「考察」を考察する

「令和ロマンの娯楽がたり」という番組で、なぜ考察ブームが来ているのか?という話題が出ました。めっちゃ面白かったです。色々考えさせられました。日頃から感想記事を書いていて考察に近いことをやっている自分なりに、「考察」を考察してみます。

娯楽がたり、みんなが思っていることが綺麗に言語化されていくから面白いですよね。くるまさんが早口で言語化していく番組がもっと見たいです。




前提

ここで述べられる「考察」は、ドラマや漫画などのコンテンツに対して、インターネット上で繰り広げられる、展開の予想や伏線の共有などを指します。アカデミックでのdiscussion的な意味合いはありません。

結論:考察は共感由来

まず個人的な結論から述べると、「共感」がベースにあると考えています。視聴したコンテンツに対し、あれこれ考えたもの、対象への熱量や愛を、分かってほしいという感情が考察という行動に現れているのだと思います。

生まれながらにして人間はコミュニケーションを取らないと寂しくなってしまう生き物であり、現代はテキストベースのコミュニケーションツールをいとも簡単に使えてしまうので、「共感」を求めて考察を発信するのだと思っています。そして、その「考察」に対して他者の反応がすぐに反映される。その反応が数値化されると、共感、すなわち承認欲求が満たされて、自分が認められた気分になります。そしてまた「考察」を始めてしまう。そのサイクルが考察ブームなのかな、と。

「考察」は誰でもできるし、クリエイティブではない

至る所で「考察」が起きるのは、圧倒的に実現のハードルが低いことによるものだと考えます。例えばYouTuberになって再生数を稼ぐことは一見誰でもできそうなことに思えるのですが、再生されそうな動画にする内容を考える必要があります。そこに0→1のクリエイティブな要素が存在するので、全員ができるとは限りません。一方、「考察」をインターネットに発信し拡散させることは、Xなどの媒体にテキストを投稿し(その内容は吟味する必要がありますが)、ハッシュタグという、誰もがトレンドに載せられるタグを付けることで、多くの人の目に触れることができ、1ボタンで好意が寄せられ、1ボタンで拡散されます。比べるとあまりにも難易度が低い。「タイパを上げたい」という指摘が番組内でありましたが、「考察」という行動自体のタイパがまず良いんです(内容次第で、いくらでもタイパを悪くさせることもできる)。

それに、「考察」自体も基本的には、既に出来上がっているものの一部(例えば、余白を残して完結した映画の解釈など)や、将来の出来事(ドラマや漫画の途中部分での展開とか)を予想したりすることで生まれるものなので、0→1のクリエイティブは基本的にありません。クリエイティブを必要とせず、簡単な手段で他者から共感を得ることができて、承認欲求が上がる、こんなにも都合のいい手段は無いんですよ。そりゃあやるよ。自分もそう。

途中での行き過ぎた考察について

娯楽がたり本編でも、考察に「こうなってほしい」という願望が含まれている、という意見がありました。これはかなり本質的な指摘。

コンテンツ途中段階での「こうなってほしい」という考察に対して、そうでない展開が来てしまった時に、考察をした人が、自分の考察の通りにならなかったからという理由で満足しないのは、コンテンツの視聴者の態度として良くないと思います。「こうなってほしい」のベクトルがみんな違うと、みんなを満足させるのは難しくなってしまいます。トム・ブラウンさんじゃないですけど、「どうなっちゃうんだ〜〜」くらいの気持ちでコンテンツを見るのが精神衛生上健全だと思います。見終えた後に、感想を含めて批評するということを、自分自身なるべく心がけています。

考察が「主」になるコンテンツは良いものではない

考察ブームはほぼ間違いなく「あなたの番です」から来たと思います。当時は自分もめっちゃ真剣に考察してました。黒幕も当てました。そこで気づいたんですけど、そこから始まった考察が「主」になることで得する人は少ないんじゃないか、と思いました。

正直に言って、何度でも再生できる媒体で、多くの人の目に触れるSNS時代に、誰にもバレない凄い伏線を残すことは至難の業です。誰かしら気づきます。ミステリー系のドラマで、「誰が犯人か?」を主題とするドラマで色々考察させたとして、大体の推論は出尽くしてしまうのです。そんな訳ないだろみたいな考察も平気で出てきます。

そうなった時のドラマのネタバラシの反応は、「出尽くした予想のうちの一つに終わり、想像を超えない」か、「論理の飛躍がありすぎる結末に視聴者ががっかりする」の二つになってしまうんですよね。考察をしている時が一番楽しい状態。これってコンテンツ自体は評価されないし、視聴者も後味悪いから、得をするのは視聴率を取れたテレビ局(大きく言うと、配信プラットフォーム)だけなんですよ。

上記のVIVANTの感想記事でも述べたのですが、考察されることが「主」ではない(考察されることを前提に作っていない)VIVANTは、終わり方もめっちゃ良かった。こういうコンテンツが増えてほしいなと思います。
考察を主とするものは、途中まではめちゃめちゃ盛り上がる麻薬のようなものですが、考察が主になってしまうと、ネタバラシが消化不良になってしまうという副作用があって、全体としては良いことではないと感じます。

「考察」が終わることはない

少なくとも「考察」という行為自体が終わることは無いと思っています。

テレビドラマや漫画など、全ての伏線を拾い切り、対象世界全てを描き切ることは非常に難しく、また、物語に解釈の余地を与えられるよう、あえて描かないものも存在します。このようなコンテンツに対し、作者から提供されなかった部分が考察されるのはごく自然な行動で、故に「考察」という行動が終わることもない、ということです。

コンテンツへの愛が溢れると、誰かに話したくなりますよね。結局「考察」はそれでしかないんですよ。オタクが早口で喋るアレです。こんなにも世の中に面白いものが蔓延っているのに、愛を止める訳にはいかないんです。止まらない愛を垂れ流している時間が楽しいんです。その愛が歪んでしまうことで、間違った方向に向かってしまうこともあるし、自分の考察と違うからコンテンツを否定することは良くない。でもやはり、僕たちは「考察」したい生き物なんだと思います。他者の愛を見ることによってもまた、考察したくなる。考察だ〜やったやった〜〜!これで良い。



まとめ

以上のことをまとめます。

  • 「考察」の根源は対象への愛や熱量に対する「共感」を求めるものである

  • 「考察」は実行へのハードルが低い割に得られる共感量が多く、簡単に承認欲求を得られる

  • 他者のコンテンツが無ければ起こり得ず、そこから生まれるものも特にないので「考察」はクリエイティブなものではない

  • 「考察」という行動自体は全く悪いことではないが、「考察」が主になることを狙ったコンテンツは良い未来が配信プラットフォームにしか来ない

  • コンテンツで対象世界を全て描き切ることはできないので、「考察」が終わることはない

  • 「考察」は楽しい、「考察」が外れたという理由だけでコンテンツを否定しないという態度を取ればもっと楽しい

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