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ネギ女 その4 量産型女子、の巻



「……ねえ、本当にそうなの? 律っちゃんのファンに、あんたはムカついてるんだ」
 そう言う鼓の背後で律子が、両手を腰において、この私をジッ、と見つめていた。
 この女を  目をキラキラさせて食い入るように眺めていた淳のことを、ふと思いだす。
 その瞬間から  私のアタマには、何かもやのようなものがかかったようになった。その瞬間から、って言ったけど、それよりも前から、もしかしたらそうなっていたのかもしれない。本当のところはどうかわからない。でも、なぜかとても気持ちがよくて  体中に力が集中してくるような、そんな感覚がある。
 その感覚に後押しされた私は、自然にある行動をとっていた。つまり私は、両腕を拘束していた革製の器具の鎖を、引きちぎっていた。それは、すごく簡単なことだった。フルマラソンのゴールで待ちうける紙テープを体で切ることが、ごくごく自然なようにだ。ごくごく自然に、私はそのアルミ製のフェイクの鎖を引きちぎっていた。
 引きちぎった以上は、両腕が自由になる。でも、同じように両足も、その倍ほどの幅のある拘束具の鎖で固定されている。
 私はそのまま自分のカバンに飛びつくと、中のゴボウカバーから、もう一本のゴボウを取り出した。鼓が何か言ったようだけど、もう知ったことじゃない。
 私は目一杯股を広げると(それでも肩幅ほども開けない)、ピンと張ったその鎖めがけて、ゴボウを真垂直に振りおろした。鎖はパキン、と音を立てて砕けた。とたんになんだか笑いがこみ上げてくる。
 振り返ると、鼓と目があった。一瞬たじろいだ顔をして、律子の方を見る。
「……だから、言ったろ」
 律子がそう言った。私の左腕の手首のあたりに、何か糸を引いたものがポタリと落ちたのがわかった。口元をぬぐうと、やけにヌルヌルしている。
 私は右手に持っていたゴボウを振りおろすと、鼓に飛びかかった。自分でも驚くほどに飛べる。体がまるでゴムで出来ているかのように、柔らかくて軽い。
 私の攻撃を、鼓がテーブルの上にあったパイナップルで受けたときは、何秒間かそのまま空中で静止したかのような感覚におちいった。それほど私の打ちおろしたゴボウは重く、かつそれを鼓は顔を真っ赤にして受け止めていたが、やがてパイナップルの方が耐えきれずに、果汁を撒き散らしながらV字に砕け折れていった。甘くまとわりつくような果物の芳香が、瞬間室内に満ちてくる。
 私は床の上に舞い降りると、思い切り姿勢を低くして、再度突っ込んでいった。
 そのとき、
「腹だよ腹! このデブ! その妊娠線の浮き出た三段腹だ!」
 と律子が叫んだ。
 私は舌打ちしながらも、かまわずその腹めがけてゴボウを真横に振りきった。とっさに鼓は右手の肘をおろしてブロックしたが、苦悶の表情を浮かべつつ、リビングのソファの上に倒れる。
 その瞬間と、空中を一つの新鮮なパイナップルが飛んでゆくのが一緒だった。律子が冷蔵庫を開けて、中からそれを取り出して投げ渡したのだ。
 受けとった鼓の顔は、もうすでに、人間のそれではなくなっていた。
 まず、黒目がない。っていうか、その上目自体が、金色に光り輝いている。
 ボブに綺麗に切り揃えていた髪は、いつしか炎が燃えさかるように逆立っていた。要するに、わかりやすく言えば、東大寺の山門に立っている「仁王さま」だ。
 そのとき私は、さっきの会話で出てきた、トリガーという言葉を思い出した。

 ……デブ妊娠線三段腹、という言葉が  鼓の何かを、激しくプッシュしたのだ。

 私がもう一度繰り出した一撃は、鼓が右腕を振り上げただけであっさりと無効にされた。その衝撃で、体が反対側に持っていかれる。
 おかげでバランスを崩した私に向かって、両手に持ちかえたパイナップルを、鼓は横殴りにしてきた。食いしばっている歯のあいだから、何か煙のようなものが出ている。
 私はとっさに屈みこんで避けたが、我を失った鼓の右脇をうまくすり抜けたと思ったら、今度はそこに律子が待ち構えていて、何かをすくい上げるような形で右手に持った青パパイヤのボディーブローを繰り出してきた。それをまともに食らった私は、体をくの字型に折った。猛烈な衝撃が、お腹から喉元のあたりに向かって昇ってくる。
 フローリングの床に倒れてえずいていると、完全な無双状態の鼓が、両手に持ったパイナップルをまた振り下ろしてきた。それを横っ飛びになって避けたとき  さっき感じた、体のゴムのような柔らかさと軽さを、また実感する。
 この感覚は、何かの動物に似てる。
 こんな身軽さを兼ね備えた動物が、確かいたはずだ、と思う。
 ……そう、猫だ。おそらく猫は、こんな動き方が出来るはずだ。
 正直  この二人をこれ以上一人で相手するのはキツすぎた。完全な分の悪さを感じてる。
 見ると、ベランダに通じるガラス戸が、人一人通れるほどの幅で開いていた。私はそばにあったカバンをひっつかんでその先にある網戸を突き破り外に出ると、ベランダの柵の上に飛び上がり、そこから雨どいをつたって屋上まで上がった。真夏の東京の夜の濃厚な大気が、即座にまとわりついてくる。空を見ると、うっすらとだけど星が見える。
 私は真隣りの建て売り住宅風の一軒家の屋根に、勢いをつけて華麗にジャンプすると、そこから二階のベランダに降りた。見ると、白のレースのカーテンの向こうに、何から何までピンク色の部屋があって、そこにあるベッドの上で、ミッキーのぬいぐるみと一緒に寝転んでスマホを眺めてた、中学生くらいの女の子と目が合った。キャー、とギャー、の中間くらいの叫び声をその子が上げたのが、ベランダからそのまた下にある駐車スペースの、茶色の透明の屋根にさらに飛び降りたとき聞こえた。そこから路上の上に降り立って、下北沢駅の方角まで駆け抜けていくうちに  だんだんと、さっきからの体の柔らかさが失われていって、いつのまにか、仕事の日に寝坊して必死に三軒茶屋の駅まで走る、あのいつものような鈍重さに戻っていた。
  
