マットレス
1
堀田町子から、このマットレスを燃やすから手伝ってくれ、と電話がかかってきた。
理由を聞いても、とにかく燃やすのだ、としか答えない。
町子と話をしたのは、考えてみるとおおよそ三年ぶりのことだった。だからそのこと自体は嬉しかったが、何か彼女が尋常でない様子なのは、電話の向こうから聞こえてくる、その声音からも確かなのだ。
「いったいどうしたんだよ」
そう僕は聞いた。でも町子は、
「いいから、続きを聞いて」
と有無を言わせない。
これからそのマットレスを燃やしに行くと言っても、町中で盛大にそうするわけにはいかないので、奥多摩の山中に運び、そこでひっそりとやるつもりなのだ、という。
「でも私、免許持ってないでしょ」
町子はそう、いやに冷静な声で言った。
「だから悪いんだけど、今からどこかでレンタカーを借りて、迎えに来てくれない? 車は、大きめのやつでね。わかるでしょ。だってこのマットレスを積まなきゃいけないんだから」
「そんなに、そのマットレスは大きいのか」
試しに僕はそう聞いてみた。
「うん。すっごく、大きいの」
向こうに決して気取られないよう、僕は慎重にため息をついた。そして指先で額を掻きながら、しばし頭を巡らせた。
時計を見ると、午前十時を少し回ったところだ。その日は日曜日だったが、先日僕は仕事を辞めたばかりで、特に一日何も予定はない。
来月に予定していた、四国へのひとり旅の予定でも コーヒーでも飲みながら、のんびり立てるつもりでいたのだ。
でもそんなことより、町子のことが心配になってきた。この時点で、直接尋ねられるような雰囲気では到底なかったが ここまで話を聞いてみて、町子がどうして、特にこの僕に、そのような頼みの電話をしてきたのか、なんとなく見当はついてきたのだ。
僕は困ってしまった。
「……ねえ圭介、聞いてる?」
相変わらず、気持ち悪いほどに冷静な町子のその問いかけには何も答えずに、僕は窓際まで歩いて行くと、ワンルームマンションの三階の部屋のカーテンを開けた。春先の、煙ったような光に照らされた代々木の街並みに、しばらく目を細める。眼下の井の頭通りを、車が続けて滑るように走って行く。
「とにかく、燃やしたいんだな? 町子はそのマットレスを」
僕はつとめて心を落ち着けながらそう聞いた。
「そう。ねえ、いいから早く来てよ。来てくれないと、私今すぐ死ぬから。本当だよ」
町子はそう言った。
これはきっと、おそらく狂言や冗談の類いではない。
この僕には、それがよくわかる。
とにかく、こんなことで死なれては、いくら悔やんでも悔やみきれない。
「わかった。今からすぐに行くから、そこで待ってなよ。住所は前と変わってな 」
その質問の途中で、電話は無愛想にブツリと切れた。僕は舌打ちした。
何かが、とにかくまずい。そんな気が、しきりにしてならない。急いだ方がいい。
僕はスマホをベッドの上に放り投げると、部屋着のスウェットを脱ぎ、ブルーデニムとボーダーのカットソーに着替えた。そしてその上から麻のジャケットを羽織ると、スニーカーを履いて家を出た。
自宅のアパートから、小田急の駅までは走れば五分ほどだ。手近なレンタカー屋といえば、駅前に一軒ある。
そのマットレスは「すっごく、大きいの」。そう町子は言っていた。しかしいったいどのくらい大きいというのだろうか。もしもダブルサイズかなんかのそれだったら、よほど容量のあるトラックなどでないときっと無理だ。
でもよくよく考えてみれば、かつて町子と同棲していた、あの高円寺のアパートに今も彼女がいるならば そんなものの入るスペースはないはずなのだった。
そんな風に思いを巡らせているうち、レンタカー屋に着いた。結局僕はそこで業務用の白のハイエースを借りると、それに飛び乗った。まずはすぐに井の頭通りに出、それから環七を右折して北上すると、まっすぐに高円寺へと向かった。
運転しているあいだ、三年ぶりに町子と会い、どのように応対するべきか、いろいろ頭を悩ませていた。何しろ三年ぶりなのだから。
三年というのは、なかなかの時間だ。
これからマットレスを燃やすなどという、奇妙きわまりない頼みに付き合うかどうかはひとまず置いて、一応つきやってやるふりだけはしないといけないな。そう、僕は覚悟していた。
ああ。これには、少しだけ説明が必要かもしれない。
というのも、もし仮に、僕がこれから町子のオーダー通りに車で向かわずに、というか彼女の訴えそのものを無視した上で、中央線で高円寺まで向かい、手ぶらで姿を現して、
「なあ。いったいどうしたんだよ。ちょっとは落ち着けよ」
などと言おうものなら 彼女が果たしてどのような状態になるのかは、はっきりと想像がつくからだ。
まだよくわかってもらえないかもしれないが、繰り返して言っておこう。
町子は、そういう女の子なのだ。
高円寺駅の北口のロータリーの向こう、細かい路地を縫うように入ったすぐのところに、区民集会所がある。そこをさらに奥に抜けたところに、町子の、そしてかつて僕たちの住んだアパートはあった。
車をゆっくり差し向けていくと、すぐにそのアパートの正面の壁に、巨大な薄黄色のマットレスが日を浴びて立てかけられてあるのが目に入った。そしてその隣に、いやにシックな黒の無地のワンピースを着た町子が、うつむいたまま、後ろ手をして立っていた。
僕は車に乗ったまま、その俯いたままの町子の前を、ひとまず徐行運転で通り過ぎた。
少し行ったところで車を停めると、エンジンを切ってサイドブレーキを引き、バックミラーでもう一度町子を見る。
