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ネギ女 その5 アンティオペとパイドラ、の巻



    Dear Mr. Hudson,

 

 いかがお過ごしでしょうか。
 ここ、ヘイト・アシュベリーは例年になく、日中は暑い日が続いております。それでも夜になれば、グッと冷え込むので、そんな気候に慣れているはずのこの私も、おかげで少し風邪気味になってしまいました。そのせいで、以前にお話しした、ヘイトストリートに新しく開店したラーメンショップに通うこともままならず  日本人のシェフが腕を振るう、それは本格店なんですよ  アパートに引きこもって、味気のないセロリとブルーベリーとトマトのスムージーをひたすら流し込む、そんな日々を送っております。
 そういえば、先日ご招待した、ソノマカウンティのワイナリー訪問はいかがでしたでしょうか。ワインといえばボルドー一択、のハドソンさんに、我がふるさとカリフォルニアのワインの素晴らしさを認知させるという私の目論見は、果たして成功したのでしょうか。もしよろしかったら、ナパの方にも知り合いの経営する良いワイナリーがありますので、ぜひまたご一緒できればな、と思っております。
 さて  
 しばらくぶりに、今回お手紙を差し上げましたのは、そちらの「運営」の方から上がってくる報告書に目を通していたところ、たいへん興味深い事例を見つけましたので、少しだけお耳に入れておこうかと思ったからです。
 世界中で進行中の私たちのプロジェクトの中でも、特に日本の動向に  私はたいへん深い興味と関心を寄せております。
 親日家であり、日本美術の蒐集家でもあるハドソンさんであればなおのこと、同じような関心を持っていただけると思っておりますが  いつものソフィのbogusたわごとが始まった、と思われるなら、それでも全然構いません。
 先日も、カストロのとあるコミュニティのイベントに、調査フィールドワークもかねて参加してきたばかりなので、その興奮の冷めやらないまま、「運営」からの報告に目を通したことからくる認知バイアスが、多少なりとかかっているのかもしれません。
 さて、いずれにしましても、とにかく日本での我々のプロジェクトの進捗状況は、たいへん興味深いものです。そもそも、文化人類学的見地から言っても  各地域で同じプロジェクトが同時進行しているとはいえ、そこには多種多様なあらわれ  「多様性」という言葉はさいきん、評判がずいぶん悪いですが  が、きっと起こるだろうというのは、最初にハドソンさんにご報告申し上げた通りです。
 まず、近頃東京では、アンティオペ国とパイドラ国との間に、新たに男性による第三極が発生いたしました。
 検討の結果、我々は彼らを「テセウス」と名付けました。
 さらに、もう一点。ハドソンさんは、現代日本における「推し」ファンダム文化、というものを、果たしてご存知でしょうか。詳しくは、また後日お会いした際に説明いたしますが、それは日本の「オタク」ナード文化、と呼ばれるものと、たいへん密接に関係しあっており、そのことがどうやら、日本における「纏」の発現にも、何らかの影響を与えているようなのです。
 目下、我々が注視しているのは、東京における第三極のこれからの推移と、果たして他の国々においても、同じような現象が見られるのかといった点です。これがもし、日本固有のものならば  たいへん面白い調査結果となりそうです。
 さしあたって、これくらいにしておきましょう。他にもアフリカ西部の女性における現象であるとか、北欧の女性におけるそれだとか、興味深いものは枚挙にいとまなくあるのですが、日々ファンドの運営維持でお忙しくされているハドソンさんを過度に煩わすのも、少し心苦しくなってまいりました。サンフランシスコにお越しの折には、必ずご連絡ください。ノースビーチのイタリアンにでも、ぜひまたご一緒いたしましょう。


  With love,

  Sofia L.Turner


     ■

 頭からかぶったタオルケットを透かせて  スマホにラインが着信したのが聞こえたみたいだったけど、五分だか十分だか放置したあとで私は、中から腕だけ出してロフトの床を探ってスマホを手に取ると、その相手を確かめた。
 真美だった。
 一瞬  あの日、サイアクな形で別れることになってしまった、駆さんからかとも思ってうろたえたんだけど、どうやら違ったようだ。
 彼からは  以来、何も音沙汰はないままだ。
 着信した真美のラインには、

