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その「残業」は、本当に「美徳」なのだろうか。

「B君は、チームが大変な時に、いつも率先して残ってくれる。その貢献度は大きい」

先日、ネットで目にした、ある上司の言葉だ。
定時で完璧に仕事を終えるAさんと、毎日遅くまで残業するBさん。後者のBさんの方が、高い評価を得た、という話。

その上司の言葉を読んだ瞬間、私の心の中に、どろりとした、黒い感情が広がった。
それは、怒りというよりも、もっと静かで、もっと根深い、諦めにも似た、悲しみだった。

なぜなら、その言葉は、私が保育士時代に、何度も、何度も、聞かされてきた呪いの言葉と、あまりにも、よく似ていたからだ。

保育士の世界にも、「残業」という名の、目に見えない同調圧力があった。
いや、もっと正確に言えば、それは「サービス残業」という名のつかない時間だった。

自分の仕事が終わっても、周りの先輩が残っていれば、帰れない。
家に持ち帰って、深夜まで制作物を作るのが、当たり前。
その「頑張っている姿」こそが、「熱意」であり、「美徳」なのだと、誰もが信じて疑わなかった。

私は、その呪いに、耐えきれなくなった。
決められた時間の中で、どれだけ効率を上げ、どれだけ素晴らしい保育を実践しても、評価されるのは、結局、「どれだけ自分を犠牲にしたか」だったからだ。

その本質は、このAさんとBさんの話と変わらない。

もちろん、チームが大変な時に、助け合うことは大切だ。

でも、その「助け合い」が、いつしか「自己犠牲の強制」に変わってしまった時。その職場は、ゆっくりと、でも確実に、ブラックな沼へと沈んでいく。

本当に評価されるべきは、一体どちらなのだろう。

決められた時間の中で、驚くほどの集中力で、完璧な成果を出すAさん。
それとも、もしかしたら、時間内に仕事を終えられなかっただけかもしれない、Bさん。

Bさんの残業が、本当に「貢献」だったのか。
それとも、ただの「非効率」の表れだったのか。
その上司は、見極めることが、できていたのだろうか。

私は、Bさんのような働き方を、否定するつもりはない。
でも、その働き方だけを「美徳」として称賛する、その古い価値観が、私は、たまらなく、怖い。

それは、「決められた時間の中で、最大限の成果を出す」という、プロフェッショナルな働き方への、冒涜だ。
そして、「家庭」や「プライベート」という、仕事と同じくらい大切なものを、守ろうとする人たちへの、無言の否定だ。

幸いなことに、時代は少しずつ、変わり始めているという。
「生産性」という、当たり前の物差しで、働き方を評価しようという、健全な動きが。

もし、今あなたが、かつての私のように、「残業しないこと」に、罪悪感を覚えているなら。
どうか、胸を張ってほしい。

あなたのその働き方は、決して「わがまま」なんかじゃない。
それは、あなたの人生と、あなたの時間を、誰よりも大切にしている、何よりの証なのだから。

「頑張っている姿」という、曖-昧-な幻想に、もう、私たちは、惑わされてはいけない。
本当の「貢献」とは何か。
その答えを、社会全体が、見つけ出すべき時が、来ているのだから。


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