 息切れしながら振り返ると、自分が降りてきた律子のマンションの三階の部屋のベランダの柵に手を置いて、こちらを見つめる四つの目の光の輝きがあった。とっさにそばにあった電柱に隠れ、そのまま行こうとしたとき  腰に強烈な違和感が走る。
「……ウッ!」
 それは、冷たい電気が腰に流れたような感覚で、そのままヘナヘナと、道路の上に座り込んでしまった。
 ふんばってみても、どうしても立ち上がれないので、電柱にしがみついてなんとか体を起こしても、それからは壁づたいにしか歩くことが出来ない。
 これはもしかしたら、「ギックリ腰」、とかいうものではないのか、と気づいたとき、急激にまた恐怖を感じた。
 こんな状態でもし、あのセリアンスロープ二人に襲われたら、もうひとたまりもない。
 二十四年間の私の人生も  これであっけなく、終わりを迎えてしまう。
「……そ、そんなのイヤッ」
 私は歯を食いしばりながら、なるべく街灯に照らされていない闇夜を探して、そこにまぎれた。とにかく早く、下北沢の街の中心部へ行きさえすれば、ということだけを、ひたすら考えながら。

     ◾️

 翌日、私は仕事を休んで(とても行けるような状態じゃない)、キャロットタワーの近くにある、整形外科に行った。
 診てもらうと、案の定、
「ギックリ腰ですね」
 という診断を受けた。
 でも当然、「何をしていてなりました?」という、お医者さんからの質問にはーうまく答えられるわけもない。
 二人のセリアンスロープと乱闘した結果です、なんて、正直に答えるわけにもいかなかった。
 結局、靴を履こうと屈み込んだときに、とかなんとか、テキトーに答えるしかなかったけど、そのおじいちゃんのお医者さんは、「まあ、そういうときになることもあるけどねえ」と終始、変な顔をしていた。腰に貼るシップと痛み止めを処方してもらって、大きな、宇宙船のコックピットの椅子みたいな機械に座って腰を伸ばすリハビリをしたあと、コルセットの巻き方を指導してもらって、帰ってきた。

 
 いざ、自分の部屋に戻ってみても、まったく、何もする気にもなれなかった。
 私は大きなグラスにアイスティーを作って、ソファに腰を下ろすと(そうやってソファに腰を下ろすだけでも超ひと苦労なのだ)それを飲みながら、ただひたすらそこでボーッとした。
 本当に、冗談でなく、正面にあるテレビの斜め四十五度あたりの白い壁紙を、ただ飽きることなく、長い時間眺めていた。
 いくら眺めても眺め足りない。そんな感じだ。というのも、そうしてないと、あの律子の部屋での一夜のことを、すぐに思い出してしまうから。
 その記憶の、底の底から噴出しようとする力は  とにかく相当なものがあった。結局は、白い壁紙の向こうから、その記憶は鮮明によみがえってきちゃうわけだけど。
 まずは  律子たちの言っていた、あの数々の言葉だった。
「……」
 量産型マス・プロデュースド・タイプ、だとか、ユーサイキア、だとか。
 それらはいったい、何を意味しているのだろうか。
 なぜ私は  ネギ女とのあの出会いから始まって、こんなことに巻き込まれているのだろうか。
 それよりも何よりも  目下一番に、気になっていることがある。
 それは律子の、
「あんたを利用させてもらう」
 という、あの言葉だった。
 いまはどうやら、セリアンスロープの「会合」に参加していないらしいネギ女が  なぜかこの私を、ある日なんの断りもなしに襲ってきた。
 律子とネギ女との関係が、いったいどういうものなのかは、まだわからない。でもそのことで  自分をどうやら利用できそうだ、と律子は踏んだのらしい。
「……」
 もし、そうだとしたら  私はいまや、あの律子に「追われる」立場になっている、ということを、意味するんじゃないか。
 まだいまのところ、自宅の住所は知られていないと思う。でもそれも、今後の会合の発表次第では、どうなるかわからない。それは思った以上に、早まるかもしれないのだ。
 私は、強い不安に駆られだした。かたわらにあった、「星のカービイ」のクッションを抱きしめる。
 セリアンの会合は、毎月十五日に召集される。次のそれまでには、まだ時間がある。
 とはいえ、もう気が気ではなかった。いずれにせよ、当分下北沢には近づくことはできないだろうと思う。
 いまだ淳の住む、あの街には。