 《なにどうかした? さいきんぜんぜん連絡ないけど》

 と、あった。
 私は、タオルケットの中で小さくため息をつくと、

 《淳に彼女ができたらしい》

 と入力して、送信した。
 スマホを放り出して、そのまま死んでると、

 《ええ、マジ?》

 と、しばらくして返ってくる。

 ……マジマジマジマジマジマジマジマジマジマジマジマジマジマジマジマジマジマジマジマジマジ。

 呟いてると、いよいよ本気で死にたくなってきていた。
 遠くからかすかに、「壊れていても構いませんので、いらない家電などがありましたら、お気軽にお声がけください」とかっていう、廃品回収車のスピーカーからの女性の声が聞こえてくる。いつも思うんだけど、あの子供みたいな声って、経営してる人の身内とか、娘とかだったりするのだろうか。
 そんなどうでもいいようなことを考えながら、壁の時計を見ると、午後二時を回ったくらいだった。ロフトの上から、部屋の窓を透かせて入る光の筋の中で、埃がうっすらと舞っているのが見える。
 仕事を休んでから、今日で二日が経っていた。生理痛がひどくて、と言って休んでたけど、そろそろ心苦しくなってきてる。
 あの日の戦いで、また激しくセリアン化した後のキックも、もしかしたら半分くらいはあるのかもしれない。
 
 でも、なにより  私には淳のことが、相当こたえているのだ。

 《え、それってだれ情報? どうやって知ったの?》

 真美のその追いラインに、まさか素直に、量産型マス・プロデュースド・タイプセリアンスロープから聞かされたのだ、なんて答えるワケにもいかなかった。

 《ねえアッコさあ。さいきんなんか、私に隠してることない?》

 ……うっ。

 《もしなんかあるんだったらさ、遠慮なく言ってくれていいんだよ。水くさいよ》

 ……べつに、なにもない、って、そう言っておくしかなかった。とてもいまのこの複雑怪奇な状態を、一から説明する気になんて、やっぱりとてもなれないのだ。

 《共通の友達から聞いたの》

 《そっか。でも、いい機会だよ。これでスッパリ、あの男のことは忘れた方がいいんだって》

 ……わかってる。
 一度は私だって、そう決めたのだから。
 でも  とてもそうはいかなくなってしまったのだ。
 なぜなら、その淳の相手が  あのセリアンスロープらしいのだから。

 《そういえば、あのオタク男子とはどうなったの。ご飯とか行った?》

 真美がさらに言ってきた。もういいの。そう入力して送信すると、どうして、とすぐにまた返ってくる。
 私はそれ以上、返事を返す気にはなれなかった。
 真美とのラインを強制終了すると、それからまた小一時間くらい、タオルケットの中で死んだあとで  モゾモゾと中から起き出すと、ロフトから降りて、キッチンに向かった。
 まずは水道水をコップに汲んで、イッキ飲みする。それから冷蔵庫を開けて中を見てみたけど、ほとんどからっぽだ。
 お腹が空いてたし、外食で済ます気にもなれないので、西友に買い物に行くしかなかった(クローゼットの中に、ゴボウだけはたくさんあるけど)。
 買い物から帰って、ポストの中に手を突っ込んでみると、そこに一通の、真っ黒な封書が入っていた。裏返してみても、差出人の名前はなにも書いてない。
「……」
 封を開けて、中を確かめてみた。と  それは、次回のセリアンの会合の通知だった。
 私は、その場で大きくため息をついた。
 もしこれが、村上春樹の小説の主人公なら  ここで「やれやれ」って必ず言うところだ。
 私は鍵を開けて部屋の中に入ると、その封書を床の上に放り出した。そしてキッチンで、夕飯の支度を始めた。
 窓からうっすらとした、西日が差している。
 今日はゴボウなんて見たくもないので、カンタンに冷やしおそばとポテトサラダでも、作ることにする。
 お鍋でお湯を沸かし、西友の袋から長ネギを取り出して、しばらく刻んだところで、私は包丁を置いた。
「……」
 刻んだネギを小皿に入れて、もう一度床の上に放り出した封書を手に取り、内容をきちんとを確かめた。次回の会合の日取りは、一週間後になってる。
 私は、その封書を持ったまま、しばらく考えた。
 自分が次、どんな相手と闘うのかは  発表を待ってみないと、わからない。
 でも  自分がパイドラである以上  相手がアンティオペであることは、間違いがないのだ。
 確か、量産型マス・プロデュースド・タイプの真尋はあのとき  淳の新しい彼女はアンティオペだ、って、言ってなかったか。
 私は床に座り込んで、その用紙を穴があくほど見つめた。火にかけた鍋がいつのまにか沸騰して、シュンシュンいってるのが聞こえてる。
 次の相手が誰なのかは、まったくわからないにせよ、アンティオペの彼女について、何か少しでも、情報が得られるかもしれない。
 だいたい  淳があの凶暴凶悪で残虐な、アンティオペの女と付き合ってるってこと自体が、いまだに信じられないし、とても耐え難いのだ。
 そのことを、淳が知ってるはずもおそらくないし  最終的には、なんとかして別れさせねばならないに決まってる。
 でも、その前に  自分がアンティオペについて、もっと情報を得なければならないハズだ。
 私は元どおりに、用紙を封書の中にたたんで入れた。そしてスマホのカレンダーに、その会合の日を、新たなイベントとして追加した。