彼女はまだ顔を上げず、うつむいたままでいた。
僕はステアリングに体をもたせかけると、息を飲んでしばらく考えを凝らした。
……やはり、思った通り、非常にまずい状態のようだ。
三年前、いや四年前五年前の町子との記憶が、いくつもいくつも、ありありと頭の中に蘇ってくる。
こういう時、彼女は誰から何を言われても、テコでもその考えを変えない、そんな状態に陥る。
正直僕は、どう声をかけたものかわからないでいた。そうやって、車の中でしばらく躊躇していると、ようやく町子が顔を上げて、ミラー越しに目を合わせた。でも彼女は、じっと僕の顔を見つめたままでいる。まるでその相手が、今まで見たこともない誰かででもあるかのように。
僕は観念して、車のドアを開けると外に降りた。そして町子の方にゆっくりと近づいていった。その間彼女は後ろ手を組んだまま、いやに飄々としたそっけない顔で、こちらと目を合わせ続けていた。その肩先くらいまでの黒髪が、春の風にそよがれて揺れている。
「……ひさしぶり」
声をかけても、町子は軽く微笑んだまま黙っていた。僕は強いて気持ちを落ち着かせながら、マットレスの前に来ると両手を腰に置いて見上げた。
「これを、燃やすの」
「そう」
答えると、町子はその足元にあったビニールの包みを手に取った。
「なんだよそれ」
「なにって、着火剤じゃない。あとはバーナーと、燃えかすがたくさん出るだろうから、ゴミ袋とか」
そう平然と町子は言った。
僕はつい出してしまいそうになった深いため息をなんとか噛み殺すと、もう一度その薄黄色の巨大なマットレスを、一歩引いて眺めてみた。近くでよく見ると、たくさんの花柄模様がその表面にはあしらわれてある。ずいぶんと高級そうだ。
町子のアパートと続きにある、民家との間の空間に、ちょうど五分咲きくらいの桜の木があって、そこから正午前の柔らかな春の光が、マットレスの上に落ちかかっていた。その表面を、手でそっと撫ぜてみる。なかなか良い手触りだ。当然まだまだ、これから何年でも使えるものだろう。
そんな風にマットレスを眺めていた僕の隣で、町子は運転してきたハイエースに目を向けながら、
「あれなら、十分載りそうね」
と満足げに、安心げに言った。
そしてむろん当然のように、さっきから僕が急いで駆けつけたことに対するお礼のようなものは、一言だってない。
三年ぶりに再会した彼女は、かつてよりもいくぶん垢抜けているように見えた。とはいえ別れを切り出したあの頃は、町子は専門学校を出、念願の家具デザインの事務所に就職が決まったばかりで、ほんの二十歳そこそこのものだった。それなりの時間を経てそう見える、というだけのことだったかもしれない。僕は当時、二十二だった。
「ねえ。じゃあ、さっそく積もうよ。荷台を開けてくれる?」
そう言って町子は、着火剤の入ったビニール袋と肩にかけたベージュのトートを持って車に走って行くと、助手席のドアを開けようとした。しかし鍵がしまっているので、不満げにこちらを振り返っている。
「ねえ、早く」
僕は、そんな町子のことを一切無視して、改めて目の前にあるマットレスを眺めた。
この自分ならば、手伝って当然だ、とどうやら思い込んでいるらしい町子へ、軽い態度表明をあらわすつもりで。
両手を広げ、立てかけられてあるマットレスの長辺をつかんで、軽く持ち上げてみた。なかなかの重さで、町子はこれを一人でここまで持ち出したのか。
火事場の馬鹿力、ということか。
「ねえ、圭介」
今度は体を回して、マットレスの裏側をのぞいてみた。と その右上の角のところに、不自然な感じで三、四枚くらいの不揃いな布テープが縦に貼られてあるのに気がついた。
待ちきれない様子で、町子がふたたびこちらまで駆けて戻ってくる。
「ねえ、早くしてよ」
その言い方に僕は軽く苛立たせられながら、腕組みをしてあらためてマットレスの前に立った。やはりそれがどんな理由であれ、こんなものをこれから山の中に運んで燃やすなどということは馬鹿げている。
馬鹿げているとはいえ、自分の今までの乏しい経験からいっても こういうゾーンに入っている状態の女の子の気持ちを、力技で百八十度変えさせるというのは、恐ろしく困難なのだ。
それに、こと町子に対しては、大いに逆効果になるに決まっていた。もしこの場で言い争いにでもなり、向こうが激昂したら、それこそ手のつけようがなくなる。
冗談でなく、何が起こるかわかったものじゃない。
いずれにせよ、ここで彼女に対して説教などを始めて不必要に刺激することなく、いったん頼みを聞いてやったふりをして、ひとまず出発するしかないと僕には思われた。そしてその道中で、いったいこの三年のあいだに町子に何があったのか、そしてなぜ、このマットレスを燃やさねばならないのか、とくと話を聞いてやり、その時点でやはり引き返すべきだと思うなら、引き返せばいい。
なんならその後で、ゆっくり三年ぶりの再会を楽しんでもいいのだから。
「よし、じゃあ積もう。町子、手伝って」
僕がそう言うと、急に町子の顔がパッ、と明るくなった。
「うん」
ハイエースにふたたび乗り込んで、町子のアパートの前までバックさせて停め直すと、二人で協力してその大きなマットレスを車の荷台に積み込んだ。
「乗って」
こんなふうにして 僕たち二人の束の間の、奇妙なドライブが始まったというわけだ。
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