ネギ女 その2 ナス女、の巻
西友のエスカレーターを、食品売り場に向かって下って行きながら考えることは、毎回毎回、決まって同じことだ。
……今日もまた、襲われるのか。
……たまには、違うことを考えてみたい。でも、できないのだ。
こういうのって、なんて表現したら、いいんだろうか。
被害者意識?
確かに、そうだ。
不安神経症? そうかもしれない。
でも、結局言葉はなんだっていい。
そのすべてと、いま私の抱えている感覚は、だいぶ異なってる。そんな気がする。
エスカレーターを降りきり、地下階にたどり着くと、これも決まって、考えはじめることがあった。
その日の夕飯の献立は何にしようか、と。
そのとき、また違う不安材料が、突如として現れるのだ。
……また今日も 「ゴボウ」を食べなきゃなんないのか。
いかな根っからの野菜好きで、野菜を食べないと生きていけないような私でも こう毎日毎日ゴボウばかり食べてると、正直ウンザリしてくるのだ。
いかな料理好きの私でも、そうそうゴボウを使ったレシピも考えつかない。
私は大きくため息をつきつつ、でもその足は、半ば強制的に、お野菜コーナーへと向かっていくのだった。
そもそもなぜ、こんな事態になってしまったのかと言えば 仕事が終わって渋谷から三軒茶屋に帰りつき、西友でその日の買いものをすると、必ずゴボウを買わざるを得ないからだ。
ゴボウを持たずに、あの恐ろしい家までの帰り道を行くなんて、おおよそ考えられなかった。
確かに、あの日の山芋女との一件いらい 彼女たちとはいまのところ、一度も遭遇していない。
でも、遭遇していないからって、今後も必ずしない、とは限らない。
……だったら、毎朝ゴボウを持って出勤すればいいんじゃないか、って?
確かにまあそうなんだけど、それなりに自分の納得いくサイズのゴボウだと、意外に場所をとるし、勤務先も渋谷の高層複合ビルで、そのオフィスにゴボウをカバンに差したまま、おはようございまーす、なんて元気に入っていくのも、なかなかにハードルが高いのだ。
そんなわけで、毎晩ここ西友で、仕事帰りにゴボウを買わなきゃいけない、っていうハメになる。
先日、買い物の途中に、青果担当の男の人をつかまえて聞いたら、新ゴボウや葉ゴボウ以外の、いわゆるよく見かけるあの長いゴボウは、旬は一応冬だけど、貯蔵がきくので、一年中流通していますよ、とのことらしい。
これで一応、売り切れでもない限り、ゴボウが手に入らない、という恐るべき事態は、回避された。
ついでにそのとき、ゴボウの選び方のポイントも聞いた。まずはしっかり泥のついたものを選ぶこと。その方が、鮮度や風味を保ちやすい。
そして手にしたときに軽いものは、古くてスが入っている可能性があるので避ける。
今日もまた、その教えを忠実に守って私は、一本の青森県産のゴボウを購入した。
本日のメインディッシュは、冷蔵庫に古い卵が残ってるので、豚肉とたまねぎとゴボウの柳川風、にした。それとゴボウのおみそ汁と、作り置きしてあるゴボウサラダ。さらにだめ押し的に、ゴボウの煮びたし、だ。
……これでもまだまだ、全然在庫を消化しきれない。
心からうんざりしつつ、私は他にいるものをカゴの中に追加してから、レジに向かった。今日も例外なく、一本のゴボウが入っているのを見ると、顔なじみのパートのおばさんが、
「今日もゴボウ? 本当に好きなのねえ」
って、レジに商品を通しながら、声をかけてきた。
私は、苦笑いを返すしかなかった。
「でも、ゴボウは食物繊維がたっぷりだし、おかげでおなかの調子もいいんじゃない?」
「……ヘミセルロース、ですか」
「えっ?」
「あとイヌリンは、血糖の上昇を防いで、糖尿病予防に効果的らしいです。それとリグニンは、腸内の有害物質を排出して、がんの予防に有効です」
「……へっ、へ〜え……じゃあうちも、今日はゴボウにしようかなあ……」
私は力なく微笑みを返すと、サッカー台の上でエコバッグに商品を詰め込み、いつものようにゴボウを袋から抜き出すと、泥つきのまんま、黒革トートにブスッと差し込んだ。
毎度毎度、判を押したようにそうして去ってゆく自分を、おばさんは眉をひそめるようにして、ジッと目で追っていた。
外に出ると、ムッとした大気が、全身を包み込んだ。きれいに梅雨も明けた、夏まっさかりの東京は、連日すさまじいような猛暑。日が落ちたところでその熱気がやわらぐこともなく、その中を歩き出したとたん、すぐに全身に、じんわりと汗をかいてしまう。