     ■

 この場所に来ると、いつも緊張する。
 今日もヴィレッジバンガードでイミフにも三千円くらいを出費して(今回はなぜか、男物のアウトドアの迷彩柄のパンツと、ラブブをパクったようなベトナム製の名前のよくわからない可愛くないマスコットのぬいぐるみと、吾妻ひでおの失踪日記、っていうコミックだった)、この地下階にやってきた。前回とは違う部屋の、でも中の様子はよく似てる、大会議室みたいな空間は、ほぼ八割方、セリアンスロープたちで埋まってる。
 私は出入り口に近い、一番隅っこの壁際の席が空いてたので、そこに陣取っていた。周囲の人々はみんな一様に、黙ってスマホを眺めてるか、ただうつむいて、会の始まるのを待ってる。
 私はなんとなく、前回のときのことを思い返していた。確か、会のあとで隣のナス女をお茶に誘って、それを見事に拒否され、周りから失笑をかったんだった。
 あの時は、ただなにがなんだかワケがわからなかったけど、いまとなってはバカなことをした、と心から思う。
 なにせ相手は、セリアンスロープなのだから。
 さらに、もう一つ、私は前回とは何か少し違う、そんな印象をさっきから感じていた。
 割合でいったら、一割か二割くらいだろうか。中に男性の姿が、ちらほら見受けられることだ。
 凡庸なたとえであえて言うならば、女子校のクラスに一人か二人、男子生徒が混じってる、あるいは  女性用の下着ショップの中に、男性がウロウロしてる  そんな強い、でもありがちな違和感は、なぜかそれほど感じないのには、ワケがあった。
 彼らは、皆一様に、先日のうるうのようなスカートを履いて、お化粧をそれこそ私たち女子以上に、丁寧に施してるのだ。
 中にはシースルーの白の上着にミニスカート、っていう、ほとんど女装、って言えるくらいの格好の人もいる。でも、いわゆるヘンタイっぽいっていうか、偏執的な倒錯趣味、みたいなものは、フシギと感じない。
 みんな若くて  それなりに似合ってるからだ
 彼らが  テセウス、って呼ばれる人たちなのだろうか。
 私はムイシキのうちに、軽く首を伸ばして、その中にうるうの姿がないか探していた。そのことに気がついた時、何かえもいわれないような、そんな気持ちになった。
 その視線をいったん引っ込めて、また新たに前に向けたとき、視界の中に、見覚えのある、金髪の頭が目に入った。私はハッとして、膝の上に置いたカバンを強く握りしめた。
 ……律子だ。
 彼女は自分の周囲に、何人かの女性を従えてる様子だった。でも全員が全員、「バンギャ」っぽい格好をしてるわけじゃなく、それっぽいのは律子だけで、あとはデニムと丈の短いTシャツの子だったり、フェミニンな花柄スカートコーデの子だったりと、いろいろだ。
 そんな彼女たちは、私の方を見ながら、何かヒソヒソと話を続けていた。
 私は強い緊張と一緒に、不快感を覚えた。
 もちろん、いま、この同じ部屋の中にいる以上は、今回互いに相手になるわけじゃない。
 なるわけじゃないけど、こうして顔を合わせたくもないような相手なのだ。私は先日律子が言ってた、「あんたを利用させてもらう」っていう言葉を、いまだによく覚えてる。
 と、そのとき前回と同じように、首からIDカードを下げた、スーツ姿の女性が背後の扉を開け、三人部屋の中に入ってきた。そしてなにも言わずに部屋の中の二十人ほどのセリアンスロープの前に、クリアファイルに入った用紙を順番に配り始めた。
 周囲は一斉に、少しもザワつくことなく、その手元の用紙に目を通し出した。
 前の時も思ったけど  とてもブキミな瞬間だ。
 自分のものを手にとって、最初に右上の顔写真に目をやったとき、私はつい、ハッとして部屋の中をもう一度見渡してしまった。でも、そうしたところで、頭を折って手元の用紙を凝視してる、セリアンたちの背中しか見えない。
 私はもう一度  自分の用紙に視線を戻した。
 その相手は、あのナス女、だったのだ。
 いま、この部屋の中にいる全員と顔合わせをしたわけじゃ全然ない。でも、確かに今日、ナス女はここにはいないみたいだ。
 いや、いないのはアタリマエで  だからこそ、次の対戦相手であるわけだけど。
 ナス女の顔写真は、スナップ写真の拡大アップのようなものじゃなく  履歴書に貼ってあるようなものだった。その視線は、ジッとこちらを見ている。
 私はなにかとても複雑な  そんな気持ちになっていた。
 まず、「運営」の側の選択基準というのか、どういうルールがあって、次の相手を選んでるのか、っていう疑問が、どうしても拭えない。
 ナス女に襲われてから、まだそれほど日も経ってないし、あまりにランダムじゃないか、と思うのだ。
 もちろん、こちらの気分とか感情とか、日が経つとか経たないとか  そんなことは何一つ、考えてないのかもしれない。
 あるいは、大いに考えて、こういう結果になってるのかもしれない。
 でも一言で言って、今回のこの発表には、私はまったく気が乗らなかった。
 ……なぜだろう、と思う。
 もちろん  あの恵比寿の居酒屋での、ナス女の凶暴な変貌ぶりを、忘れてしまったわけじゃない。あのとき私は、彼女にあっけなく殺されていたかもしれないのだ。
 でもいまだに、何か彼女には、他のセリアンたちとは違う事情があるんじゃないか、って思えて、仕方ない。
 私は、正面のホワイトボードの前で、両手を前に組んで立ち、無表情でじっと正面を見ている、二人の女性を見た。
 もちろん、いまここで手を上げて、相手が気に入らないので変更してください、なんて訴えるのは、きっと不可能なフンイキは満々だ。そして周りの全員から、またひどい失笑をかうのに違いない。
 そのとき、前の方の席にいて、こっちを振り返ってる律子と、また目が合った。
 いったい何を考えてるのかわからない  そんな目で、彼女は私のことを見つめていた。

