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「闇の中に浮かんだもの──早朝4時半の静かな出会い」

令和7年1月31日、朝の4時半。
それは、いつもと変わらぬ一日として始まりました。

場所は、中部地方の山間部に近い、広大な遊水池公園。
この日も、愛犬を連れての散歩です。


冬の闇の中で

1月末の早朝。空はまだ真っ暗。
冬装備を万全に整え、車で5分ほど走って公園へ向かいます。

到着すると、愛犬が勢いよく車から飛び出し、花壇の周りをクンクン。
私もそれに続いて外周を一回りし、まだ閉まっている大きな門の脇から
園内へ。
人が通れるほどの隙間があり、いつものルートで中に入るのが習慣です。

園に入ると、犬はお決まりの“クン活”を始めます。
400メートルトラックほどの楕円形の道を一周するのが、いつもの朝。

歩き始めて、まだ数分と経たないうちのことでした──


黒い静寂の中に

ヘッドライトの光を頼りに歩いていると、
進行方向50メートル先の手すりに、なにか大きな影が乗っているのが
見えました。

「ん? なんだあれ?」

ゆっくり、静かに近づいていくと──
それは、体高50センチほどもある、巨大な野生のフクロウ。

そーっとヘッドライトで照らしてもまだ距離があるからなのか
逃げようとしません。

闇の早朝に浮かぶ巨大なフクロウ

この地に20年以上住んでいて、初めての遭遇。
いや、人生で初めての生フクロウ体験でした。


フクロウの意味

後から調べてみると、
フクロウは「福来郎(ふくろう)」「福老」「福朗」などと書かれ、
幸運や長寿の象徴とされています。

私は日頃から、日常に起きるちょっとした現象や違和感から
吉凶を読み取ろうとしています。

たとえば、出かける直前に物が落ちたり、鍵が見つからなかったり…。
そうしたときには外出を控えることもあります。

また「外応(がいおう)」──
問いを立てたときに、外の世界に表れる“応え”に敏感であるように
しています。

そんな私の目の前に現れた、野生のフクロウ。
「何か、いいことの前触れかな……」

そう思った矢先、我が“バカ犬”がクンクンと地面を嗅ぎながら
ズカズカと近づいてしまい、
フクロウは羽音ひとつ立てずに、静かに飛び立っていきました。

暗闇と古―いiPhone SEでは写真も撮れず。
ただ、心に深く刻まれる出会いでした。


5日後に起きたこと

それから5日後──2月5日。
仕事中、実家から電話が鳴りました。
こちらの都合はお構いなく母は愚痴りたい時に電話をして来るのです。

最初の電話は取らずに無視しましたが、すぐにまたかかってきて──
「これは何かある」と感じ、受話器を取りました。

母の第一声は、
「お父さんが死んじゃった…」

混乱した母の言葉は要領を得ませんでしたが、
朝方に家を抜け出た父が戻れず、午後2時頃に近所の小屋の中で
心肺停止の状態で発見されたということでした。
その日は、この冬いちばんの寒さを記録していました。

父は数年前から認知症を患い、母と兄とで在宅生活を支えていました。
身体は元気なため徘徊や失踪騒動も何度かあり、家族の疲弊も限界に
近づいていた頃でした。

警察による現場検証の結果、事件性はないと判断されましたが、
検視のため、父の遺体はだいぶ離れた警察署へ運ばれて行きました。


魂の抜けた身体

数日後、警察署での対面。

黒い納体袋の中には、傷だらけの父の姿。
暗い朝にさ迷い歩き、さまざまな場所にぶつかった痕跡がありました。

母は「今にも目を開けそうだねぇ」と泣きながら呟いていましたが、
介護職として多くのご遺体を見てきた私には、
妙に冷静になって見つめる先
そこにあるのは「魂の抜けた身体」にしか見えませんでした。

この冬は火葬場の混雑により、葬儀・火葬は1週間後に。


フクロウの残像

その間、私達(兄と妹と)が取りかかったのは実家の大掃除。
老夫婦と独身の兄が暮らしていた家は、ほぼゴミ屋敷でした。

まずは玄関から着手。整理を進めていると──
ずっと見慣れていたはずの飾り棚に、ふと目が留まりました。

そこには、ずらりと並ぶフクロウの置き物たち。

「これだったのか……」

几帳面だった父が、長い年月をかけて集めてきたフクロウたち。

その静かな存在が、何事もなかったかのように玄関先で佇んでいました。


おわりに

1月31日の早朝に出会った、あの大きなフクロウ。
あれは幸運の象徴ではなく、父の旅立ちを知らせに来た“使い”だったのかもしれない。

偶然では語り尽くせない、不思議な巡り合わせ。

闇の中から静かに──
フクロウは、私の心にそっと「別れの気配」を運んできた。

あの姿は、今もなお、胸のどこかに浮かんでいる。