私はこれも例によって、ゴボウのささったトートを肩にかけ直すと、緊張しながら足早に家に向かっていった。
華やかな茶沢通りから、いつもの裏路地に、入ってゆく。
このときの恐怖をごまかすために これまでさまざまなことを、私は試してきた。
例えばイヤホンをつけて、なるべく陽気な音楽を聴く。
アップルミュージックで適当に検索して、例えば志村けんとかが昔やってたらしい、ドリフターズ、とかっていうバンドの曲を流したりする。
でもこれは、まったく逆効果だった。
聞こえてくる音楽は確かに楽しげだけど、そのかわり周囲の音が遮断されるので、もし背後から突然襲われたとしても、気づくことができない。
そのことが、余計にこの恐怖を倍加させる。
一番効果的だったのは、電話で真美と話しながら帰ることだった。これなら、もう片方の耳で、周囲の様子を気にすることもできる。
でも正直、毎日毎晩そうすることは、ちょっと気が引けるのだった。
ただでさえ、自分の身ぐらい自分で守れ、と叱咤されたばかりなのだから。
口では気にするな、と言ってくれるけど、自分自身、それもどうかな、と思わざるを得ない。
そんなわけで、結局トイレを我慢しつつの早足、みたいな感じで、ひと息に家までの道を駆け抜ける、ってことになった。
近隣の家から呑気なテレビの中の爆笑の声、みたいなのが聞こえてくると、心底呪わしいような、そんな気分になってくる。自分はいったい、一人で何をやってるんだろう、って、思えてくるのだ。
実は先日、あの山芋女との一件のあと 私は三軒茶屋駅の近くの交番に行ったのだった。
まずは事情を聞かれ、初めはネギを持った女に襲われ、その後山芋を持った女に突然襲われたのだ、と訥々と話す私を そのおまわりさんは多少ならず、信じがたい、というような、ちょっと「アレ」な人を見るような、そんな疑わしい顔でじっと眺めていた。
でも、そんなのは、この私だってそうなのだ。こんなことを切々と話す私は 当然ちょっと「アレ」な人なんじゃないか。
案の定、というのか、警察に被害届を出しても、その後も何も得るところはなかった。その付近のパトロールを強化しましょう、とは言ってくれたけど、そんな様子は見たところ微塵もない。
以前と変わらない、暗くて狭く、人気のない太子堂の路地である。
そのとき、一瞬私はハッとして、後ろを振り返った。
でも、そこには誰もいなかった。
その場に立ち止まったまま、肩を落とす。
こんなことを続けていたら、いつかきっと本当に、頭がおかしくなってしまうだろう。
ようやく無事に、家までたどり着くと、まずはしっかりと鍵をかけた。そしてむき出しのゴボウを新聞紙で包んで、クローゼットの中のわざわざ無印良品で買った専用バスケットの中に、縦置きにしてしまう。
冷蔵庫の中から「ほろよい」のもも味を取り出すと、体を投げだすようにしてソファに腰をおろし、プルトップを開けて一口飲んだ。
全身を脱力して、大きな大きなため息をつくと 黙って天井を見上げた。
◾️
ゆっくりとお風呂に浸かり、ゴボウづくしの夕飯を作って食べたあと、スマホでXのアプリを開いて、ネギ女、それと山芋女の情報がのってないか、チェックしてみた。
でもあの日以来 何一つとして見当たらない。
これはいったい、どういうことなんだろう。
三軒茶屋の都市伝説は、いったいどうなってしまったのか。
どうにも納得がいかなかった。
まず、これでは真の心の平安が得られたとは、とても言えない、と思う。
いまは現れないけど、明日、あるいは明後日には現れるかもしれない、という不安が、常につきまとうからだ。
さらに私は、ネギ女のときにせよ、山芋女のときにせよ 怒って反撃はしたものの、最後には相手から、命からがら逃げ出して終わっていた。
要は、向こうにいいようにもてあそばれて、終わっているのだ。
このことが、とても悔しい。
このままもし、あの人たちが姿を消してしまったなら なんとも言えない「残念」な気分が残ってしまう。
つまり、私はあの人たちと同じ、一人の「残念」な女として 今後も生きていかねばならないような、そんな気がするのだ。
そう考えるだけで、少し「ゾッ」とした。
非常に矛盾しているけれど、私は家までの帰り道を、毎日恐怖におびえながら歩いているが、それと同じくらいの恐怖を、あの人たちに永遠に仕返しできないかもしれない、ということに、感じているのだ。