     ■

 新宿には、よほどの用事がない限り、めったに来ることはない。
 今日なんかがまさにそうで、私は渋谷から乗った山手線を降りると、小田急に乗り換えた。
 電車の窓の外には、宵闇が広がってる。
 長椅子に座った私は、カバンの中から例のクリアファイルを取り出して、もう一度眺めていた。
 ナス女の名前は、斎木ミヅハ、とあった。彼女の住所は、代々木上原だ。
 そこまでは、わかった。
 でも  例えば、先日の律子のときのものとは、その内容が少し違ってるのだ。律子のものには、彼女の個人的な情報  バンギャであるとか、バイト先の店舗名だとか、が書かれてあったが、この斎木ミヅハのものに関しては、その部分がすべて、*******、で埋められているのだ。
 先日の会合で一見したときも妙に思ったけど、例のフンイキのおかげで、「運営」にいちいち質問するのがおっくうになってやめてしまった。
 いずれにしても  住所さえわかっていれば、ひとまずなんとかはなるからだ。
 その住所で検索してみると、駅から少し離れた、住宅街の一角に、そのワンルームマンションは、あるらしい。
 小田急の代々木上原なら、三軒茶屋から自転車で下北沢まで行って、そこから乗れば全然早いんだけど、そうしなかったのには、もちろん理由があった。
 下北沢には、律子がいるからだ。
 先日の会合の時の様子から考えると、とにかく危うい場所には、なるべく近づかないほうがいい。
 それと、もう一つ  
 そこには、淳もいるからだ。
 そのことと関連して、私には一つ、思い出すことがある。
 下北に住んでるんだから、例えば彼と二人で新宿に出るときなんかは、そのまま小田急に乗りさえすればいいのに、彼はあるときからなぜか、それをしなくなったような、そんな気がしたのだ。
 一度、そう聞いてみたことがあるけど、彼はすぐうやむやにしてしまった。以来  私の彼に対する猜疑心に火がついた。それもつい、二ヶ月くらい前のことだ。
 そのことも、私たちの関係がギクシャクし始めたことの、原因の一つになってる。
 そんなことを考えてると  また少し、気分が落ち込んできた。ただでさえ、今回はどうしてもやる気が出てこないのに。
 代々木上原に到着のアナウンスが聞こえてくると、いつもの手製の花柄ゴボウカバーを突っ込んだカバンを肩にかけ、私は電車を降りた。改札を抜けて駅前に出ると、スマホの地図を頼りに、例の住所へと向かう。
 もちろん  これまでの経験上、夜でもあることだし、周囲には十分に気を配りながら進んだ。
 五分くらい、そうやって歩いたところで、ある路地の角を曲がったときだった。
 4、5メートル先に、奥側と手前とに少し離れて歩いている、一組の男女がいるのが目に入った。
 その向こう側を行く女性の、おかっぱの髪型と、全身黒づくめのオーバーサイズのワンピース姿を見たとき  私は息を飲んで、すぐにいま来た道に戻った。そしてちょっとだけ顔を出して、もう一度確かめる。
 ……間違いない。ミヅハだった。
 そしてその手前を、少し呆れたような様子でついていく、ネイビーのセットアップを着て、黒カバンを持った一人の男性の後ろ姿にも、私には見覚えがあったのだ。
 ……淳だ。
 私はショックが強すぎて、その場でめまいを覚えそうになった。急激にいろんな事実が  まるで積み木のように綺麗に積み上がって、一つの建物のようになっていくのを感じた。
 淳の新しい彼女、というのは  アンティオペのナス女、ミヅハだった、ということか?