 あとは時間ぐすりだ、とは言われていたけど、三、四日してもギックリ腰はなかなか良くはならなかった。
 やっぱりどう考えても、あれだけ異常な運動を急激にした(マンションの三階から無事逃げおおせた、という事実自体が、いまだに自分でも信じられないのだ)ことの反動キック、としか思えない。
 もちろん、最初の「ブリーフィング」のときにも、そんな説明は一切受けていない。
 私の日々の派遣の仕事は、一日パソコンの前に座ってるものなので、とにかくそれが腰に辛かった。おかげで気分もどんどんふさぎ込んでくる、そんな日が続いていた。
 とにかく  仲のいい誰かと会って、どうでもいいような会話をしたかった。
 ライン交換はそれこそ毎日のようにしてるけど、さっそく真美にレンラクをとってみることにした。するとちょうど向こうも、まったく同じように思ってたらしい。
 お茶&スイーツに誘ってみると、すぐにOKの返事が来る。
 真美は代々木に住んでるので、渋谷で待ち合わせをした。神南にある、お互いお気に入りのこのカフェに来ることは、すぐに決まった。
「……ええっ? ギ、ギックリ腰ぃ?」
 店員さんに案内された席は、深々とした籐製の椅子が置いてあって、そこしかどうやら空いてないようだったので、腰を落ちつけるのにも苦労する。もう、痛くてしょうがないのだ。
「ちょっと何それ。なんかおばあちゃんみたいじゃん」
「……」
 絶対に、その単語が口から出るんだろう、とあらかじめ十分に予測していただけに、余計に言われてイラっとする。
 真美はゴディバのチョコレートをふんだんに使ったショコラパフェ、私は、季節のシャインマスカットを山盛りにあしらったクリームチーズプリン、を注文してた。
 レモンの薄切りの入った水を一口飲んで、テラス席と一体になってる、開放的な店内を見渡す。揃いの白の制服を着た店員さんが、笑顔で接客をしてる。天井の大きなプロペラのようなファンが回って、ゆっくりと空気をかき回してる。
「うるさい」
「……ねえ、でもなんで? ふつうなんないじゃん、ギックリ腰とかさあ。私たちのトシで」
 最初から説明するのも、なんか面倒臭かった。っていうか、この件に関して  私はまだ、真美にあれこれ打ち明けるのを、躊躇してるのだ。
 先日の、あのナス女との恵比寿での一件も、真美は終始変な顔はしていたけど、まあなんとかうまく誤魔化したつもりでいた。
 でも、その我慢も  ちょっといつまで持つか、わからなくなってる、っていうのが正直なところだ。
 だって実際、例えばいま、すべてを目の前の真美に向かって打ち明けた方が、ドッと肩の荷を下ろせるのかもしれないからだ。
 でも、それよりも  そうしたことによる、真美のなんらかの態度の変化  もちろん、大学一年の頃からの親友だから、まさかそんなことはないと思うけど  を怖れている自分もいるのだった。
「まあ、そりゃなんないよね」
「……だから、ヘンじゃん?」
「うん、ヘン。でも、なっちゃったんだからしょうがないよ」
「……」
 綺麗にスプーンの上にまるまるとしたシャインマスカットの一粒を乗せて、黙ってほうばってる私を、真美は首をかしげながら見つめてた。
 と、
「あっ。てかそう  ヘン、で思い出した。ちょっと一つさあ、聞いて欲しい話があるんだよね」
 と、ショコラパフェを口に入れながら、こっちに軽く身を乗り出して、真美が言った。
「話?」
「うん。私の友達でさ  あっ、てかたぶん、アッコは会ったことないと思うけど  女の子が、一人いるのね。で、その子がね、そのまた友達の、もう一人のある女の子と、話をしてたんだって」
 テラスの先を、真夏の日の光を浴びながら、近くの会社で働いてそうな男女が数人歩いてゆくのが見える。そろそろお昼どきの時間でもあって、だんだんそっちのお腹も空いてくる。
「……ねえ、先にスイーツ食べちゃったけど、このあとお昼も行かない?」
「うん、いいよ。でね、聞いて、その二人が  突然そのときに、とっくみあいのケンカを始めちゃった、っていうの」
 プリンに突き刺そうとしたスプーンの動きが、一瞬止まった。
 真美と、目を合わせる。
「……え?」
「うん、でね。それだけならまあ  まだ、まだわかるじゃない。そしたらさあ、その私の友達がね  その子の友達に、突然ダイコンでボッコボコにされちゃった、っていうのよ」
「ダッ  
「そう、ダイコン。ねえ、それすごくない?」
 それ、すごくない?  っていう  語尾の上がった真美の一言が、頭の中でリフレインした。
 すくい上げたプリンを口に入れる気が、急になくなってしまった。そのままスプーンを、受け皿の上に戻す。
「ねえ、その話、もう少し詳しく教えてくれない?」
 私は真美と目を合わせて言った。
 真美によれば  その二人は、いまの私たちのように、ある日お茶をしてたらしい。場所は、原宿。
 それまでは、普通に話をしていたのが、あるときから急に、相手の様子がおかしくなった、というのだ。
「……なにきっかけなの? それ」
「それがよくわかんないっていうの。その子  樋口、確か下の名前はマヒロ、だったかな、って子が、急に顔を真っ赤にして怒りだして、って」
「その子は、何をやってる子?」
「確か、コンビニの店員かなんかで  で、さいきんやめちゃった、とかだったと思うけど」
 私はこめかみのあたりを、繰り返し指先で揉んだ。そして考える。
「もともとその子、少し情緒不安定なとこがあったらしいんだけどね。でも、そんなことはいままでで初めてだった、って。で、突然カバンの中からダイコンを取り出して  ほら、三浦ダイコン、って見たことある? すっごく太いやつ」
「うん、ある」
「あれで、その私の友達の横顔を  
 殴られた方には、さいわい重大な怪我や異常はなかったらしく  軽い脳震盪を起こしてしまったようだけど  仲のいい関係だっただけに、面倒な揉め事のようにするつもりはいまのところないのだ、とその子は言う。
 それよりも、その樋口という子の突然の変貌ぶりに、強いショックを受けている、ということらしかった。
「……てか、その子ヤバくない? ねえ、どう思う」
「……」
 私は暗に  真美が私を見透かそうとしている、と邪推してしまうのを、やめることができなかった。
 でも、よくよく考えてみれば、そんなわけはない。そのことを、私は真美にまだ、一言だって口にしてはいないからだ。
「その、樋口って子とは仲がいいの」
「え、私が? いや、会ったことない」
「……連絡先は、知ってる?」
「連絡先? え、知らないけど  
 私がいま、ひとえに考えているのは、つまり、このことでしかなかった。

 ……その子も、やはりセリアンスロープなのだろうか

 受け皿に置いた、スプーンのプリンを口に入れても、もう味もなにもよくわからなくなっている。
 確かに、そう、例えば、その樋口って子と、私とナス女とのときのことを、比較してみる。
 よく、似ていた。でも、すぐに気づく違いが一つある。
 この樋口、って子は、その真美の友達を、その場でいきなりダイコンで殴ったのだ。
 しかも、真昼間の原宿で。
 これまでの経験で思うのは、セリアンたちは妙に人目を気にする、ということだ。その点で、明らかにその樋口って子はどこかタガが外れてる。
 ということは、彼女はセリアンではない、ということなんだろうか。
 ただ、たまたまそのときダイコンを持っていて  たまたまイラっとしたから、それで殴った、ってことなんだろうか?
 
