の進捗を報告しているにも関わらず、直前になって「あ、これも必要だ」「やっぱり、ここをこう訂正してくれ」と、クローズ間際に大幅な手戻りや業務量の増加が発生することが多くあった。その都度修正を入れてくれていれば、こんなことにはならないのに、と雄二は内心で苛立ちを募らせた。
さらに、上司は暴言が多かった。直接雄二に浴びせることは少なかったものの、他の社員に対する容赦ない罵声が日常的にオフィスに響き渡った。「こんな簡単なこともできないのか、馬鹿!」「使えねえな、お前!」といった言葉を聞くたびに、雄二はソフトバンクでの記憶がフラッシュバックし、胃の奥が締め付けられるような不快感に襲われた。(俺は、また、道を間違えたのか…?)再び、絶望が雄二の心に影を落とした。
自分の能力を活かせない閉鎖的な環境。精神的に追い詰められるような上司の態度。毎日、工場と自宅を往復するだけの単調な日々。
そんな閉塞した状況の中で、雄二は「自立した男になるため」の一歩を踏み出そうとしていた。この会社に入社した時から、「3年で転職をして新天地へ」という目標を立てていた。その間に、人生の伴侶を見つけて身を固めることも計画しており、転職してから半年が経った頃、彼はマッチングアプリに登録した。何人かの女性と出会い、カフェで他愛もない会話を交わしたが、心を惹かれる相手はいなかった。
しかし、ある日、アプリの画面に表示された一枚の写真に、雄二の目は釘付けになった。はつらつとした笑顔の女性。彼女の澄んだ瞳は、まるで彼の心の奥底に沈んだ光を、再び灯そうとしているかのようだった。
佐藤美咲。
この予期せぬ出会いが、雄二の閉塞した日常に、新たな風を吹き込むことになる。彼の長く彷徨った転職活動の末に、ようやく見つけた「再起への一歩」は、想像もしなかった方向へと彼を導いていくのだった。