だったら、いったいどうしたらいいのだろうか。
……いや、少し落ち着かなきゃ。
ソファに寝転がっていた体を起こすと、ミネラルウォーターの入ったボトルを手にとって、一口飲む。
「……」
そもそも、冷静になって考えてみれば、これはむしろ、普通に喜ぶべきこと、なんじゃないだろうか。
ただ素直に この事態を受け取ればいいんじゃないだろうか。
とりあえず、なぜだかは知らないけど、私はあの人たちに三軒茶屋の夜の路上で二度襲われたが、それももうなくなった。
あの人たちはもう、私の前からはいなくなった。
少なくとも、SNS上には、あの人たちの痕跡はない。
つまり、彼女たちはもう、存在しないに等しい。
……だったら、あの暗い夜道を今後はもう金輪際、ビクビクせずに帰ることができるようになった、ってことなのかもしれない。
それならばもう、これ以上考えることなんかなにもないじゃないか。
これで終わり、だ。
私はまた明日から、普段どおり生活すればいいのだ。
……そこまで考えたとき、目の前のスマホがラインを着信した。
取り上げて見ると、同じ派遣会社に所属する女の子からだ。
現場も同じ渋谷の会社で、ふだんからわりと仲良くしてる。
なんだろう、と思って確認すると、今週末、「合コン」の予定があるんだけど、アッコちゃんも来ないか、というものだった。
……合コン。
ふだんなら、まず何も考えずに、断るところだった。
というのは、元来私は、あの手の集まりが、あんまり好きじゃない。
大学は女子大で、当時も誘われて、何度か他大学とのそれなんかに出たこともあったけど どうにもあのフンイキが肌に合わなくて、以来すべて断ってきたのだ。
就職してからも、それは基本的に同じだ。
なんだろう、あの向かい合わせにズラッと並んで、無意識下では実は冷静に厳密に品定めし合っているという、あの感じがなんとなく、我慢できないのだ。
「……」
でも、しばらくして考え直した。
なんだか最近、ほんと気分がクサクサしてる。
まずは当然、あのイミフなネギ女たちとのことがあった。
……それと、淳とのことだ。
前回あんなひどいことを言われ、このままじゃダメだ、そう思いなおしたばかりだ。
私はいまこそ、彼から自立するべきなのかもしれない。
だったら当然、淳以外の男性に、目を向けてみる必要が、出てくる。
それに近頃 ずっと家に引きこもりがちだった。
休日の日でも、まず夜中に出歩くことなどあり得なかったことは、もうわかってもらえるだろう。それでも、もしどうしても近所のコンビニなどに出かけなきゃならないときは、当然のごとく一本のゴボウをたずさえていった。
むき出しのゴボウを一本、エコバッグに必ず差してくる自分を見る、店員さんのあの引いたような冷ややかな視線にも そろそろもう自分は疲れ始めていた。
そのうち昼間でも、外出するのがおっくうになる。おかげで部屋の中も、たった二、三日で閲覧注意レベルの汚さになる。
そこでいったい、何をしているのかといえば、本棚からなんとなく、昔取った杵柄の日本文学全集を取り出して、読んだりしているのだった。
私は大学で、日本文学を専攻していた。平安時代の女流日記文学を、卒論テーマに選んだ。
卒業してからこっち、読み返すことなんてまったくなかったけど なぜだか最近、ふとそんな気分になっている。
頭は寝癖でボサボサ、洗濯のしすぎで毛玉のついたユ◯クロの黒のスウェットの上下で、堅あげポテトとかいちごポッキーとかをえんえん食べ、ファンタオレンジを飲みながら、
嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
なんていうのを読んでいることに、私は少々うんざりし始めていたのだ。
このままじゃきっと、なにかが腐っていってしまう。
だったら、お酒でも飲んでパアーッと騒いだりした方が 心の平安のためにもいいんじゃないだろうか。
……それに、だ。
どうせきっと、あのネギ女も山芋女も 「合コン」になんて誘われたことも、ましてや行ったこともないだろう。
それもまた、考えてみれば痛快だ。
……ふん。ざまあみろ。
あんな人たちには、どうせ「合コン」なんて、一生縁などないのだ。
だったら、もう出会うことはかなわないにせよ、これも一つの、あの人たちに対するリベンジ、ってことに、なるのかもしれない。
……まあそれもでも、もうどうでもいいことだ。
結局、私はその友達、ミキちゃんへ向けて、その合コンに参加します、というメッセージを送ることにした。