 ……そんなわけない。

「ねえ、どうしたの?」
 真美はそのまま深く考え込んでしまった私を見ると、少し心配するように言った。
「あのさ。ちょっとお願いがあるの」
「……お願い?」
 軽く真美は、目を見開いた。
「その  樋口って子と会ってみたいの。なんとかなんないかな」
「えっ? それはたぶん大丈夫だけど  でもなんで?」
 今度話す、そう、私は答えた。
 確かにいま、ギックリ腰も全然完治してない状態でそんなことをするのは、あまりに無謀すぎるし、危険極まりないのは十分わかってる。
 でも、どうしても放っておくことはできなかった。腰が治ってから、なんて悠長なことも言っていられない。
 だって、その子が今日にでもまた、別の子に同じように爆発してしまうかもしれないからだ。
 べつに、自分の身にふりかかったわけでもないんだから、見て見ぬふりをすればいい、とかって考えることも出来なかった。なぜなら私はすでに、このことに巻き込まれてしまっているのだし、私はその子に呼ばれているような、そんな感覚すら覚えるのだから。

     ◾️

 真夏の渋谷はとんでもない暑さだった。
 日傘をしていても、まるで何のイミもないように思えてくる。日焼け対策は万全にしてるつもりだけど、それも全部無効にされてるような、そんな本気の夏の日差しが、快晴の青空から矢のように降り注いでくる午後だ。
 いつものことだけど、人出も多かった。スタバの前で、その人の渦を眺めながら約束の時間が来るのを待っていると  無事彼女と出会えるか、そして出会ったあとは、果たして無事でいられるのか  そんな緊張と不安が襲ってくる。
 真美とあれこれ相談した結果、私が彼女に紹介してもらう、そんな口実を考えておいた。その子は韓国のアイドルグループ、ブラックピンクの大ファンで  特にロゼ、って人が熱烈推しなんだという。
 私はまったく、何の知識も興味もなかった(真美から聞いて、ようやくその存在を知ったくらいだ)けど、自分も同じくらいのファンなのだ、ということにして、その推し活の一環で、彼女に会いたがっている、という設定にしてみた。
 もちろん、そんなかりそめの設定は、話しだせばすぐにバレてしまう。でも、彼女とごちゃごちゃムダな会話をするつもりは、私にはハナからなかった。
 直球ストレートで  いきなり本題に入るつもりだったのだ。
「……大貫、敦子さんですか?」
 言われてハッとした。
 見ると目の前に  フリルのついた、ピンクのワンピースを着た、一人の女の子が立っていた。
「……はっ、はい」
 それまで真美から聞いていた、さまざまな話から総合して、自分なりにこんな感じの子だろうか、と想像していた、そのすべてのイメージと、目の前の女の子は違っていた。
 黒のツヤのある厚底靴を履いててもひどく小柄で、涙袋をこれでもかと強調したアイメイクの目が、ジッ、とこの私を見つめてくる。
「樋口  真尋さん、ですか」
 そう聞くと、はい、とその子は答えた。


 スタバの店内に入ると、私はアイスカフェラテ、樋口真尋は苺の果肉の載った苺フラペチーノを注文した。
 妙に大きなリズリサの、まるでショートケーキみたいなピンクの柄のトートバッグを、椅子のかたわらに置く。
 窓際の席に私たちは座ると、あらためて初めまして、と言い合った。その後、何も言わずに黙ってる私を見て、彼女はさっそく、
「……誰推しなんですか? ジス? それともロゼ?」
 と聞いてきた。
 私がわざわざ、こんな渋谷のど真ん中で待ち合わせをしたのは  セリアンスロープは人目を避ける、という、例の格言を信じてのことだ。
 でももちろん、それが通用しないかもしれない、ということは、十分覚悟している。
 カバンの中には、いつもの花柄のゴボウケースの中に、しっかりとゴボウを持参してきていた。
「……APT.は、もう聴いた? ブルーノ・マーズとコラボしたやつ」
 言うと、樋口真尋の顔がパッ、と  まるで花が咲いたように輝いた。
 正直、その曲しか検索してないけど。
「あの曲、もう最高ですよね? 頭おっかしくなるくらい、超ヘビロテしてるんですよぉ  
 さらに二の句を継ごうとした彼女を遮ると、私は言った。
「……でも、ごめんね。私、そのどっちの推しでもないの」
 樋口真尋は、首を傾げた。
「えっ?」
「……ねえ、すごく可愛い服ね。いつもそんな感じのファッションなの」
 彼女の胸のあたりにある、大きなリボンを見ながら言った。
 ピンクとブラウンのツートーンカラーの、まるで作り物のようにツヤのあるロングヘアーを指で触りながら、眉下あたりで真横に切り揃えた前髪の下にある、その大きな目で私を見た樋口真尋の表情が、一瞬凍りつく。
「……ごめんなさい。今日、あなたと会った理由は、他でもないの」
 樋口真尋は、斜め下に視線をそらせ、石化したままでいる。
「あなたに一つ、質問があるの。あなたは  セリアンスロープ、という言葉を知っている?」
 とたんに彼女はカッ、と目を見開くと、椅子をガタッ、と動かして、リズリサのトートに手を伸ばそうとした。
「待って」
 息を飲んで、テーブルの上に残っていた、彼女の左手の上に自分の手を重ねる。
「……安心して? 私は、あなたを攻撃したりしない。あなたたちのことを、少し教えて欲しいだけなの」
 疑い深げかつ、さっきまでとはまるで別人のような、そんな残忍そうな顔で、彼女は聞いてきた。
「……あなたも、セリアンなの?」
「そうよ」
 すると彼女は、突然こんなことを言った。
「……あなたはアンティオペなの、それともパイドラ?」
「えっ? ア、アン  
 意味がわからず、そのまま黙っていると、
「もし、あなたがパイドラなら  こうして話をしてるだけで、私が粛清の対象になることぐらい、知ってるんでしょう」
 そんなことを言い出した。
「……あの、ちょっと待って。あなたが何を言ってるのか、さっぱりわからないのよ」
 素直に私はそう言った。樋口真尋は、とても女の子らしくない、醜い眉のひそめ方をしてみせる。
「あなたの、登録はいつなの」
 登録  前回の、あの会合の時か、と思って、その日付を言う。
「何か、資料のようなものをもらうんでしょ。そのどこかに書いてあるはずじゃない」
 その言い方に、私は少し、違和感を覚えた。
「ねえ、あなたは、あれに参加したことはないの?」
 とたんに私は、先日律子と鼓の言っていた、量産型マス・プロデュースド・タイプ、という言葉を思い出した。

 ……あんたなんて、ただの量産型マス・プロデュースド・タイプだよ。

 ……鼓はね  量産型マス・プロデュースド・タイプの女が大っ嫌いなんだよ。もう二人殺してる。

「……あなたは、本当にユーサイキアなんて信じてるの」
 怒りのこもった口調で、彼女がそう聞き返してきた。
「ユーサイキアが『纏』から自由だなんて  本当に信じてるのか、って聞いてるのよ」
 あの時  律子たちの口から次々飛び出してきた謎の言葉が、ここでも繰り返されていた。
 でも、その言葉同士の繋がりが、まるで見当もつかない。
「私たちは、この戦いにきっと勝利するわ。そのことは、ユーサイキアがどちらに何人いようと、本当は関係がないはずじゃない」
「ごめん。ちょ、ちょっと待ってくれる? あなたが何を言ってるのか、まったくわからないの。一から説明してくれないかな  
「そんなことよりまず、あなたがアンティオペなのかパイドラなのか、はっきりさせることが先決じゃない。当然でしょ? そんなあやふやな相手に情報をベラベラ喋るようなのが、いったいどこにいるっていうのよ」
  