   ってことは……。

 私は、ミヅハと二股をかけられていた、っていうことか?

 急に全身に鳥肌がたったような気がして、美容院に行けてなくて伸びっぱなしの髪が、ブワッと一斉に広がって持ち上がったような、そんな感覚があった。近くを歩いていた、通りがかりの人と目があった瞬間、向こうがギョッとした顔をしたのがわかる。
 もう一度、路地から顔を出すと、いつのまにか立ち止まっていたミヅハがこっちを見ていて、私はすぐに顔を引っ込めた。

 ……しまった。バレたか。

 私はゴボウカバーからゴボウを取り出すと握りしめた。
 いま、きっと私はセリアン化している。怒りが  身の内からまるでマグマのように溢れ出して、手のつけようもないくらいになってた。
 その姿を  これから淳に見られてしまうのだろうか。
 しばらく祈るように目を閉じて、大きく深呼吸した後、もう一度そっと路地から顔を出してみると、いつしか二人はミヅハの部屋のあるらしい、ワンルームマンションの入り口前に立って、何か口論のようなことを始めていた。耳をすます。と  十メートルくらいは確かに離れているのに、ミヅハの、
「……もう会わないから」
 という声が、クッキリと自分に聞こえた気がした。なぜかはわからない。でももしかしたら  セリアン化すると、五感が異常に敏感になるのかもしれない。
 続けて、
「……また連絡する」
 っていう、間違いのない淳の声も聞こえた。その言葉をミヅハは無視して、マンションの階段を上がっていく。
 その様子を、残された淳は、ミヅハが自室の扉を鍵で開け、中に入ってしまうまで、その場に立ち尽くして眺めていた。

     ■
 
 冷蔵庫を開けて、「ほろよい」のもも味を取り出すと、プルトップを開けてソファに腰をおろした。
「……」
 そのままうなだれて、しばらく動かないでいた。
 いろんなことを  たぶん考えなくちゃいけないことは、わかってる。
 でも  アタマが激しく、そうすることを拒否してる。
 こういうときって、私はよくある。なんとか自分自身におうかがいを立てて、ゴキゲン取りをしないと、物事はなにも前に進んでいかないのだ。
 「ほろよい」を一口、啜るように飲みながら、私はさっきのミヅハと淳の様子を思い返していた。
 もちろん、私の怒りが収まったわけじゃ、全然ない。アイツにいますぐデンワして、問いただしてやろう、って、思わないでもない。
「……」
 でも、そんなことをしたら  結局は古傷に余計に塩を塗りたくることにしか、ならないんじゃないだろうか。
 私は、自分が偏執的な猜疑心を持ってることを、十分自覚してる。そのことが、彼を結果的に浮気に走らせたんだ、って言われたら  何も返せる言葉はない。
 そして、当のミヅハだった。
 ナス女のミヅハは、今回の自分の相手だ。そうである以上、自分から彼女に攻撃を仕掛けねばならない。
 確かに私は、淳に関するこの動機だけで、あの子をいますぐ八つ裂きにしてやったっていい。
 でも  さっきのあの、一連のミヅハの様子が気になった。あの二人は、自分と淳が倦怠期に入っていった頃と、よく似ていたのだ。
 それに  
 私は、初めてのミヅハとの戦闘のときのことを、思い出していた。
 彼女は、
「お前だけ、そんなことをさせるものか」
 って、言ってたのだ。
 それにしても、そもそもこの私が、ミヅハの二股の相手だ、っていうことを、向こうは知っているのだろうか。でもとにかく、知っているにせよいないにせよ、彼女が現状に強い不満を持っているらしいことは、おそらく確かだ。
 もう一口、口に含んだ「ほろよい」が、いつしかぬるくなっていた。
 何かおつまみでも作ろうかと、ソファを立ち上がりかけたときだった。
 不意に玄関のチャイムが鳴った。
 反射的に、部屋の中の壁掛けの時計を見た。九時半を、少し回ったところだ。
 こんな時間に、いったい誰だろう。
 そう思って、ソファを立つと、玄関に向かい扉の覗き穴を覗いてみた。
 ……何も、見えない。
 仕方なく、チェーンロックをかけた扉を開けてみると、息が止まった。
 目の前には、赤いジャージのような服の、ジップしか見えない。
 見上げてみると  それは巨大な女だった。
 声にならないような声を私が上げるのと、女がチェーンロックを引きちぎって扉を開けるのとが同時だった。女は左手に、極太の山芋を持っている。

