縁界《ENKAI》本編| 3話 : その声は、すぐ目の前から聞こえた
1章:縁界《ENKAI》 ― 孤独と声 ―
「ねぇ、きみ話せるの?」
その言葉はラグナードのすぐ横を通り抜けたように落ちた。風でもなく音でもない。ただ一点にだけ触れてくる感覚だけが残り、森の他のすべてとは切り離されてそこに存在していた。
視線だけが動く。
倒れた木の陰。幹と幹の隙間。地面を這う太い根の向こう。
見える範囲に何もいない。それでも気配だけは残っていた。ずっと感じているものだ。一定の距離を保ったまま近づかず、離れず、ただそこにいる。
深淵の森は静かだった。
何層にも重なった枝葉が空を覆い、昼であっても地面へ届く光は少ない。湿った腐葉土は足音を吸い込み、風が吹いても音は遠くまで届かない。
だから小さな変化ほど残る。
「聞こえているなら、返事をして」
同じ場所から再び声が落ちた。
ラグナードは答えない。
答えるという行為は位置を与えることだった。どこにいるのか。何を見ているのか。何を考えているのか。そのすべてを相手へ渡すことになる。
この森では見つかること自体が危険だった。強い魔物は見つける側であり、弱い魔物は見つからないように生きる。
ラグナードは後者だった。
枝は動かない。草も揺れていない。
それでも気配だけがそこにある。
やがて声は途切れた。
遠くで何かが鳴き、どこかで葉が落ちる。湿った空気がゆっくり流れ、森は元の静けさへ戻っていく。
だが、その静けさの中でも、さっきの声だけは沈まずに残っていた。
「……明日もここにくるわ」
三度目の声は少し遠かった。
返事を待つ声ではない。
決めたことを告げるだけの声だった。
ラグナードはその場所を見る。
だが何もない。
木々が並び、影が重なり、いつもと変わらない森が続いているだけだった。
気配は少しずつ遠ざかり、やがて完全に消える。
それでもラグナードの視線だけは、その場所に残っていた。
明日もここにくる。
意味は分かる。
だが理由は分からない。
やがてラグナードは森の奥へ向かった。
深淵の森は広い。
上層にはまだ光が残るが、奥へ進むほど枝葉は密度を増し、視界よりも気配の方が頼りになる。どこに立てば見つかりにくいか。どの道を通れば匂いが残りにくいか。
そうしたことは考えるより先に身体が知っていた。
しばらく進むと木々が途切れる。
黒い岩が円を描くように並び、その中央には泉があった。
水は澄んでいるのに底は見えない。風が吹いても波紋ひとつ立たず、水面は磨かれた鏡のように静止している。
周囲には背の高い草が群れ、その隙間には白く乾いた骨が散らばっていた。
安全な場所ではない。
だが休むには都合がよかった。
ラグナードは岩陰へ身を沈める。
腹が減っていた。
手を入れた先で紙の感触に触れる。
あの場所で拾ったものだ。
『声のような反応を確認』
書かれた文字を見つめる。
今日も変わらることのない文字。
それでも視線は止まる。
森で聞いた声。
紙に残された文字。
どれも繋がらない。
だが離れてもいない。
その時だった。
遠くで草が揺れた。
ラグナードは動かない。
岩陰に身を沈めたまま、その先へ意識を向ける。
背の高い草が左右へ開き、その向こうを影が横切った。
一つ。
そして少し遅れてもう一つ。
泉の向こう側だった。
飛びかかれば届く距離にいる。
それなのに互いは動かない。
爪も牙も向けず、ただ向き合っている。
長い時間が流れる。
少なくともラグナードにはそう見えた。
そして声がした。
「シロ、また遠くまで行っているな」
返事が返る。
「探していただけよ」
その声の主は白い毛並みを持つ魔物だった。
向かい合う魔物は身体が大きい。肩には古い傷が走り、片方の耳は途中から欠けている。それでも目を引くのは傷ではなく、その立ち方だった。隙がない。
「ここは言葉を持つ者の集まりだ。勝手な行動は慎め」
低い声が泉の向こうから響く。
白い魔物はすぐには答えなかった。
視線だけが森の奥へ向く。
その先には深淵の森が続いている。太い幹が重なり、枝葉は空を覆い、少し離れれば輪郭は影に沈む。何かが見えているようには見えなかった。気配が動いたわけでもない。
それでも白い魔物は、その奥を見つめていた。
「危ないと思ったから見ていただけ」
