縁界《ENKAI》 守る理由ができちまったからよ
外伝|あの日生まれた黒い塊
俺はベルだ。
誰にも負けねぇ。
誰にも頼らねぇ。
「凄いわねぇ。うちの道場で初めて全国に出場できる選手が生まれるなんて」
師範の言葉が耳に入る。
道場の床に腰を下ろしたまま、俺は壁に貼られた大会表を見上げていた。
全国大会出場。
その文字を見ても、不思議と実感はない。
だが周囲の反応を見れば、どれほど珍しいことなのかは分かる。
この道場は強豪じゃない。
体格に恵まれない者もいる。
途中で辞めていく者もいる。
仲間と騒ぐことが目的になっている者もいる。
そんな場所だ。
だからこそ、全国なんて夢のまた夢だった。
けれど俺はそこへ辿り着いた。
得意なのは回し蹴りだ。
下段から上段へ、しなるように振り抜く。
理想は鞭。
まだまだ遠い。
全国へ行けるからといって満足なんてできるはずもなかった。
帰り道、廊下を歩いていると肩を叩かれた。
振り返る。
見覚えのある顔だった。
名前は覚えていない。
「よっ、未来のチャンピオン」
軽い調子で笑いながらそいつは言った。
「空手で全国なんだろ? すげぇじゃん」
祝福なのか、皮肉なのか。
よく分からない顔だった。
「あぁ」
俺は短く答える。
「相手の拳が顔に当たったからな。同じ痛み味合わせてやるって思ったら、気付いたら勝ってた」
そいつは引きつったように笑った。
「やっぱベルはやべぇな」
そう言い残して去っていく。
何が言いたかったのか分からない。
興味もなかった。
人がどう思うかなんてどうでもいい。
強くなれるかどうか。
俺にとって大事なのはそれだけだった。
翌朝、いつと通りに教室へ入る。
朝から騒がしい。
恋愛の話。
ゲームの話。
テレビの話。
誰が誰を好きだとか。
誰が何をしただとか。
どうでもいい。
そんなことに夢中になれる奴らが羨ましいとも思わなかった。
俺の熱はそこにはない。
放課後になれば部活がある。
空手ではない。
球技だ。
あれが昔から嫌いだった。
見えないところで足を引っ張る。
誰かのせいにする。
勝つためじゃなく、負けた時の言い訳を作る。
そんな連中を何人も見てきた。
向かってくるなら正面から来い。
本気で勝ちたいなら本気でぶつかってこい。
そう思っていた。
だから何度か衝突したこともある。
けれどそういう奴らほど弱い。
一発で終わる。
弱いくせに偉そうにしている。
それが腹立たしかった。
空手は違う。
向かってくる相手は皆弱い。
だけど嫌いじゃない。
少なくとも戦おうとしている。
逃げていない。
勝てないかもしれないと分かっていても前へ出てくる。
その姿勢だけは認められた。
強くありたい。
それは悪いことじゃない。
ベルザグラド。
後にそう呼ばれることになる俺には、誰よりも強くなりたい理由があった。
自分が誰よりも強くなれば。
誰も逆らえないほど強くなれば。
俺の大切なものに手を出そうとする奴はいなくなる。
そう信じていた。
六歳の頃のことだ。
今でも忘れられない。
雨上がりだった。
弟が泣いていた。
年上のガキどもに囲まれていた。
俺は飛び出した。
やめろと叫んだ。
弟を守りたかった。
けれど相手は俺より大きかった。
腕を振り払われた。
地面に叩きつけられた。
何もできなかった。
その間にも弟は殴られた。
水たまりに顔を押し付けられた。
歯が折れた。
腕から血が流れていた。
泣いていた。
ずっと泣いていた。
俺は見ていることしかできなかった。
悔しかった。
怒りで頭が真っ赤になった。
それでも何もできなかった。
弱かったからだ。
あの日、俺は知った。
弱い奴は奪われる。
守れない。
失う。
だから強くならなきゃいけない。
誰よりも。
何よりも。
圧倒的に。
そうでなければ意味がない。
……なんてな。
昔の俺は、本気でそう思っていた。
守れなかった後悔も。
弱さへの怒りも。
全部抱えたまま。
ただ強さだけを追い続けていた。
人間だった頃の話だ。
月夜が窓の縁を静かに照らしている。
ベルザグラドはゆっくりと視線を上げた。
