世界遺産登録前に中国・高句麗遺跡の旅各所で史跡整備、先人の足跡を探る古代ロマン
先人たちの足跡を探見する古代遺跡をめぐる旅に何度か出かけた。「失われた文明の痕跡に触れる」という体験には共通して、心の奥を揺らす力がある。北朝鮮と中国にまたがる高句麗遺跡の壁画古墳群などが2004年10月に世界文化遺産に登録された。高句麗は中国東北部から北朝鮮にかけて、紀元前1世紀後頃から668年まで続いた大国だった。世界遺産登録直前の5月に、その高句麗遺跡のうち中国の集安・桓仁を訪れた。
権力を誇示した大規模な城壁遺構
このツアーは「騎馬民族のルーツを訪ねて」と銘打った旅行社の歴史移動教室で、同行講師は西谷正・九州大学名誉教授だった。成田から空路わずか2時間で瀋陽へ。その足で遼寧省考古研究所を見学した。考古研究所は博物館と違って一般に陳列して見せる所ではないのだが、ここは改装で立派な展示室が備わっていた。若い考古学者の李新金副所長の案内で高句麗時代を中心に出土品などの説明を受けた。

翌々日には、いよいよ高句麗の国家誕生の地とされる遼寧省にある桓仁へ。現地では、標高820メートルに築かれた五女山城跡を見学した。途中仰ぎ見た五女山は、長い平台のようになっていて、上部は玄武岩の壁になっている。まさに難攻不落な自然の立地を活かした要塞だ。急坂の登山路には手すりがあり、迂回路もあった。近年、大がかりな発掘調査が行なわれ、史跡整備が進んでいた。城壁や門址、建物などの遺構が露出展示され、スケールの大きさをうかがい知ることができた。
山頂から見る眺望は格別だったが、大規模なダムが建設され、平地にあった積石塚などの遺跡とともに、高句麗歴史の痕跡が水没してしまったことは、理由はあったにしても残念なことだ。桓仁には平地にも拠点的な都城として下古城子城があった。東壁を除く西、南、北には一部土塁が残っており、往時をしのぶことができる。山城と密接な関係にあり、非常時には山城に移り、敵に備えたのであろうと想像できた。
鴨緑江(おうりょくこう)をはさんで北朝鮮と国境を接する吉林省の集安は、4世紀頃に遷都され、長寿55年に現在の北朝鮮の平壌に都を移すまで首都であったとされる。国内城は約700メートル四方に囲まれており、北壁がよく残っていた。その西北寄りの所で城門が、さらに近年、西壁に接して大がかりな排水施設などの遺構が見つかっている。断片的な発掘調査が集積され、次第に全容が判明していくのが考古学の興味深いところだ。


集安でも桓仁同様、平地の国内城から約2.5キロ離れた小高い山に城が築かれている。日本の城郭と異なり、王城と山城がセットとして捉えることができる。丸都山城と呼ばれる山城は、いくつかの尾根や谷をめぐって周囲7~8キロもあるそうだ。ここも発掘調査と整備が進んでおり、南門や見張り所跡を見学できた。西谷先生の説明では、さらに宮殿遺構も見つかり、そこでは八角形の建物遺構があり、仏教関係の建物とされるなどまた一歩、解明が進んだという。

丸都山城のふもとに無数の積石塚や封土墳などが分布する。東西8キロ、南北3キロにおよぶ集安の洞溝一帯には約70基もあるというから驚きだ。それぞれに石室があり、当時身分の高かった方たちが眠っていたと思うと人間のはかなさを実感した。

「好太王碑」はガラス張り楼閣に
集安には高句麗の栄華をしのぶ遺跡が随所に残っていた。目玉は改ざん論争に揺れた「好太王碑」だ。1600年以上前の414年に長寿王が父の好太王(広開土王・374)~412)の功績をたたえるために建立したものという。かつて風雨にさらされていたが、現在は全面ガラス張りの楼閣内に鎮座していた。