 と、突然樋口真尋は席を立った。そして、一言言った。
「あなたの匂いは、覚えた」
 一瞬、私はゾッとした。律子もまったく同じことを言っていたような気がする。
「せいぜい気をつけることね。私たち量産型マス・プロデュースド・タイプ  ルールはないの」
 言って樋口真尋は、トートバッグを手に取ると、早足で私の前から去っていった。

     ◾️

 家に帰り、机の椅子に座ると、引き出しの中から例の資料を取り出して、机の上に広げた。
 見ると確かに、右下の枠外の片隅に、小さくP、と書かれてある。
「これか  
 それまで何度も繰り返し見てきた資料だったけど、言われるまでまったく気がついていなかった。あるいは特に意味のない記号だと、無意識のうちにスルーしてたのかもしれない。
 ということは、私はP、つまりパイドラ、ということになるのか。
 逆に考えれば  これまで私が闘ってきた相手  つまり、ナス女や山芋女、そして律子たち  は、全員アンティオペ、ということになる。
 じゃあ  あのネギ女は?
「……」

 ……っていうか、だから何なの。
 そもそも私たちは  何で闘ってるの?

 部屋着のスウェットの上下に着替えていた私は椅子を立つと、ソファに座り直して、グラスの中の麦茶を一口飲んだ。
「はあ」
 結局  あの樋口真尋の暴走を止めるどころか  さらにイミフなあれこれをつきつけられて終わっただけのような、そんな気がする。
 そう思って一人、しばらく落ち込んでると  手元にあったスマホがラインを着信した。
 手にとって見ると、武田駆さんからだ。

 ……あっ。
 ヤっ、ヤバい……。

 慌てて内容を確認する。と、案の定  先日の食事へのお誘いの、返事の催促だった。
 ここのところの、猛烈な忙しさにかまけて  返事するのをすっかり後回しにしてしまっていたのだ。
「ちょっ。どっ、どうしよ  
 正直言って、こんなしっちゃかめっちゃかな状態のときに  男の人と食事に行くなんて、とても乗り気にはなれなかった。
 なれないけど  とはいえこんな風に長い間放置したままで置いて、いまさらやっぱりごめんなさい、と断りを入れるのも、人としてどうなのだろうか。
 それにべつに、私は彼からの誘いを、迷惑に思ってるわけでもなんでもない。
 結局  しばらく考えた後で、武田さんにはOK、の返事を出すことにした。するとさっそく、詳しい日取りの打ち合わせが始まる。
 渋谷のセンター街の近くに、よく行く美味しいシーフードのお店があるので、そこでどうですか、と武田さんはいう。
 もろもろ了承、の返事を送って、スマホを置き、ほっ、と一息ついて、ソファにもたれると、その姿勢をガバリ、と起こした。

 ……待てよ。

 ふいに私は、先日の恵比寿での、あの合コンのときのことをまた思い出していた。

 ……なんか  イヤな予感がしない?

「ちょっ。待っ」
 でももう、武田さんへの了承の返事は、送ってしまっていた。
 しかし、考えてみれば  次のセリアンの会合は、まだその先なのだった。そうである以上、まさかあのときのようなことはないだろう、とは思う。
 そう。正直ちょっと  私はこのことで、いろいろノイローゼぎみに、なっているのに違いない。
 せっかくの武田さんとの二人でのお食事なんだし、楽しまなきゃ。そう、私は考え直してソファを立ち上がった。

     ◾️

 それにしても、淳以外の男性と、二人で食事をするなんて、いったいどれくらいぶりだろう。
 そう、ついつい本気で考え込んでしまうほどに、その遠い遠い記憶はもやがかって、霧のようにもうろうとしていた。
 とても先日の合コンの比じゃない、そんな気もする。
 それだけ私は  元カレの淳に夢中だった、と言えるのかもしれない。
 あいかわらず、猛烈にムシムシする、渋谷の週末の夜だった。私はその不快な、湿度200%の空気から逃れるようにして、マークシティの地下にある本屋さんへと続く、下りのエスカレーターに乗っていた。
 ほどよい空調の効いた空気に包まれると、ついホッとする。
 本屋さんに待ち合わせの場所を指定したのは、武田さんの方だった。もちろん、その理由は、もし早めに着いてしまっても、中で時間を潰せるからだ、ということらしい。
 お互いに本や漫画好き、という、先日の合コンのときに交わした話を、どうやら彼は、しっかりと覚えてくれていたらしい。そんな彼に、私はあらためて好感を持った。
 気持ちがはやってしまったのかなんなのか、約束の時間の三十分前についてしまった私は、さっそく店内をぶらぶらすることにした。本屋さんに来ること自体、久しぶり。
 新刊コーナーから始まって、雑誌コーナー、新書コーナー、文庫コーナーなどと、あてもなく歩いてると、ふとそのとき、一人の男性が目に入った。
「……」
 その人は、妙に背が高く、白シャツの上にパンクミュージシャンがよく着てるような、黒の粗いセーターを重ね、男もののスカートのような、黒の履物を履いていた。
 肩からは、やけに膨らんだ黒の肩掛けバッグとともに、真紅のミュウミュウのポシェットをかけている。
 髪は肩ほどまであるロン毛で、顔には女も顔負けのメイクをし  口紅も引いている。
 その顔は  見ててちょっとゾッとしてくるほどの、美形だった。
「……」
 その人は、岩波文庫の棚の前にいて、手を伸ばして本を取り、ページをペラペラとめくっていた。本好きあるあるで、岩波文庫はその「帯」の色で、大まかなジャンルがなんなのかがわかる。
 その人がいま、どんな興味を持っているのかが、それで一目でわかるのだ。
 その人が手にしている本は、「水色」のものだった。「水色」と言えば、哲学、思想とか、そっち系の本だ。
「……」
 その人は、手にしていた本を戻すと、単行本のコーナーへと足を向けていった。ざっくりその本を戻した場所を覚えておいた私は、なにげないフリをしてそこにおもむくと、チラリと目で確認してみた。
 そこには、プラトンの本が、何冊か並んでいた。
「……大貫さん」
 ハッとして振り返ると、そこに武田さんが立って、私に笑顔を向けていた。
「岩波文庫で、なにを探してたんですか」
「……あっ。いえ、違うんです。特になにも」
 答えてから、べつに挙動不審になる必要もないのにな、と、自分でもおかしく思う。
「他になにか、見たいものはある?」
「いえ、大丈夫です」
「じゃ、ちょっと早いけど行こうか」
 言って武田さんは、出口の方へと足を向けた。私はふり返って、さっきの男の人の姿を探したけど、もうどこにも見当たらなかった。


