若く、美しくという呪い〜映画「サブスタンス」感想〜
ここ数日、Xの映画垢のタイムラインを沸かしまくっている作品、「サブスタンス」、公開当日に観てきた。
公開されてまだ1週間も経っていないというのに、あちこちでさまざまな感想、考察がされまくっていて、色んな要素を含んだこの映画のどこにフォーカスして観たか、で議論、というか結構激しめの喧嘩すら起こしているこの作品。劇薬的な作品ではあるので、好き嫌いはあれど、観た人の感情になんかしらの波は立たせるであろう強烈な映画だ。
あらすじとか、デミ・ムーアがすごいとか、ゴアシーンの凄まじさとか、そういったことは他で散々語られ尽くされているので、もういいだろう。この映画を観て揺さぶられた僕の「若さ」「美しさ」についての考えを語りたい。
主人公のエリザベスは芸能界という若さ、美しさで永遠に比べられ、消費し続けられる社会に身を置いたことで、そうではなくなった(あくまで劇中の美の基準においてはだけど)自分に価値を見出せなくなってしまう。でもこれって、芸能界じゃなくても、勝手に見た目でジャッジされ、比べられて、他者から優劣をつけられるのって全女性がされてきたことなんじゃないかと思う。
僕はゲイだから、という前置きだけで、男性の女性に対する搾取的構造の加害者という立場から逃げることはできないと思う。僕は女性アイドルが好きだし、まあ彼女たちのことを決してルックスだけで好きになっているわけではないが、少なくともあの子はビジュが良いだの、この子はルックスはイマイチだからお笑い枠だの、でもパフォーマンスがいいからだの、お前誰目線だよなジャッジをやはりしてきてしまっているからだ。今まで実生活で関わってきた、同級生の女子たちにも、そういう視線を向けたことがない、とは決して言えない。劇中で反吐が出そうなほど最悪の存在だったTVプロデューサーのあの男、他人事として「やべーなあのジジイ」と思える男性が世の中にいるだろうか。
男性に生まれてきたというだけで、ルックスで勝手にジャッジをされるという地獄をほぼほぼ回避できてしまった僕だが、自分の中にエリザベスと同じ美への強迫観念はある。これはゲイだからとかでもなく、男性でもある程度の美意識を持つべき、美しさが一定のステータスになり得る現代では、彼女に共感する部分はあるのではないだろうか。
写真を見て、自分の顔に落ち込んだり、もし整形するとしたら口をどうにかしたいなとか思ったり、肌荒れがひどいからマスク取りたくないなと思ったり、鏡の前で全裸になって脚が細すぎる、もう少し胸筋が欲しいと思ったり。
難しいのは、少しでも若くみられたい、美しくなりたいと思う気持ちがまったくもって悪!とは言い切れないこと。自分の理想の姿に向かって努力して、綺麗でいることで自己肯定感が上がるのであればそれはポジティブなことだし、努力で美しさを保っている人に称賛が贈られることは悪いことではないと思う。ただ、別にレースはその1種目だけじゃないよということ。
この映画で、エリザベスのパーソナリティはほとんど語られることがない。彼女はどんな人柄なのか、交友関係は、家族は、趣味は、好きなことは…これらの情報が一切出てこないのは、彼女が美しさ以外になんの興味もない空虚な存在、と捉えることもできるかもしれないが、それよりも「美しさ」という点以外には何も求められていないから、それ以上彼女について知ることも語ることもない、と決めつけられた世間からの見られ方なのかなぁと僕は思った。見た目以外の要素を、彼女は男達に、世の中に削り取られてしまったのだ。
美しくはなくても、少なくとも若いという要素だけは十分に持っている僕。シワのない、重力に逆らってたるんでない皮膚が失われたとき、それに固執するんじゃなくて、人間性とか知識とか経験とか、他で十分自分自身のアイデンティティを保てる未来でありたい、そんな風に僕は思った。とはいえ僕は欲張りなので、当面はニキビひとつないツルツルピカピカの肌と均整のとれた美ボディーを目指して、見た目からも人を惹きつけられる人間になりたいと思っているわけですよ。たぶんそれは、他者の視線とかのためじゃなく、自分の為にね。