 ……山芋女だ。

 私は部屋の中に逃げるように駆け込むと、クローゼットの扉にすがりついてそれを開け、中から網カゴに入ったゴボウを引き抜いて構えた。そして気づいた。
 今回は自分からの攻撃ターンだから、自分が誰かから襲われることはない、って、どこかで勝手に思い込んでいた。でも、そうではない場合もあるのだ。
 自分はすでに、このどうしようもないゲームの参加者なのであり  これはきっと、バトルロワイヤルの総力戦なのだ。私の相手方の会合は、きっと時間か日にちをずらして、行われてるんだろう。
 自分が追う側でありながら、同時に追われる側にもなり得る、ってことなのだ。
 あまりに、迂闊だった。よりによって、あの山芋女を家の中にまで入れてしまった。
 こうなったら、なんとしてでもここから追い出すしか、他に方法はない。
 そう思いつつ、廊下のあたりで仁王立ちになっている、赤の上下のジャージを着て、以前より伸びた髪をツインテールにしてる山芋女を見上げると、何か様子がおかしいことに気がついた。
「……違うんだ」
 女が、両腕を広げて言った。
「えっ」
「パイドラのお前に  少し話があるんだ」
 そう、山芋女は言った。
 

 山芋をかたわらに置いて、ソファを勧めたのに床に正座してる山芋女の背中を見ながら、冷蔵庫の中から麦茶のボトルを取り出すと、グラスに注いで女の前のテーブルの上に置いた。
 自分は向かいのソファに座ると、
「話って、どういうこと」
 って聞いてみた。
 と、山芋女は私をまっすぐに見つめながら、
「アンティオペから、亡命したいんだ」
 って言った。
「……亡命?」
 山芋女は、麦茶を手に取り、一口飲んだ。私はその様子を眺めながら、女が言っている言葉の意味を考えた。
「うわさじゃ  パイドラにはSEUがいるそうじゃないか」
「……SEU?」
 聞き返す。と、
「シュープリーム・ユーサイキア」
 そう、山芋女は答えた。

 シュープリーム・ユーサイキア……。
 
 私は、先日真尋が言っていたことをまた思い返していた。
 その、SEUとかなんとかに、あの律子がなる日が近い、とかなんとか  
「このままアンティオペにいても、自分はダメなような気がするんだ」
「……ねえ。ちょっ、ちょっと待ってくれる?」
 私は両手の人差し指でこめかみを押さえて、必死に考えていた。山芋女は真顔のまんま、そんな私をジッと見つめてる。
「ねえ、でもそうやって  自分の好き勝手にアンティオペからパイドラへと、移っていってもいいものなの?」
 私が聞くと、山芋女は黙って首を振った。やっぱりそれは、「運営」の側から固く禁止されてるらしい。
 でも、自分はこうしてアンティオペにいても、どうしても気持ちが落ち着かないんだ。山芋女は、そう続けた。
 ここで、もう一つ  私には、以前から抱えていた疑問が湧く。
 ……そもそも、どうして自分はパイドラで  山芋女はアンティオペなのだろうか?
「……そんなこと、考えたこともなかった」
 山芋女は言った。そのこと自体が、自分にとってはむしろ信じがたいんだけど  とりあえずは黙っておく。
「……ねえ」
 私は座ったまま、女の方に一歩踏み込んで言った。
「私に  協力してくれるつもりはない?」
「……協力?」
 女は首を傾げた。
 私は女に、こう提案してみた。
 自分はそもそも、この闘いには不毛なものをずっと感じてる。そして、そのことの理由を知りたい、とも思ってた。
「……」
「それを私は、探ってみたい、って思ってるの」
 山芋女は、私が話してるあいだ、軽く口を開けて私をみていた。そして言った。
「……そんなことは、しても無駄だ」
「……どうして?」
 女は、軽く目を背ける。
「べつに自分は  闘うことが嫌なわけじゃない。ただ、自分のいまいるこの場所が、嫌なだけなんだから」
 そう答える山芋女のそばには、極太の一本の山芋がある。
 私は一瞬息を飲んで、手元に自分のゴボウがあるのを確かめた。
 もしかしたら  初めて一人のセリアンスロープとわかりあえるのかもしれない、と思ったけど、どうやら早計だったみたいだ。
 しばらく、互いに黙り込んだあと、ふと思って、女に斎木ミヅハって子のことを知っているか、と聞いてみた。
 と、女の顔色が変わった。
「斎木  ミヅハ?」
「そう」
 自分は、あいつを恐れてる。女はそう答えた。
「……恐れてる?」
 こんなに体の大きくて、凶暴極まりない山芋女が、ミヅハのことを恐れてる、っていうのだ。
「自分の『纏』とは、どうしても合わないんだ」
 私の思考は、すぐにまたつまずいた。そもそも「纏」がなんのことだか、私にはわからない。
「ねえ、それってどういう意  
 自分の「纏」に聞いてみればいい。そう、山芋女は答えた。