 そのお店は、井の頭通りをまっすぐ進んで、小脇の路地を入った場所にあった。
 センター街の近く、と聞いてたので、賑やかなお店なのかなと想像していたけど、入ってみるとひっそりとした、隠れ家的ないいお店だ。
 10席くらいあるテーブルは、私たちが通された、一番奥の席の隣以外、すべて埋まっていた。その隣の席も、予約済み、の札が置かれてある。
「……すごく美味しいんだよ、このお店」
 壁側の席を勧めてくれた武田さんが、メニューを開いて私に見せながら言った。
「そうなんですか」
「大貫さんは、食べられないものとかあるのかな?」
「いえ、とくには」
 じゃあ、反対に好きなものはなに、と聞かれたので、エビ、と答えると(ていうか甲殻類全般)、シュリンプのフリットを注文してくれる。ほかにもゼッポリーニだとかクラブサラダだとか、パエリアだとかイベリコ豚のアヒージョだとかを相談しながら注文して、まずは白ワインで乾杯した。
 軽くまだ緊張しつつ、口にしたワインを置くと、私はあらためて、目の前の武田さんをじっくりと観察してみた。
 今日も麻のジャケットとパンツのスタイルだったけど、インナーのTシャツは、ブラックジャックじゃなかった。また次のなんらかの嗜好を、Tシャツで表現してくるのかな、と少し期待もしてたんだけど(笑)、普通にシックなグレーの無地だ(たぶん、頼めばいくらでもやってくれるんだと思う)。髪は前よりも少し短くなってて、スパイラルのパーマをかけ直してる。
 黒縁のメガネも、前のときと一緒のものだった。笑ったときの歯が白い。
 お酒がある程度進んでも、顔色もあんまり変わらない。
 前回はなぜか、そこまで思わなかったけど  よくよく見てみると、とても整った顔立ちをしてることに、いまさらにして気がついていた。これなら    
  きっと真美も及第点を出してくれるんじゃないだろうか。
 いますぐこの場で写メを撮って、真美に送りつけてやりたい、そんな気持ちを抑えるのが大変だった。ちなみに真美が、あのときの令和版羽賀研二みたいな人と、彼氏がいるのにもかかわらずその後食事に行ったことを、私は知っている。
 それはともかく  美味しいご飯を食べ、ゆっくりとお酒を楽しみながら、武田さんととりとめなくいろんなことを話してると  それまで少なからず感じてた緊張感もなくなって、私はいつになくリラックスした気持ちでいることに気がついていた。
 ……ああ。こんな楽しい時間は、いったいどれくらいぶりだろう。
 最後に感じたのは、いったいいつだったかすらも思い出せない。
 思えば  つい先日には、私はSMに使う拘束具で、律子のマンションに監禁されそうになっていたのだ。
 その後ギックリ腰になったりして、ほんとにもう踏んだり蹴ったりだった。
 もちろん、そんなことを彼に向かっておくびにも出すわけにはいかない。
 そんなあれこれを知ってか知らずか  武田さんはさっきから、終始私に優しかった。
 自分の脈絡のない話を最後まで、相づちを打ちながらしっかりと聞いてくれる。
 正直  いま、この瞬間だけは、私は淳のことを忘れていられた。
「……何か飲む?」
 私のワイングラスが空になっているのを見て、武田さんがそう聞いた。
「あ、じゃあ、白ワインをもう一杯」
「同じやつでいいかな」
「次はもう少し、甘いやつがいいです」
 武田さんは手を上げて、店員さんを呼んだ。
「……そのネックレス、すごくいいよね」
 自分の飲み物も含めて注文を終えると、武田さんが言った。
「……そうですか?」
「うん。すごくいい。似合ってる」
 今日つけてたのは、Canal 4°c のシンプルな、ジルコニアの並んだシルバーネックレスだ。
「高かったんじゃなかったのかな」
「いやっ、全然。そんなことないですよ」
「……誰か男性に、プレゼントされたとか」
「えっ。いやっ、違いますって」
 言うと、武田さんは笑って、ワインをまた一口飲んだ。
「……」
「……」
 それからしばらく、お互いに無言になる。
 いっくら実はギックリ腰が治りかけの女とはいえ  、一応現役バリバリの花の乙女である以上、武田さんが私に好意を持ってるらしい、ということをキャッチできないほど、そのアンテナの感度が鈍ってるわけじゃなかった。
 もし仮に  今後武田さんに告白されることにでもなったら、自分は果たしてどう答えるだろう、とついつい妄想してしまう。
 べつにいまの段階で、誰に迷惑をかけてるわけでもないんだし、こんな妄想、いくらしたって文句を言われる筋合いはないじゃない。