送信する前に、ふと思い立って、真美に一緒に来ないか、とラインしてみた。一人では少し心許なかったからだけど、彼氏ができたばかりでどうかとも思っていると、ものの一分も経たずに速攻でOKの返事がきた。
ミキちゃんに快諾の返信をすると、間もなくして日時とお店のURLが返ってきた。場所は、恵比寿。
そのメッセージの最後に、
……アッコちゃんが初対面の、同じ派遣の女の子を一人、連れていきます。かわいい子だよ。
とあった。
……私が初対面。
いったい誰だろう、と思った。
まあとにかくいずれにせよ、これをきっかけに、きっとまた、すべてが日常に復するだろう。
私は、その日が来るのを心待ちにした。
そしてそれが すべての本当の始まり、だったのだ。
◾️
例によって蒸し暑い、七月の東京の、真夏の夜だった。
山手線の恵比寿駅で、真美と待ち合わせすると、それから二人でいそいそと、ミキちゃん合コンのお店に向かった。
週末のはなきん、ということもあって、当然人出も多い。
恵比寿という街には、正直あんまり、なじみがない。最近ほんと、お茶や買い物は二子玉ばっかりなので。真美にもニコタマダムになるのはまだ早い、とかって言われてる。
合コンの開かれるそのお店は、ちょっと小洒落たような、今風の創作和食のお店だった。当然、来るのは初めてだ。
入ってみると、中の雰囲気も悪くなく、静かで落ち着いた、ラグジュアリーで和な、大人の空間。
「合コン」ってなると、まず女性陣は例外なく、壁際の席に自動的に「陳列」され 向かい合った男性陣が、内心舌なめずりしつつ見定めを始める、みたいな状況を、自分は勝手に想像して警戒してしまうことが多い。
でも、いざ来てみるとそんなこともなかった。五分入りくらいの店内の、四人がけのテーブル二つに、男女まぜこぜになって座る。
天井も高くて開放的。明るすぎず暗すぎず、といった室内照明が、軽くソワソワしてるような参加メンバーを包み込んでいた。
女性は、私と真美、それと幹事のミキちゃんと、例の初対面の、全身黒づくめのおかっぱの子だった。
本来は三対三の予定だったのが、私が急遽真美を誘ったので、四対四に修正してくれたのらしい。
その真美は、ラインした当初から、この日を楽しみにしていた。聞くと今度の夏休みに行くシーのデートの、彼氏の段取りが甘いことに、なんだか不満を覚えているのらしい。
ちょっと派手ではあるけど、髪もきれいに栗色に染め直してて、毛先のカールもバッチリ決まってる。花柄のワンピも似合ってて、明らかに目立つ。
ミキちゃんも、とてもきれいな子だ。この中では一番年上で、そこはかとない大人の色気、というのか。グレーのシックなニットに、ネイビーのロングスカート。黒ブーツ。首元には控えめな金色のネックレスが光ってる。
私は飛ばして、最後のおかっぱの子は ちょっとびっくりするくらいのオーバーサイズの、フリルのついた黒のワンピースを着ていた。たぶん、コムデギャルソンだろう。
似合ってはいるけど、正直一人だけ、浮いているように思った。さっきから黙って、伏目がちにお人形のようにしてる。
恐ろしく色が白くて……なんか浮世離れした「妖精」みたい、っていうのか。
ミキちゃんによると、同じ派遣会社の子で、向こうは私のことを知っている、ということだった。
乾杯から引き続いた、お定まりの自己紹介タイムの間に、料理が次々と運ばれてきた。
そのいい香りが満ちてくると、自然にこちらのテンションも、だんだんと上がってくるってもんだ。
……ああなんか、ほんとこういうの、久しぶり。
そんなことを考えてると、マスカットサワーを飲みながら、隣の真美が、しきりに肘でこづいてきた。
「……ねえ。ちょっと全員イケメンじゃん。今日はあたりだね」
私は軽く咳払いして、自分の柚子酒に口をつけた。
「……」
……まあ、確かに。
言われてみれば、そうかもしれない。
取り皿の上のだし巻き卵に大根おろしをのせながら、私はあらためて、その男性陣を見回してみた。
全員、判で押したようなジャケットにパンツのスタイル。
履いてるズボンが短パンかそうでないか、靴がローファーかスニーカーか、インナーがTシャツかボタンシャツかポロシャツか くらいの違いしかない。
清潔感は、一応みんな、備えてはいる。
思うんだけど、たぶんきっと男性の世界には、「清潔感警察」なるものが存在していて ここぞというときには、それに逮捕されないようビクビクして気をつけているんじゃないだろうか。