小さく返された言葉に、大きな魔物は目を細める。
「見ていただけでも同じだ。ここでは見える場所にいること自体が問題になる」
風が流れ、背の高い草が揺れた。その影が水面へ落ちる。
だが泉は何も映さない。
波紋ひとつ広がらず、黒い鏡のように静止したままだった。
ラグナードは岩陰からそのやり取りを見ている。
理解できなかった。
見つかれば死ぬ。
それは森で生きる者なら当たり前のことだ。
なのに二体は姿を隠そうとしない。互いに言葉を交わし、それでも牙を向けない。
なぜだろう。なぜ姿を見せるのか。なぜ言葉を交わすのか。なぜ互いに生きたまま離れることができるのか。そのどれもが分からない。
しばらくして二体は背を向けた。
どちらも威嚇しない。飛びかかりもしない。ただ当たり前のように歩き出し、やがて草の向こうへ消えていく。
揺れていた草も次第に静まり、泉の周囲には再び風の音だけが残った。ラグナードはしばらく動かなかった。
言葉を持つ者の集まり。
その言葉だけが頭の中に残っている。
紙に書かれていた文字。森で聞いた声。今の会話。どれも同じ場所へ繋がっている気がする。だが形は見えない。見えないまま時間だけが過ぎていく。
やがて空腹が意識を引き戻した。
ラグナードは草むらを探り、小さな虫を見つける。指で摘み、そのまま口へ放り込んだ。味は分からない。ただ空腹だけが少し遠ざかる。
森は静かだった。枝が揺れ、葉が落ち、遠くで獣の鳴き声が響く。
昨日までと変わらない景色。
それなのに何かが違う。理由は分からない。
ただ、一度聞いた声だけが消えずに残っていた。
そして翌日。ラグナードは再び昨日いた森の近くにいた。
森の一部が不自然に荒れた場所に一瞬だけ目線をずらし、
その少し先、何かがいた場所。
時間だけが過ぎていく。
やがて草が揺れた。
昨日と同じ方向だった。
背の高い草がゆっくり左右へ開き、その奥から白い毛並みが現れる。
姿を隠していない。
木の陰にも立たない。
周囲を警戒する様子もない。
まるで誰かに見つかることなど問題ではないと言うように、そのまま開けた場所へ歩いてくる。
ラグナードは見ていた。
白い魔物は迷うことなく歩いてくる。距離はゆっくり縮まり、五歩、四歩、三歩と数えられるほど近づいても、その足取りは変わらなかった。
見つかれば死ぬ森で、自ら見える場所へ出てくる。
理解できない。
だが目だけは離せなかった。
白い魔物は足を止めた。
小柄な身体には牙も爪も備わっている。間違いなく魔物だった。それなのに敵意がない。
襲うために近づいてきた者とは違う。
白い毛並みだけが風に揺れ、その視線はまっすぐラグナードへ向けられていた。
「……やっぱり、いた」
探していたものを見つけた。そんな響きの声だった。
そして少しだけ首を傾ける。
「ねぇ、きみ話せるの?」
昨日と同じ言葉だった。
違うのは距離だけだ。
今度は森のどこかではない。
すぐ目の前だった。
ラグナードは答えない。
ただ見ている。
白い魔物も動かない。逃げない。警戒もしない。
まるで返事が返ってくることを疑っていないように、そこへ立っていた。
「聞こえてるよね?」
「……なんで、何も言わないの?」
理解できなかった。
見つかれば死ぬ。それが深淵の森の常識だ。
なのに目の前の魔物は、自分から近づき、自分から姿を見せ、そして何度も話しかけてくる。
なぜ。
その理由だけが分からない。
白い魔物は小さく笑った。
風が吹き、揺れた白い毛並みが陽の届かない森の中でわずかに光を拾う。
「やっぱり話せないのかな」
残念そうでもなく、馬鹿にするでもなく。
ただ事実を確かめるような声だった。
そして白い魔物はゆっくりと身体の向きを変える。
帰るのだろう。
その背中が少しずつ森の影へ溶けていく。
白い毛並みは草の向こうへ消えた。
背の高い草が揺れ、その余韻さえ静まる頃には、そこにはもう何も残っていない。
それでもラグナードの視線だけは、その場所に留まり続けていた。
なぜ見ているのかは分からない。
なぜ気になるのかも分からない。
ただ、あの声が消えた場所を、まだ見ていた。
■ 登場人物
■ ラグナード
深淵の森で生きる魔神。強い力も大きな縄張りも持たず、生き残るためだけに森を彷徨っている。この日、ラグナードは初めて理解できない存在と出会う。