 そう。私は  

 そのとき、最後まで空いていた隣の予約席に、新たなお客がやってきた。
 それは、三人の女性客で、その三人が三人とも、ピンクのフリルとリボンのついたブラウスを着、黒やグレーのギンガムの、フリルのついたスカートを履いて、黒の厚底靴を履いていた
 私はその三人の姿を見た途端、背筋が凍りついた。
 一方、目の前の武田さんは、ちょっと変わったお客だな、ぐらいの表情を見せたあとで、すぐに視線を元に戻し、自分のお皿のパエリアの、ムール貝の身をとっている。
 私の座っている、壁側の席の並びにいる女の一人は、樋口真尋だった。彼女も含めてその三人は、両手を重ねて太腿の上に置き、背筋を伸ばして席に座ってる。
 と、突然三人は一斉に、体の動きを合わせてそれぞれの「推し」を表現した痛バッグの中から、一本の極太のダイコンを取り出すと、ドン、と机の上に置いた。おかげでガチャン、とテーブルの上のものが大きな音を立てる。
 その様子を見て  私と武田さんはただあっけにとられていた。
 そこへ、注文を取りに店員さんがやってきた。即座にテーブルの上の三本のダイコンを認めると、
「あの……店内でこういったものを召し上がられるのは……」
 と、困惑した様子で言った。
 そうだ、店員さん頑張れ、そしてこの三人をいますぐ店の外に叩き出して、ついでに警察を呼んでくれ。そう、心の中で強く念じる。
「……べつに、食べるわけじゃないわ」
 そう、真尋が目を合わせずに言った。そしてメニューを広げると、
「ポテトフライを一つ」
 と無愛想に注文する。
「お飲物などは……」
「いらない。以上」
 妙な顔をしつつ、店員さんは下がっていってしまった。
「でもさあ……」
 真尋の向かいにいる、一人の量産型マス・プロデュースド・タイプの女が言った。
「パイドラの女も、迂闊なもんよね。こんな渋谷のど真ん中で  ノンビリ男と食事するなんてさ」
「ほんとだよね」
 スマホを手にして、さっきから指先をせわしなく動かしている、もう一人の量産型マス・プロデュースド・タイプが答える。
「私たちも、舐められたもんよね」
「……この女の『纏』は弱い。やるならいまよ」
 そう真尋が二人に言った。
 そこへ真尋が注文した、ポテトフライがやってきた。三人の量産型マス・プロデュースド・タイプは、足を組んだり頬杖をついたりスマホを見たりしながら、そのポテトフライを水を飲みながらつまみ始める。
 目の前の武田さんにも、その会話は聞こえてるようだったけど、意味がわからないからか、黙って聞き流してるように見えた。
 私は、さっきから  とにかく顔から火が出るほどに恥ずかしかった
 そして何よりも、後悔してることがある。

 ……今日、私は、ゴボウを持参してこなかった。

 迂闊すぎるほどに、迂闊だった。生唾を飲み込み、手のひらにじわじわと汗をかいてくる。
 私はこのとき初めて、自分が巻き込まれてることの「本気度」に気付かされたような、そんな思いだった。
 もうおそらく私は、どこにも逃げる場所はないのだ。私はパイドラの側の人間で、まったきセリアンスロープなのだ。
「大貫さん」
 そのとき、武田さんが私を真正面から見ながら言った。
「……出ようか」
「えっ?」
「いいんだ、出よう」
 武田さんがそう言った瞬間、隣の席の量産型マス・プロデュースド・タイプ三人が、ポテトフライを手にしたまま、一斉に目を剥いてこっちを見たのがわかった。
 かまわず武田さんは立ち上がると、私の手を引いて、出口に向かって歩いていきながら馴染みらしい店員さんに声をかけ、謝りの言葉を言ったあと、多めのお金を渡してすぐに店を出た。
 あっ、あの  と店員さんが、後ろから声をかけてくるのが聞こえる。
 お店を出るとき振り返ると、量産型マス・プロデュースド・タイプの三人は、さっきと同じ目を剥いた表情で、この私を睨みつけていた。


「……何かおかしいな、って思ってたんだ」
 センター街の方へと向かって私の手を引き、早足で歩きながら武田さんが言った。
「あのコンパのとき、妙な女の子が一人いたろう? あのあと、急に二人していなくなってしまったし」
「……」
 私はその場に立ち止まると、武田さんの手を離した。
 とたんにハッ、とした顔をして、武田さんが振り向く。
 私は、とにかくいろんなことを、グルグルグルグル頭の中で考えていた。
 まず、第一には、これ以上武田さんに迷惑をかけることは出来ない、ということだ。
 そして、もう一つは  もうこれ以上このことを武田さんには知られたくない、ということだった。
 なぜ、そう思うのだろう。そう、考えなくもない。でも、とにかくそうなのだ。これ以上、あらゆることが漏れ出てしまうことに、私は耐えられそうにない。
「……今日は本当にありがとうございました。私はここで」
 そう、武田さんに言った。
「えっ、で、でも」
 これ以上私は、ほかに言うべき言葉を持たない。
「……じゃあっ!」
 言って私は、手前の路地を109の方角へと向かって走っていった。
 きっと呆然としてーー武田さんは私のことを見つめているはずだった。そしてこれでもう、終わりになるかもしれなかった。


「……殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
 全力で走りながら、私は呪詛のように呟いた。
 せっかく武田さんとうまくいきかけたのに  それを見事にあの量産型マス・プロデュースド・タイプ三人に邪魔されたことに対する怒りが、込み上げてきてやまない。
「ゴボウゴボウゴボウゴボウゴボウゴボウゴボウゴボウゴボウ」
 そうもつぶやきながら、私は私の中の半分くらいが、何か特別なものに変質していることに、うっすら気がつき始めていた。
「ゴボウだ  
 言ってでも、ここは渋谷のど真ん中だ。納得のいく、新鮮なゴボウを売っているところなど、どこにも見当たらない。
 ブレーキをかけて立ち止まり、向かうべき方向を考えながら、周囲を見渡していたときだった。
「……君が探しているのは、これかな」
 ハッとして、その声の聞こえた方に目を向けた。と  すえた匂いのする路地の暗がりに、一人の男性が立っていた。
「ほら。これだろ」
 言ってその人は、私に向かって、右手で真一文字に握りしめた、大ぶりの泥つきゴボウを差し出してきた。
 その、黒のスカートを履いた姿に  武田さんと待ち合わせたあの本屋さんでのことを、思い出した。
「……違うのかい」
 その人と、目を合わせる。
 確かに、いま自分は、喉から手が出るほど、そのゴボウが欲しい。
 でも  
「あなたは誰」
 聞くと男性は、微笑みながら言った。
「僕が誰か、なんてことより  いまの君には大事なことがあるんじゃないのかな。量産型マス・プロデュースド・タイプの雑魚どもに  襲われているんだろう」