そんな私の、男性陣を一人一人観察する視線が、順ぐりに目の前に座っている一人の男性と、ふと合った。
「……」
その人の、控えめだけど、ジッと集中してくるような視線を、私はさっきからずっと感じていた。
無理して場を盛り上げようと、サムい感じに頑張るでもなく、といってジットリと居心地悪く、雰囲気が落ち込んでいく、ってわけでもない。
そんな風に、場は和やかに進んでいった。
いい感じにお酒も入って、みんな一様に顔を赤らめてる。
やっぱり合コンって、幹事の人の性格、というか、「プロデュース力」みたいなものが、大いに反映されるように思う。ミキちゃんの穏やかで大人な感じが、とてもよく出ていた。
料理も美味しかった。私は生まれて初めて、金目鯛のお刺身を食べた。ブリのかま焼きも、わさび醤油で食べた常陸牛のローストビーフもぜんぶ美味しかった。
「大貫さん」
二杯目の柚子酒を注文したところで、正面に座る、さっきの男の人がそう話しかけてきた。
「あっ。はい」
私はなるべく、挙動不審にならないよう気をつけた。
いや、ほんとこういうの 久しぶりなもので。
一様に爽やかな(それはいくぶん、強迫神経症的だ)男性陣の中で、その人はワシャッと無造作にパーマのかかった髪型が印象的だった。黒縁のメガネをかけてて、黒ジャケットの下の、インナーのTシャツの絵柄が「ブラックジャック」であるのを 私は見逃さなかった。
武田 駆っていいます、って確か、その人は言っていた。
仕事は確か、広告関係がどうのこうの。
そのとき、カバンの中に入れておいたスマホがラインを着信した。取り出して見ると、いつのまにか隣の席を外していた、真美からだ。
なんだろうと思ってみると、
【その人たぶんあんた狙いだよ】
と、その文面にあった。
私は小さくため息をついた。
【大きなお世話っ】
【だってその人オタクだもーん。ねえなにあのジャケットの下のTシャツ。超キモー】
駆って人は、私がスマホをいじりだしたので、話しかけるのをやめていた。レモンサワーを飲みつつ、残ってたブリかまのお肉を箸でほじくり出してる。
話しかけられたことを自分が迷惑に思っている、とでも誤解されそうで、ちょっとザワザワしてきた。
【あんたも同じオタクであることをオタク同士するどく見抜いたんだよ。相手してあげな】
【私はオタクなんかじゃありませんっ】
日頃から思っていることだけど、この世の中には、「清潔感警察」「かわいい警察」「空気読めない警察」などのほかに 「オタク警察」なるものも存在してはいないだろうか。
この駆って人は、さっそくそれに逮捕されてしまったようだ。
でも、私はべつに、キモいとは思わなかった。
むしろ、オシャレなんだと思うけどな。
その絵がもしドラえもんならば、ちょいアウトな気はするけど。
と、そのとき、
「……スマホいじって、無視してるよ。えっらそうに何様?」
という声が どこかから聞こえたような、そんな気がした。
私は一瞬ハッとして、周囲を見回した。
ミキちゃんは、目の前に座っている男の人と、楽しげに喋ってる。
真美はまだ、トイレから帰ってきていない。
って、ことは 。
すると真美が、すました顔で席に戻ってきた。そして正面にいる、羽賀研二Ver 2.0、みたいなメンズと会話し始める。
私は通路側の席に座っている、あのおかっぱの女の子を見つめた。
「……お休みの日とか、普段、何されてるんですか?」
私がスマホをカバンの中にしまったので、駆って人が、またそう話しかけてきた。
「あっ。すいまっ。えっ、ええーっと……」
「……聞かれてんだからよ。早く答えろよこのボケが」
私はまたハッとして、おかっぱの子を見た。自分の梅酒のロックを飲み干して、こちらに背を向けて手を上げ、店員さんを呼び、同じものを注文している。
周りの人は、聞こえていないのか、それとも聞こえてはいるけど黙っているのか 不思議になんの反応も示さずにいる。
私は、胸騒ぎをしいて押し込め、その気持ちを切り替えた。
「……あの」
「はい?」
「マンガ お好き、なんですか?」
あらためて、私は駆って人にそう話しかけてみた。すると彼は嬉しそうに、
「そうですね。好きですよ、マンガ」
と答えた。
「私もです。なので休日は、うちでマンガ読んだりしてます」
「ほんとですか。じゃ、話合いますね」
「……たとえばどんなマンガ家さんがお好きなんですか?」
