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オタクが日本人に嫌われる理由は「文化ではない」からではないか?

SNSにはオタクが多い。あるいはオタクではなくても「オタク気質」の人が目立つ。ネット原住民、ネット民族と呼ばれる空間で形成される常識や一般論は、オタクによってかなりゆがめられている。

これは20年以上変わらない。今は老若男女問わずネットが普及しているから、むしろ余計に「オタク」と「一般人」の乖離が目立ってしまう。

ごく普通の日本人に、オタクがなぜ嫌われてしまうのか。それはオタクと言うのが本質的に文化と矛盾するからではないかと私は思う。


「自分だけで閉じた世界」がオタクの本質

いい例がこの投稿である。いわゆる「鉄道オタク」が要らない駅トークで盛り上がっている中、同じ鉄道好きの間からの反論だ。

私はこのポストをみて、これがオタク問題の本質だ!と気づいた。つまり「自分にとって関係性があること」が全てであり、それ以外は「不要」ととらえる思考停止がオタクなのだ。この思考を無意識で持っている人と、それはおかしいと気づける人かが「鉄道オタク」と「鉄道ファン」の違いだろう。

これは鉄道趣味だけの問題ではない。アイドルでも、アニメ・ゲームでも言えることだ。

たとえば筆者は子どもの頃に、見逃したテレビ番組をどうしても見たくて海外の動画サイトで見ようとしたことがある。その番組にはジャニーズ事務所のタレントがゲストで出ており、番組名や放送回を調べると韓国人のジャニオタ(ジャニーズ事務所のグループのファン)がハングル字幕付きで挙げていた。しかしどうも様子がおかしい。VTRがとぎれとぎれで不自然なタイミングでカットが入っている。なんとひいきの演者が出てくるシーン以外すべてカットしていたのだ。

その放送のテーマは日本のある地方文化の紹介で、彼らはあくまでゲストとして出演している存在でしかなかった。番組サイドにすればゲストは賑やかしの「オマケ」みたいなものだが、ジャニオタからすれば、全「推し」が出演しているシーンだけを見られればく支離滅裂でなんのことかもわからない映像になろうとも本編こそどうでもいいということなのだ。その「推し」が身体をはって伝統芸能体験をして、その魅力を若い視聴者に伝えようとしていても、「推しが推しであること」が目的なオタクには、自分の興味の範疇以外の地域の文化なんてどうでもいいのである。

ジャニオタにまでならないくらいの女性であれば「イケメンのタレント」が出ているということに好感情を持っても、同時に自身の好奇心を彼らが全力で伝えようとする郷土文化に向けられ、そこまで偏ることはなく番組の送りての意図したように伝わるはずだ。

以来、勝手なアップロード番組を一切見ようとしなくなった。良い学習経験になったと思う。

そしてもう1つ、鉄オタが鉄道旅行に行っても全国チェーンにしか行かないという問題についても、納得がいくものがある。

彼らの目的はあくまで路線、車両である。鉄道会社の所有する資産・提供する商品以外に興味はない。駅名は記号でしかみなしていない。温泉客向けに作った観光列車に乗っても、温泉旅館にも停まらずネットカフェで一泊してとんぼ返りするし、スキー客専用の臨時駅である「ガーラ湯沢駅」に行っても改札口で引き返して東京に戻るのである。

しかしこういう感覚は、あらゆるオタクにもあるのではないか。さっきジャニオタの話をしたが、「推し活」でJ-POPのアイドルグループのライブツア―に行く人もたまたま広島公演が当たれば新幹線で広島まで行き、ライブを見てグッズを買えばあとはただ帰るのみなのだ。お好み焼きを食べることも、宮島観光に行くこともない。たまたま当たった場所が広島だっただけなのだ。たまたま推しが「広島といえばお好み焼きですよね~」と言えばキャーキャー騒いで反応するが、自分は一切食べようともしない。けど地元のお好み焼き屋が公式グッズプレゼントコラボキャンペーンをすれば、地域住民の客を押しのけて大行列を作るのである。