倭の朝鮮半島への進軍の記述をめぐって改ざん問題が生じた。その問題提起をした李進煕煕・和光大学名誉教授(故人)も別グループで現地入りしていた。中国ではもっぱら「改ざんなし」との見解が大勢になっているが、李先生は「石灰が広範囲に残っていたことが確認されており、精密な科学調査をすべきだ」などと譲っていない。その真偽はともかく、よくぞ6.5メートルもの巨大石の四面に1775文字も刻んだものと驚嘆した。

周辺には一辺約62メートルもの巨大墳の太王陵や、市街を眺望できる丘の上に築かれた重厚な将軍塚などがあった。日本の古墳も同じだが、墓碑銘が残っているわけではなく被葬者の特定は難しい。高句麗を代表する太王陵や将軍塚ですら、いまだに学説が分かれる。ところが太王陵の発掘調査で、「好太王」の銘のある銅鈴が出土したことから、中国では、太王陵が好太王の、将軍塚が長寿王の墳墓だとの見解が通説になった。銅鈴は集安市博物館に展示されており、文字がはっきりと読めた。
巨大な石を積み上げて造られた将軍塚帯は、数年前まで民家が密集していたが、すっかり取り除かれ史跡公園に生まれ変わっていた。2003年に世界遺産の審査のため訪れている西谷先生も「遺産登録の申請に向けて一大事業ですね。土地が国有だから出来るんですね」と、感慨深げに語っていた。


しかしもっと驚かされたのは、市域を取好太王の墓り囲む国内城の域内を街ごと移転し、整備すると聞かされたことだ。案内していただいた金旭東・吉林省文物考古研究所長は「すでに市役所の移築が始まっていますが、新しい建築は一切認められません。今後80年から100年かけてすべての建物を撤去します」と言い切っていた。
何と壮大な構想だろう。観光開発への思惑もあろうが、日本では考えられない文化遺産への並々ならぬ取り組みなのだ。
マイクロカメラで内部撮影
歴史的に日本と深い関わりのある高句麗遺跡で、とりわけ注目していたのが壁画との対面だった。中国側の壁画古墳は10数ヶ所のうち、これまで6ヶ所は石室への扉があり、その一部は見ることが可能だと聞いていた。しかし一つとして見ることができなかった。世界遺産の指定を直前に控え、国家文物局からの規制も強くなったためだ。
確かに約1500年も前に描かれた壁画は貴重で、公開に制限が伴うのはやむをえない。日本では湿気が多く、カビの発生が深刻な問題で、キトラ古墳の修復保存が急がれている。金所長や西谷先生も「これからは保護を優先させるべきだ」との見解が示された。高松塚やキトラ古墳の現状を考えれば当然の帰結かもしれない。

いくつかの壁画古墳をめぐった。どこも周囲に金網が張られ監視カメラが設置されていた。過去に三室塚で行列図が、長川1号墳でも高句麗人の風俗を表す貴重な壁画が盗掘されている。また2003年夏には国境地域の古墳から遺物を持ち出した朝鮮族の住民が、銃殺刑に処せられた報道もあった。

左側は月精で両手に月、右側は日精で三足の鳥を描いた太陽を掲げる
高句麗の装飾壁画を代表する舞踊塚や角抵塚にも足を運んだ。舞踊塚では腕を上げ踊る民衆の姿や、鹿など野獣を馬上から弓矢を放つ生き生きとした狩猟の様子が鮮やかな彩色壁画が描かれている。その絵画を取り上げたカラーの資料を手にしながら、現地を後にしたが、目と鼻の先にある厳重な扉の向こうには、現物があると思うと複雑な思いにかられた。
また五盔墳五号墓の古墳には壮絶な騎馬戦の果てに敵将を斬首する場面などが鮮やかに描かれている。角抵塚にはシルム(韓国相撲)や、三室塚の西域の人物たちなどの題材から、高句麗がユーラシア草原を通じて西アジアとも交流していたことが窺い知れる。北朝鮮には、高句麗の人々が何を食べ、どんな服を着ていたかなど庶民の暮らしぶりを物語る絵が残されており、現代人へのメッセージとなっている。
ただ五盔墳4号墳だけはマイクロカメラの遠隔装置によって、管理棟のモニター画面で内部を手に取るように見ることができた。壁画は一般的に白い漆喰を塗った石室内の壁をキャンパスに描かれているが、ここでは花崗岩に直に描かれているということだった。青龍、白虎、朱雀、玄武の四神が大きく写し出される。肉眼では捉えられない明るい画面で自由自在に見ることができた。高松塚にも導入できれば、あの「飛鳥美人」が写真とは違った現場感覚で見ることができるのにと思った。