どうやらまた、昔を思い出していたらしい。
ベルザグラドは窓枠に肘を乗せ、夜の荒野を眺めていた。
人間だった頃の記憶は今でも残っている。
忘れたいと思ったことはない。
あの日の悔しさも。
弟の泣き顔も。
全部、自分を作ったものだからだ。
窓の外では赤紫の空が揺れている。
黒い岩山が連なり、風が乾いた大地を撫でていた。
静かな夜だった。
だからこそ、違和感ははっきりと分かった。
「なんか臭うんだよなぁ」
ベルザグラドは鼻を鳴らした。
懐かしいような。
腹立たしいような。
言葉にできない何か。
その感覚を追うように目を細める。
背後で気配が揺れた。
二体の魔神が姿を現す。
「魔神王様、何かございましたか?」
白く濁った肉体を持つ魔神が一歩前へ出た。
ゼルだ。
ベルザグラドの側近であり、数少ない腹心でもある。
「ゼル」
「はい」
「また生まれたぜ」
ゼルは一瞬だけ眉を動かした。
「何がでしょう」
ベルザグラドは楽しそうに口元を歪める。
「俺と同じだ」
「……」
「破壊の王がよぉ」
ゼルは黙り込んだ。
また始まった。
そう思った。
魔神王の勘は時々当たる。
だが説明がない。
根拠もない。
だから反応に困る。
「魔神王様のような存在がそう何人もいては困ります」
「ははっ!」
ベルザグラドは豪快に笑った。
「違ぇねぇ!」
笑いながら窓から身を乗り出す。
眼下には広大な魔界が広がっている。
そこに存在する全ての魔神。
全ての魔物。
その頂点に立つのが自分だ。
「俺より強い奴なんざ認めねぇ」
ベルザグラドは夜空へ向けて拳を握る。
「もし現れたらぶっ壊す」
その言葉に迷いはない。
強さこそが全て。
人間だった頃から変わらない価値観だった。
だが。
「弱い奴は俺について来りゃいい」
そう続けた声は少しだけ柔らかかった。
「守ってやるからよぉ」
ゼルは何も言わない。
その言葉が本心だと知っているからだ。
ベルザグラドは破壊の王だ。
だが同時に、誰よりも守ることへ執着している。
守れなかった記憶があるから。
守れなかった自分を今でも許していないから。
だから強さを求め続けている。
だから王になった今でも立ち止まれない。
その時だった。
ふいに胸の奥がざわついた。
笑みが消える。
「……あ?」
妙な感覚だった。
悲しい。
苦しい。
寒い。
そんな感情が一度に流れ込んでくる。
誰のものだ。
ベルザグラドは眉をひそめた。
知らない。
だが確かに感じる。
生まれたばかりの感情だった。
まだ形もない。
言葉もない。
けれど痛いほど伝わってくる。
孤独だった。
どこまでも。
どこまでも。
独りだった。
ベルザグラドは無意識に空を見上げる。
遥か彼方。
世界のどこか。
その孤独の中心にいる存在を探すように。
「……面白ぇ」
小さく呟く。
だが笑い声は続かなかった。
なぜだろう。
胸の奥が妙に重い。
まるで昔の自分を見ているようだった。
守れなかった日の自分。
怒りと悲しみを抱えたまま立ち尽くしていた幼い自分。
それに似ている気がした。
「魔神王様?」
ゼルが声を掛ける。
ベルザグラドは視線を空へ向けたまま答えた。
「いや」
少しだけ口角を上げる。
「ただの勘だ」
そう言った。
本当に勘だった。
何も見えてはいない。
何も知らない。
その存在の名前も。
姿も。
生まれた理由も。
何一つ知らない。
それでも確信だけはあった。
何かが始まった。
世界のどこかで。
大きな何かが。
ベルザグラドは静かに目を閉じる。
そしてもう一度だけ、その感情を辿った。
悲しみ。
怒り。
孤独。
その全てを抱えたまま。
まだ名前すら持たない黒いかたまりが、世界に生まれ落ちていた。
それが未来に何を壊し。
何を守り。
誰と出会うのか。
まだ誰も知らない。
魔神王ベルザグラドですら。
知らなかった。
ただ一つだけ。
その孤独が、妙に気になった。
⬛︎ 登場人物
⬛︎ ベルザグラド
魔界の魔神王。全てを滅ぼす黒炎を使う。普段は人間の時の姿で魔界に存在している。配下に魔神を2体連れており、日々暮らしている。