そんな風に名古屋でも、秋田でも、札幌でも、台北公演でも、推しを見る目的が目的で他は関係ない。現地文化に触れる気はないし、普段慣れたファストフード店かコンビニで食事を調達するのだ。

「Dオタ」を理解できない理由

以前、私は今の彼女と付き合う前にマッチング・アプリで「ディズニーオタク」と言う女性と会ったことがある。私もテーマパークが好きなので、一度会ってみようという話になったが、彼女のスマホのカメラロールにはひたすら、ミッキーマウスやデイジーといった着ぐるみの写真が並んでいた。

これ見よがしに見せられたが、正直、意味が分からなかった。小学校低学年までの自分なら喜んだが、どれも同じただの着ぐるみじゃないかと。それを同い年のいい大人が集めて何の得があるんだろうかというちょっと不気味な印象だった。

私がディズニーランドやディズニーシーのようなテーマパークが好きなのは、非日常的な世界の作りこみの良さであり、名の知れないキャラクターでもちゃんと役割のあるリアルなオーディオ・アニマトロニクス(ロボット)の動きであり、キューライン(待ち列)の手の込んだプロップ(造形)やそこに秘めた物語のような、徹底したテーマ性である。それらの原型を築いたウォルト・ディズニーは偉大だと思う。

だが「Dオタ」はあくまでテーマパークとか、ウォルト・ディズニーの精神というのはどうでもよくて、キャラグリ(キャラクターとの交流)やキャラがらみの限定イベントやグッズに夢中になれればいいのである。

そしてその時、私ははっとしたのである。世間が「鉄道オタク」を煙たがるのは、まさに「どれも同じただの鉄の塊」の写真をときに罵声大会を繰り広げてでも撮り続け、それをひたすらコレクションしていることが理解できないからではないかと。

もちろんディズニー好きのすべてがそれではない。中には、ディズニーランドの世界観に没頭することを純粋に楽しみ、キャラとか、期間限定の商材とか、そんなものはどうでもいいという人もいる。鉄道ファンでもスーツ君のように訪問先の地域文化にちゃんと向き合う人もいるのと一緒だ。

ちなみにディズニーリゾートラインに特別車両が入れば真っ先に集まるのはDオタ女性と鉄オタ男性である。良いカメラを持っていて、特別なキャラクターの印刷された車体をファインダーにおさめたら満足してそのまま帰るという点も瓜二つだ。

ディズニーファンも鉄道ファンもファンと呼ばれる状態ならまだいいのだが、「オタ」になると引き返せなくなるということだろう。

文化とは独自性である

私は文化とは「替えの効かない独自性」だと考える。人々が旅行をするのは、その土地にしかない独自の価値を見に行くからだ。いや見るだけが全てではない。感じる、食べる、泳ぐ・・・あらゆることでそれを謳歌する、そこにしかないものがある。

筆者のような旅行趣味ではない、日本人の多くが子どもの頃に初めてまともに経験する旅行は学校の修学旅行ではないか。修学旅行で京都に行くとき、生徒はみな日本の古都という「独自性」を謳歌するため、自由行動で日本の伝統文化に没頭する。

だが、筆者の母校では、オタクのグループはアニメイトに行っていた。今放送しているアニメのグッズを買うためだ。それなら地元の最寄りのアニメイトでもいいじゃないかと思うのだが、京都の文化なんてハナからどうでもいいのである。そして修学旅行先が長崎でも、広島でも、台北でも、彼らはみな現地のアニメイトに行くのである。

こういう話をすると人によっては「まだ子どもだから土地の文化わからないんでしょう」とも言われそうだが、大人もオタクはオタクだ。筆者は米軍基地のある県に住んでいて、日米文化交流を目的としたオープンベースに子どもの頃から行楽感覚で出かけていた。自分のような県民の多くは老若男女問わず純然にアメリカ文化体験、アメリカ人との交流を楽しんでいるのだが、ミリタリー・オタクは兵器の写真を夢中で撮影したらさっさと帰るのである。彼らはだいたい白髪頭のいい年齢の人だ。ここでしか食べられない本場グルメや、洋楽のステージの素晴らしい演奏などどうでもよいのだ。