     ■

 山芋女の突然の部屋への乱入から、二日が経っていた。
 私はあらためて  ミヅハにどうアプローチすればいいのかを、ずっと考えてた。
 淳に関して言えば、私とミヅハとは、事情を共にしてるのがわかったのだ。だったら余計に、彼女とは話し合わなきゃならないことが、たくさんある。
 もちろん  それがスンナリ「話し合い」のうちに終わるのかどうかは、わからない。
 職場のある高層ビルのエントランスを出、マークシティの方に向かって、ムッとするような渋谷の夏の夜の空気の中を、人の流れに沿って歩いていたときだ。
 カバンの中の携帯が鳴った。
 取り出してみると、先日ラインを交換した山芋女、火見ゆう子、からだ。

 《ナス女から追われてる》

 メッセージには、そうあった。
「……追われてる?」
 私は意味もなくつい、その場で夜の渋谷の周囲の喧騒を見渡した。すぐ脇の道路を、風俗業に勧誘する巨大広告トレーラーが、走り過ぎてゆく。

 《いま、どこにいるの?》
 《池袋》

 メッセージから想像すると、今回のゆう子の相手は、どうやらミヅハだったらしい。
「……あれ。でも待って  
 すぐに私のうちに、疑問が湧いた。
 ……ミヅハとゆう子とは、同じアンティオペじゃないか。
 それがどうして  アンティオペ同士で闘うのか。

 《わからない。でも自分がパイドラに逃れようとしてることが、バレたのかもしれない》
 《その、報復みたいなことなの?》
 《それもわからない》

 私はムイシキに、カバンの中にゴボウカバーがちゃんと入ってるかを確かめてた。
 いまこれから  ゆう子のもとに駆けつければ、どうやらミヅハと相見えることはできそうだ。
 ただ  おそらく平和的に、はいかない。
 ついまた、あの激しく凶暴化した、ナス使いのミヅハを思い出して、震えてしまう。
 でも  ゆう子と二人がかりならば、もしかしたらなんとかなるかもしれない。

 《池袋のどこにいるの》

 私がそうメッセージを送ると、すぐに既読がついて、こう返ってきた。

 《ラブホテル》

「……ラッ  ?」
 
 だっ、誰と?