聞くと駆って人の、軽く躊躇するような、そんな感じが伝わってきた。
「ええーっと……ガチで答えてもいいですか?」
「はい」
「つげ義春とかかな」
……つげ義春。
「大貫さんは?」
こちらもガチで答えていくべきなのか、それとも女の子らしい好印象を与えるため、ある程度のチューニングを施していくべきなのか 。
ひとしきり考えたあげく私は、
「諸星大二郎とか、ですかね」
って答えた。
「……モッ。えっ。ほんとですか? 趣味合いますね!」
駆って人の目の色が、明らかに変わったのがわかった。
隣で真美が、もうついていけない、って顔して頭を振ってる。
それからしばらく、私たちはマンガ談義に花を咲かせた。
複数人のいる中で、あからさまな「いい感じな二人ゾーン」みたいなのを作り出して、そこに閉じこもるのって正直照れくさいし、あんまり好きじゃないんだけど、ゾーンがいったん形成されてしまった以上は、それも仕方ない。すっかりほろよい状態のミキちゃんも、楽しげにこっちを見てるし、他の男性陣も、駆はしょうがねーなあ、みたいな顔して放置してる。
でも、正直さっきからずっと 私はあの黒づくめの女の子のことが、気になって仕方がなかった。
終始あんまり楽しそうにしてないし、男の人が話しかけても、ハタから見ててもけっこうな塩味対応だ。
私の数少ない合コン経験から言っても、そういう子って少なからずいるし、なんのために参加してるのかな、なんて思いつつ、自分もまあ、そんな人のこと言えないんだけど。
もう一杯だけ飲もうか、それともそろそろウーロン茶に切り替えようか、って迷ってると、駆って人が、
「これ、美味しいよ」
って、ちょうど運ばれてきたばかりのアツアツの料理を、私に差し出してきた。
見るとそれは、スナック風にカラッと揚げて、マヨネーズにつけて食べるタイプのゴボウだった。
「あっ」
「……? どうしたんですか」
駆って人が、不思議そうに首をかしげた。
そのとき私は、急に吐き気を覚えてきた。
なんせゴボウはもう、見るのも嫌なのだ。
昨日もゴボウ今日もゴボウ、明日もゴボウ。そんな毎日だったのだから。
もう、食物繊維はまっぴらだ。
「……おめえの、大好物じゃねえか」
「……」
私にははっきりと、その言葉が聞こえた。呆然として、あの黒づくめの女の子と、目を合わせた。
通りがかった店員さんにウーロン茶を注文すると、私はカバンを持ってトイレに行った。
駆け込むようにして個室に入ると、便器に向かって嘔吐しようとした。でもえづくだけで、何も出てこない。
私は口元をトイレットペーパーを巻き出して拭いながら、繰り返し思った。
……何かが、非常にマズい。
これはいったい、どういうことなのか。
あの女の子は、何者なのか。
ていうかなぜ、私とゴボウのことを、知っているのか?
……えっ。
てことは、もしかしたら……。
そのとき、カバンの中のスマホがまたラインを着信した。
なんとなく予想していたとおり、それは真美からだった。
【あのオタクといい感じじゃん】
そうあった。
何も考えられずにいると、
【ライン交換しときなよ】
と続けてくる。
今夜はこのあと二次会があるかどうかは、ミキちゃんからまだ何も聞いていなかった。たださっき、彼女がいるテーブルの方から、代官山にいいバーがあって、的な会話が聞こえていたから、もしかしたらこれからそこに流れるのかもしれない。
【よかったじゃん。あの不動産屋からうまく乗り換えられそうで】
私は何も返信せずにスマホをカバンに押し込むと、便器で体を支えて立ち上がった。
いまにも吐きそうだったから、仕方なくトイレに来たけど ここにいるままでは非常にマズい、そんな気がして仕方ない。
私は個室を出ると、洗面台に向かった。畳一畳ぶんくらいある鏡に映る、青白い顔をした自分から、ふと背後に視線を向けた、その瞬間だった。
黒い何かが、そこにひらめいたのが見えた。
ハッとした私が振り返ると、あの黒づくめの女の子が 別の個室から突然飛び出して来て、恐ろしい、鬼のような形相で弓なりに後ろに反り返るような、そんな姿勢をとっていた。
息が止まりそうになるのと、その子が巨大な「ナス」を私に向かって叩きつけてくるのが、ほぼ同時になった。
キャッ、と叫んで身を引くと、そのナスが目の前の鏡に直撃し、バッリーン!! と砕けた。その衝撃で、ナスが綺麗に水を出しながら押しつぶされていくのが、私の目にスローモーションのようにハッキリと見えた。