平山郁夫画伯が1967年に邪馬台国の女王を想像し描いた《卑弥呼壙壁幻想》は、北朝鮮にある水山里古墳壁画の資料を参考にして、長いスカート姿にしたそうだ。1972年に発見された高松塚の女性像とそっくりな服装だったので感動したという。その後、平山画伯は1977年に初めて北朝鮮を訪れ、高句麗壁画を目にした。以来、ユネスコ親善大使として9回も訪れ、世界遺産への道筋をつけるのに貢献したのだった。
高松塚やキトラと密接な関係
わが国では2004年5月、奈良県明日香村のキトラ古墳を調査していた文化庁が「十二支像」の一部を赤外線写真で公開した。すでに石室内の天井に天文図、四面の壁に四神図の彩色壁画が確認されている。それより先、約1キロ離れた高松塚古墳でも朱雀を除く同じような四神図や天文図、そしてあの「飛鳥美人」で知られる人物像の大発見があった。中国由来の守り神とされる四神を描いた壁画古墳は、明らかに高句麗遺跡に数多く散在する壁画古墳との類似性があり、日本の歴史や文化に深く影響したと見なされている。
旧知の千田稔・国際日本文化研究センター教授(当時にいて故国が唐・新羅連合軍に滅ばされた百済王親子が被葬者ではないかと推定している。日本の天皇陵には見られない特有の壁画であり、両古墳とも外形は円墳である点などを指摘している。本来なら闇に閉ざされたはずの古代人の描いた壁画は多くの歴史ロマンを誘うのだ。
2004年1月、東京で「高句麗と東アジア」のテーマでシンポジウムが開催された。西谷、李両先生をはじめ第一線の学者たちが出席した。その中で司会にあたった大塚初重・明治大学名誉教授は「東北アジアで強力な力を誇った高句麗文化の特色は何といっても壁画古墳です。3~7世紀にわたる約400年間もの当時の風俗や習慣、信仰から天文にいたるまでの高句麗人の精神世界を如実に伝えています。日本の高松塚やキトラ古墳との関係にとどまらず、古代日本の歴史を考える上でも重要です」と強調していた。

ツアーは観光目的と違っていたため、考古学に造詣の深い人たちがほとんどで、大学や文化財埋蔵センターの研究者らもいた。山中の狭い道路にも入れるようにマイクロバスで移動した。10日間、昼夜を問わず懇親できたのも収穫だった。それぞれの専門分野からの解説も聞くことができ、高句麗に関する資料も見せていただいた。
高句麗は700年におよぶ興亡の歴史の中で都を移し、5世紀に入って平壌に王都を構える。中国と北朝鮮を一日一往復で結ぶ鉄道橋近くの鴨緑江のほとりに立つと、わずか200メートルそこそこの川幅が国境だ。対岸に遊んでいる子供や往来する人々の姿が手に取るように見える。金日成前総書紀の大きな肖像画やその指導をたたえる看板を目にすると「近くて遠い国」を強く意識した。


古代人の美意識を誇示する装飾古墳は北朝鮮側に多く分布し、合わせて百カ所近く数えている。文化には垣根がない。両国にまたがった今回の世界遺産登録の実現によって、日本との文化交流が進むことを願ってやまない。そのためにも北朝鮮はじめ中国、韓国、日本を含めた出土品や壁画模写などを集めた「高句麗展」の開催がのぞまれる。
なお北朝鮮の高句麗遺跡調査は2005年9月に実現しており、この連載の第5回に詳述している。さらに韓国の高句麗遺跡についても次回に報告する。
古代遺跡の魅力は、第一に、時間の深さに触れる感覚になる。第二に、文明の息づかいが残っている。いわば「無言の語り部」であり、想像力を刺激する。第三には、遺跡は多くの場合、周囲の風景の中に溶け込んでいる。そこには悠久の歴史によって変容した美しさがある。