日本人のみならず外国人訪問者にも愛されている目黒川の桜(Wikimediaコモンズより)

日本人は四季を愛でる国民性がある。正月になれば初詣に行き正月行事を楽しみ、桜の時期になればみんなで花見を楽しむ。夏になったら、その地域の祭があるだろう。平塚の七夕祭りみたいに。

しかしオタクには四季がない。どの季節であっても、部屋でアニメを見るだけで変わらない。

家の目の前に美しい大きな桜の木があっても、自分の人生と関係なければただのモブ(背景)で、邪魔なら切り倒して道を広げたらいいと思っている。満開でも、散っていても見てないから関係ない。

初詣もしないし、餅も食べない。季節コラボグッズが発売されれば買うが、季節感を楽しむわけではないから、「推し」の歌うクリスマスソングが4月に発売されてもバカ売れするのである。平塚の七夕もただの邪魔な飾りが吊るされているだけだとしか考えないが、好きなアニメキャラが吊るされれば喜んで撮りに行くのである。

独自の場所、独自の季節…そういう外に広がるあらゆる独自の価値に、気づかず、関心を示さない、そういうとことんまでに自閉的すぎる姿勢が、たぶん、日本人の多数派の感性と合わないんだと私は思う。

ちなみにこの点では外国人はまだオタクと相性が合うかもしれない。

例えばアメリカは、どこの観光地に行っても出てくる食事はハンバーガーである。筆者が以前、ハワイの有名な滝の観光施設に行ったときも、レストハウスで軽食を食べようとしたらやはりハンバーガーとホットドッグしか売っていなかった。地域性の濃いハワイの観光施設でさえ、ロコモコやポキ・ボウルを提供しようとしはしない。まして本土の観光施設なんて、食事に期待はできない。

だからアメリカ人観光客も、京都でも飛騨高山でもマクドナルドを目指すのである。世界基準でいえば日本人の方がよほど「その土地の食べ物」にこだわりや好奇心が強すぎるのだ。同様にメキシコ人は日本に来てもタコスを求め、中国人は和食が舌にあわないので池袋北口の「ガチ中華」料理屋がにぎわうのである。

マニアのすそ野は広がっているように見える

「一般人」と「オタク」の溝は深いままだが、しかし以前に比べると「一般人のマニアック化」は進んでいるようにも感じる。

かつてであれば、オタクとマニアはほぼ同義語だった。バブル期のフジテレビのお笑い番組やスカした出羽の守が書き散らしたマガジンハウスの雑誌みたいなチャラチャラしたカルチャーに「一般人」は熱狂し、変なことに深い関心があるだけでツマハジキにされた。

だが近頃はSNSを見ても、現実でいろんな人と会っても、「お洒落な服を着てスタバでラテを飲んでそうな女の子が実はマニアックな趣味を持っている」ようなことは、最近はけっこうある。自分たち30代より、20代の方が当たり前だ。

90年代なら怪しい青年くらいしかバックパック旅行をしなかったが、いまはお洒落なキラキラ女子がリュックサック一つでインドの路地を徘徊し、「ガチ異文化」を楽しんでいる。ブラタモリに出てくる学芸員が話すような小難しいウンチク話が書かれた本を自分で手に取り買って読んだりする。

インターネットが一般人に普及したおかげで、そういう「マニアック」が一般大衆の中に染み込み、みんながみんなそれを好むわけではないが、自分には自分のマニアックな趣味や関心の1つや2つがあるということが当たり前になっている。街中で学生のおしゃべりを盗み聞きしていても、相手もそういうものがあって当たり前だというのが暗黙の了解なのでコミュニケーションが円滑化し、知らない同士で盛り上がって互いの好奇心が親密さを増している好循環になっているように見える。

廃墟だった熱海が、萌えおこしの力を借りることなく観光地として復活したのも、昭和の街並みが残る温泉郷というマニアックな地域性をポジティブにとらえたオタクとは間反対の「陽キャラ」の若者が友達やカップルで土地の食い物の食べ歩きをし、固有の風景を「映え」として肯定的にとらえだしたからだともいえる。




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