床を這い転がるようにして、トイレの「奥」の方に逃げこむ。そしてすぐに後悔した。
これじゃあ、自分から進んで、追い詰められるようにしむけたのも同然じゃないか。
私は無意識のうちに、床や周囲の空間を、手で探っていた。
……ない。
ゴボウがない。
私の落としたコーチのカバンを思い切り、ひん曲がってしまうほど蹴り上げると、女は目の前に仁王立ちになった。
オーバーサイズのギャルソンのワンピースのおかげで、巨大な暗闇に立ち塞がれている、そんな気分になってくる。
生まれて初めて、私は一人の人間の見せる、そら恐ろしいまでの表情、というものを目の当たりにした、そんな気がした。
「忿怒」の顔、とでも形容するのが、一番ふさわしいかもしれない。
とにかく顔がしわくちゃになって、一心不乱にこの私を睨みつけていた。
……こっ、こっ、怖いっ。
そう感じた瞬間、女は手にした新しいナスを、もう一度叩きつけてきた。
さっきのあの破壊力を経験していた以上、それをもし顔面にでも受けたら、いったいどうなってしまうのだろう。
そんな考えは、私の姿勢を極端に低いものに自然に変えていた。それで闇雲に、まるでラグビーのタックルのように渾身の力で突っ込んでいったおかげで、自分の右肩を深く、相手のみぞおちに差し込んでやる形になり、そのまま全力で洗面台の方に押し切った。
ドォン、という音を立てて、女を割れた鏡の散らばるシンクに押しやると、グエッ、と声をあげた。そのスキに、自分のカバンを取り上げてトイレから逃げ出す。
店内へと続く暗い廊下を抜け、振り返ってみると驚いた。
すぐにその後を追ってきた、あのナス女の「忿怒」の表情は、突然綺麗さっぱりと消え、以前のあのしおらしい、お人形のような白い顔に、元どおりになっていたのだ。
その豹変ぶりに、私はめまいを覚えるような衝撃を受けた。
とはいえ、いまさっきの噴出するような暴力を、記憶から抹消することなんてできない。
かつそれは、いまだしっかりと引き続いてる。
頭が混乱してしまって、これからどうしたらいいか、まったくわからなくなってしまった。
でも、あそこまで完璧にトイレを破壊してしまった以上 私にその責任はたぶんないとはいえ このまま何事もなかったかのように、ナス女と仲良く一緒に席に戻る、という選択肢は、もうありえないような気がした。すれ違う店員さんが、自分に向かって愛想よく会釈してくる中、私はすみませんすみません、と心の中で強く念じつつ、出口の方へと足を向けた。
当然のように、私の後を追ってくる、ナス女から背中に感じる「圧」がすごかった。これは間違いなく「二度目」がある。そう思えてならない。
そのとき、偶然人気のないカウンターの上に、ザルに乗せられた何かが目に入った。
見ると、綺麗に寝かせられ、三角形に積み上げられたゴボウだ。
……こういう状況をうまく言い表わす、古い日本語があるのを、国文学科出身の私は知っている。
「物怪の幸い」、と。
歩きながら、カバンの中から財布を取り出した。後ろのナス女は、運よく他の交差してくるお客のおかげで、一瞬足止めを食っている。
私は無造作に、財布の中からお札を何枚か取り出すと、カウンターの付近におき、すみませんっ、と念じて一番てっぺんに乗っているゴボウを、一本拝借した。
◾️
長さは多少物足りなかったものの、それを右斜めに振り上げた攻撃を、ナス女は後ろへ二、三歩下がりながら、すんでのところでかわした。
でも我ながら「会心の一撃」、と思えたその一振りは ナス女の着ていたコムデギャルソンのフリルを、その風圧だけで切り裂いた。
まるで鬼婆のような形相で、ナス女はヘタのついた方を持ったナスを、私に向かってお返しのように振り下ろしてくる。
それをよけると、今度はさっきみたいに、手にしたナスを手のひらで押し出すようにして突っ込んできた。
屈み込んで、斜め前方にでんぐり返りをしてかわす。
すると背後にあったブロック塀にそのナスは直撃し、上から二段目くらいまでを、すごい音を立ててみごとに破壊した。
崩れ落ちたコンクリートブロックからあがる粉煙を、私はただ呆然と眺めていた。
この小柄な女のいったいどこから、こんな力が出てくるのだろうか。
私は震えだした手でしっかりとゴボウを握りなおすと、ナス女に向かって構えた。
そのとき路地の向こうに、人影が見えた。
自分たちは薄暗い路地裏にいるので、その人影は明るい表通りから逆光を受けている。