 《彼氏と一緒なの》

「カッ  

 《彼氏が、私の『纏』なの》

 ゆう子のメッセージには、そうあった。


 正直  そんなワケのわからない「修羅場」には、私は全然行きたくなかった。
 でも、いまさらもう、イヤだとは言えない。
 普段通り、凄まじい人出のハチ公前を私は早足で抜けると、山手線に乗って池袋に向かった。
 昔、学生のころ、短期のアルバイトで一時期通ったことはあったけど、池袋にも普段はほとんど来ることがない。
 ゆう子の言うラブホテルを調べてみると、駅の西口を出、東武百貨店の北側の、文化通りと言う道をまっすぐ行ったあたりを指してる。
 早足で向かう途中  コンビニの近くに、少し気になるような、一組の集団を見かけた。男性四、五人のグループで、遠目にもテセウス風の集団に見える。
 私は、その場で足を止めた。
 でもすぐに頭を振って、気持ちを切り替えた。
 いつしか、いかにもラブホテル街、といった感じのエリアに、私は足を踏み入れていた。当のラブホテル、「トゥーバンビ」になんとかたどり着くと、ゆう子にラインをする。
 でも、なんの返事もこない。
 既読すらつかない。
 電話してみようかと思ったけど、もし「修羅場」の真っ最中だったりなんかしたときのことを思うと、少しためらった。とはいえ、さっきのメッセの緊迫した感じから言っても、このまま外でボンヤリ突っ立って返事を待ってても、埒が明かないような、そんな気もしてくる。
 ラブホテルなんてそもそも、いままで私は一度も利用したことがない。淳と付き合っていた頃も、彼が入りたがっても頑として断るようにしていた。
 理由は、特にない。ただなんとなく、昔から好きになれないだけだ。
 私はなんとなくのイメージを持って、入り口から中に入ってみると、部屋を選ぶパネルがズラッと並んで、使用中のものは選べないようになっていた。私はゆう子が言ってた階にある部屋をテキトーに選ぶと、ドキドキしながら受付の人に向かって、
「あっ……あの……一人なんですけど……」
 と言った。
「……一人?」
「ハッ、ハイ……」
「後でもう一人、来るってことですか?」
 面倒そうに、手しか見えない男性の人が言うので、そっ、そうです、と答えると、私は逃げるようにエレベーターに乗り込んだ。
 目指す部屋は、三階にあった。階数表示が移り変わっていくのを眺めながら、ゴボウカバーからゴボウを取り出すと、しっかりと握りしめた。
 扉が開くと、正面は突き当たりになっていた。部屋番号の矢印表示を見て右に曲がり、そのまま進んでいくと、一つの部屋の扉が開いていて、そこでトランクス一枚の格好の、黒縁メガネをかけた小柄な男性が、ホテルの清掃員らしい人と、何か話してる。
 私が近づいていくと、まずその男が気がついた。それから、清掃員が振り返る。
 帽子を被っているから一瞬わからなかったが、目を凝らして見てみると、その人は女性だった。そして、どこかで見たことのある顔をしてる。
 その人物は、ミヅハだった。一瞬目を見開いたかと思うと、そのまま背後に飛びすさる。
 ミヅハはナスを顔の前にかざしながら、
「なんであんたが、ここにいるの」
 と聞いた。
「……あなたが、私の相手だからじゃない」
 そう答えた瞬間、私は先日のミヅハの家でのことを思い出し、全力で走り出していた。
 低姿勢から一気に、ミヅハに向かってゴボウを振り上げると、それを二つのナスで受ける。
 その後、強烈なラッシュをミヅハは繰り出してきた。私はそれを一つ一つゴボウで振り払うと、また間合いを取り直す。
 その一連のすべてを、トランクス一枚の男は目を丸くして眺めていた。と、いつのまにかその背後にゆう子が立って、男の首根っこをつかむと後ろのベッドに放り投げた。ゆう子の右手には、山芋が握られている。
「……あんたは、山芋女とつながっていたの」
「どうでもいいでしょう、そんなこと」
 そう答える私の顔を、さっきからゆう子が、驚いたような表情で見ている。
 いったい自分はいま、どんな顔をしてるのだろう。
「アンティオペからパイドラに逃れることは  許されていないのよ」
 私はゴボウを下ろした。ゆう子も黙ってミヅハを見る。
「それは、どうしてなの」
 「運営」に聞け、なんて答えはなしよ。そう続けると、ミヅハは鼻で笑う。
「『運営』なんて、文字どおりただの運営に過ぎないわ。私たちの争いを、ただ表向きさばいているだけ」
「……どういうこと」
 私が聞くと、ミヅハは腕組みして、右手でナスを放り投げては受け止めるのを繰り返した。
「サッカーや、野球とかの試合と同じじゃない。その選手たちは、確かに試合中は、審判たちに大人しくさばかれている。でも、彼ら選手の背後には、膨大な量の敵対するファン同士がいるのよ。本当の闘いは、そっちにあるの」
「……」
「……」
 と、
「ちょっ。きっ、君たちはなんなんだ」
 と、ゆう子にベッドに放り投げられたはずの、トランクス男が口を挟んできた。
 このゆう子の彼氏はシロウトなのか……と私は、心の中で舌打ちした。
 ほとんど口が裂けたようになっているミヅハが睨みつけると、男は両手の手のひらを広げてこちらに見せるように上げて、ヒッ、と声を上げた。
「……六面体委員会ヘクサヘドロンは、運営とは対等なはずじゃないか」
 突然、ゆう子が言った。ミヅハが軽く顎を引いて、顔を向ける。
「ヘク  
六面体委員会ヘクサヘドロンに、あなたの亡命を申し立てようというの」
「あなただって  彼らに何か言いたいことがあるんでしょう」
 ミヅハが持っていたナスを、ゆう子に投げつけた。すんでのところで、それを手で受ける。
「私たちアンティオペは、パイドラとの闘いに勝利することが目的なのよ。『運営』はおそらく黙っていない」
 ミヅハは、私に視線を向けた。
「この女をかばうのなら、あんたも同罪よ。このことは確実に『運営』に伝わる。覚悟してなさい」
 言い捨てて、ミヅハはそのまま行こうとした。
「待って」
 先日のことについて、私はまだ何一つ、彼女と言葉を交わしてない。言いたいこと、言うべきことを探してるうちに、ミヅハは背を向けて行ってしまった。
 

 不完全燃焼、って感じだった。
 ゆう子が近づいてきて、来てくれてありがとう、と言う。
 でも  正直言って、この件に関わったおかげで、私を取り巻く状況は、さらに悪くなってしまったんじゃないだろうか。
 その場でうなだれてると、背後からトランクス男が、
「君にまず、お礼を言わなきゃいけないのかな」
 と言ってきた。
 男は私と同じくらいの背丈で、頭頂部が薄くなった、天パっぽい髪を両手でかきあげ、黒縁メガネの奥の丸い目で、私を見つめていた。
「よかったら、説明してくれないか。君とゆう子はいったい  
 私とゆう子は互いに目を合わせると、同時にセリアン化した。 
 ギョッとした顔の男のメガネをゴボウの一閃で払い落すと、ゆう子が再度、男を肩に担ぎ上げ、部屋の中に入っていった。
 あとに続いた私は、黙って部屋の扉を閉じた。


 つづく

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