 ……ちょっと待って。

 この人はいま、量産型マス・プロデュースド・タイプという言葉を口にした。
 そしていま、私がそのゴボウが欲しい、ということも、知っている。

 ってことは  

「あなたも、セリアンスロープなの?」
 聞くと彼は、
「そうだよ」
 と答えた。
「僕も、セリアンスロープだ」
 言って彼は、ジッ、とこの私を見つめている。

 でも待って。
 ……セリアンスロープって、みんな女のことなんじゃなかったの

「でも思うに  君たちのようなやり方では、『纏』のことはわからないよ」
 と、彼はその場に屈みこんで、片膝で頬杖をし、軽く首をかしげ私を見上げながら言った。見上げると言っても、体が大きいのでそこまでじゃない。
「これで僕が、君の事情をよく知る人間だということがわかったろ。ほら、遠慮はしなくていいんだ」
 その座った姿勢のまま、彼はさっきと同じように私にゴボウを差し出してくる。
 私は黙って彼に近づいていくと、そのゴボウを受け取った。
「……オッケー」
 その韓流男性アイドル的薄味顔に、一瞬渋谷の路地の街灯の光があたってきらめく。彼は立ち上がった。とたんにこちらがまた見上げなきゃならなくなる。
「それじゃあお手並み拝見、といこうか。連中をるのに、何分かかる?」
 言って彼は、黒の袋型の肩掛けバッグから、一個の大きな茶色く丸い果物を取りだした。私は目を凝らす。
「それは何?」
「ヤングココナッツさ」
 彼は右手でその果物を放り投げては受け取るのを繰り返していた。
「十分  いや、五分かな」
「わからない」
 急に彼は顔をしかめ、網セーターの袖で鼻を覆った。
「……すごい匂いだ。すぐに嗅ぎつけて、ここへやってくる」
 彼は言うと、私の手を取った。
「こっちだ。ここでは、人目が多すぎる」
 彼と私は走り出した。

     ◾️

 私たちがもう一度、繁華な表通りから裏路地に駆け込んでくるのと、その物陰から突然ピンクのワンピースを着た三人が、まるで湧き出るようにして出てくるのとは、まったく同じタイミングだった。
 一人がまるで鬼のような形相で、首の青い極太のダイコンを振り回してきた。
 その向こう見ずな攻撃には、でもわずかにスキがある。それが私にはわかった。
 スピードも、これまでのセリアンたちとは、比較にならないほど鈍重だ。
 私のなぎ払ったゴボウがその女の腹を捉えて、彼女は顔を苦痛に歪めて腰を折った。後ろでさっきの男性が、口笛を鳴らす。
「……自己紹介しておくよ。僕の名前はうるうだ。沙門潤」
うるう  
 と、もう一人の量産型マス・プロデュースド・タイプが、潤に襲いかかる。彼は相手の顎を蹴り上げたあと  両手に持ったヤングココナッツで横殴りにした。された方は吹き飛んで、網フェンスに激突する。
 見ると真尋が、強い憎しみのこもったような目で、私を見据えていた。
「……あなた、テセウスとグルだったのね」
「グル?」

 ……テッ、テセウス?
 なにそれ……。

 とたんに潤は、声を上げて笑い始めた。
「パイドラだけじゃないさ。君たちアンティオペとも僕たちは、いつでも交渉する準備はある。少なくとも、僕はそう考えている」
「嘘じゃない、そんなの」
「嘘なもんか。それをはねつけるのは、いつも君たちの方なんだ」
 呆然としながら、私は二人の話を聞いていた。当然まったくわけがわからない。
「いずれにせよ、君のようなつまらない雑魚と話すことは何もない。煮るなり焼くなり勝手にしろよ、ゴボウ女」
「……」
 必死の形相で、ダイコンを構えている真尋を見た。
 確かに  今日みたいにまた、いろんなあれこれを彼女たちに邪魔され、干渉されるのは不愉快だ。
 でも、だからといって、潤の言うように、ここでいま、真尋にとどめを刺そう、などという気には、私はなれなかった。
 それより何より、このすべてを引き起こしている、私の、いや、私たちの背後にある、なにか陰謀のようなものを明らかにすることなしには  きっと真の解決には至らないはずなのだ。
「もう、行って。でも、今日のような真似は二度としないで欲しいの」
 私は真尋に言った。と、彼女はゆっくりと、構えていたダイコンを下ろした。
「律子様が  至上シュープリームのユーサイキア』になる日は近いわ」
「えっ」
 突然、あの金髪の女の名前が出てきたので私は驚いた。
「でも、あの方が心配してるのは、パイドラのユーサイキアン・マネジメントの進行具合よ。確かにいまのところ、ゲームでは私たちの方が優勢。でも、それはただの見かけに過ぎない」
「パイドラの中に  至上シュープリームのユーサイキア』の存在が、どうやら噂されてるらしいね」
 潤が言った。
「君はきっと、それを調べている斥候なんだな」
 その時突然、潤は手にしていたヤングココナッツで、真尋を横殴りにした。グシャッ、という音が、私の耳まで聞こえてくる。
「ちょっ  もうやめて!」
 真尋は意識を失ったのか、その場に倒れて動かなくなった。
「どうしてだい。君の大事なデートを邪魔されて、ムカついてたんじゃないのか。君の発してた匂いが、それを証明しているじゃないか」
 潤は真尋を見下ろすようにすると、また一歩近づいた。
「君がやらないなら、僕がやってやろう。こんな量産型マス・プロデュースド・タイプのクズは  生きていてもしょうがないんだから」
 私はその場から一歩踏み込むと、潤の前にゴボウを振り下ろした。おっと、と彼は声を上げて、軽く飛び退く。
「もうやめて。無駄な暴力は見たくないの」
 と、かすかに笑い声のようなものが聞こえた気がした。見ると口と鼻から血を流しながら、真尋がゆっくりと体を起こしている。
「……あなたたちテセウスも、これからゲームに参加するらしいわね」
「運営の、たっての希望だよ。べつに断る理由はないさ」
「何を、考えてるの。言いなさい」
 潤が何かする前に、私はゴボウで制する。
「……ゴボウ女」
 真尋が言った。
「あなたの元カレの名前を、教えて上げましょうか」
「……えっ」
「淳、でしょ、戸上淳。違う?」
「……なんで、知ってるの」
 隣にいる潤が、ジッと私を見ているのがわかる。
「さいきん、その淳君に、彼女ができたの知ってる?」
「カッ  
 全身から、すうっと力が抜けていくのがわかった。それと同時に、鳥肌のようなものが立ってくる。
「その彼女は  私たちアンティオペよ」
「なんですって」
 その瞬間、潤がヤングココナッツで真尋の右頬をまた殴り飛ばした。まるでスローモーションのようにして、真尋はもんどり打って倒れる。
 その血にまみれた顔は、でも笑っているように見えた。
 私はただ呆然として、その場に立ちすくんでいた。


 つづく

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