「……ねえアッコ、どうしたの?」
その人影は、真美だった。
さっき自分がトイレから出てきて、そのまま出口の方に向かっていったのに、たぶん気づいたのだ。
ふと見ると、ナス女の顔が、元の青白く可愛らしいものに、また瞬時に変わっていた。黒の厚底のスニーカーを履いた足を交差させ、手にしたスマホを触っている。
私は呆れ果てて、もう何も言えなかった。
「う、ううん。この子がライン交換しませんか、っていうから……」
「そう。ミキちゃんが、これから二次会だから、って。早く戻っておいでよ」
言って真美が店の中に入っていった途端、もう一度般若面のようになったナス女が、電光石火のように攻撃を加えてきた。でも今度ばかりは、私にはその予想がばっちりとついていた。
ついていたぶん、極めて正確に行動できる。
私はナス女の手にしていたスマホを、ゴボウを垂直に振り下ろして叩きつけてやった。
地面に落ちたそのアイフォンは、音を立てて砕けた。
○□△#%*@¥!!! みたいな声(こんな風にしか、表現できない)を上げたナス女に、とどめ、とばかりに私はしっかりと腰を落とし、左足を引いて、真一文字にゴボウを振り切った。その一閃は、女の着ていたコムデギャルソンの胸元を切り裂き、黒のブラジャーをつけ、英文字のようなタトゥーの入った白い肌があらわになった。
「クッ」
そううめいて、胸元を手で押さえて屈み込んだ女の顔に、私はゴボウを突きつける。
「……説明しなさい」
冷ややかにナス女を見下ろすと、私は言った。
「これはいったい、どういうこと? あなたは何者?」
そう口にした途端 女は明らかに驚いているのがわかった。口を半開きにし、私を見上げている。
「おめえ……まだ、知らねえのか」
「知らないって、何を 」
女は足元に唾を吐いた。
「ルール、じゃねえか」
「……ルール?」
女はゆっくりと立ち上がると、両手をだらりと下げて私を睨みつけた。切り裂かれた胸元が、横にしたダイヤマークみたいになって、その中があらわになる。
鎖骨の下あたりに彫られたタトゥーは、たぶんだけど、英語でなくラテン語だ。
……lege dura vivunt mulieres multoque/ iniquiore miserae quam viri.
「おいおめえ……さっきの男と、ライン交換したのか」
「えっ」
女はじっと、私と目を合わせながら言った。
私はそのときふと、軽く鼻をきかせた。
……なんか、ヘンな匂いがする。
「おめえだけ、そんなことさせるもんかあ!!!」
ふたたび怒りが沸点に到達したらしい女の表情が、憎悪で燃え上がった。
「……死ねえ!!!!」
あの破壊力抜群のナスを女は、また渾身の力で繰り出してきた。
あんなものをまともに食らったら、骨折どころじゃ済まず、きっと体に大穴が空いてしまう。
私ははじけ飛ぶようにジャンプして後方にしりぞくと、ゴボウをかまえ、十分間合いをとった。
そして言った。
「あんたとの勝負は、これからいくらでもつけてやるわ! でも、その前に教えて。ルール、って、いったいなんのこと?」
「……」
恐ろしい獣のように豹変した表情で、女は私を見たまま何か考えているようだった。
「……ルールを知らねえ奴を殺っても、つまらねえな」
女は足元にナスを放り出すと、厚底の黒スニーカーで踏み潰した。
「今度、渋谷に来いや」
「……渋谷?」
「どうせ私も 次の発表を見に行かなきゃならないんだから」
女の顔が、だんだんと元の表情に戻っていく。
それを見て、ホッとしたなんて冗談じゃない。
むしろ私は、その異様な光景に、もうすっかりマヒしてしまっているのだ。
「ひとつ、言っておいてあげましょうか」
声音もすっかり元どおりになった、ナス女は続けた。
「こんなのって、この私だけだ、って、そんな風に、思ってるんでしょう」
「……どういうこと」
女は切り裂かれたワンピースの胸元を広げ、私に見せた。さっきは気づかなかったが、ラテン語のタトゥーの下、胸のふくらみの上あたりに、真横に痛々しい、ミミズ腫れのようなものができている。
「……」
「これをやられたとき、大貫敦子さん。あなた、ものすごい顔してたよ」
「……」
「セリアンスロープ」
女は突然、そんな奇妙な、聞いたことのない言葉をつぶやいた。
見ると女の胸元の腫れには、うっすらと血がにじみ出している。
「……」
急に罪悪感にとらわれ出した私に、女は言った。
「それが、私たちの名前」
つづく
