ネギ女 その6 沙門潤、の巻
沙門潤
殴り倒した女の頭をつかんで持ち上げると、女は呻き声をあげた。
「……質問に答えろ」
言っても女は、何も口にしない。
「もう一度言うぞ。お前のセリアン化は、激しすぎる。何か理由が 」
その途端、女は持っていたニンジンを放り捨てると、まるで野良猫のように俺の腕に噛みついてこようとした。俺は舌打ちすると、つかんだ女の頭をそのまま近くのコンクリートの壁に叩きつける。
グッ、と呻いて、女はそのまま動かなくなった。
「……」
俺は立ち上がると、女の資料をその場で破り捨てた。そして、大きくため息をついた。
これでもう いったい何人のアンティオぺの女を始末したことになるだろう。
職安通りを越えた、コリアン料理屋で女を待ち伏せていた。資料によれば、その店が女の行きつけで、韓国俳優のチャン・グンソクのファンであり その推し活の帰りのようだった。
連れなどはいず、一人だった。店から出てきて路地に入ったところを、襲った。
口元にできた、傷がうずいた。手で押さえてみると、強い痛みが走る。
血のついた手を握り締め、足元の女を見下ろす。
始末が完了したとはいえ、かなり厳しい闘いだった、と言ってよかった。辛勝、と表現してみてもいい。
女の攻撃は、なりふりかまわないものだった。途中から俺は、その迫力に押され出した。
ニンジンのラッシュが俺の右頬にヒットしたとき、俺の「纏」が発動したのがわかった。ヤングココナッツのボディブローが、女の腹わたをえぐるように決まった。それでしとめたかと思いきや 女の眼は、さらにらんらんと輝きだし、うっすらと笑みさえ浮かべながら、さらなる攻撃を、しかけてきたのだ。
俺はそのとき、初めてこの女に対して、「恐怖」のようなものを覚えた。
その後のことは、はっきりとは覚えていない。「纏」の発動は、俺のセリアンスロープとしての覚醒レベルを、天井まで引き上げたのだ。
俺は久方ぶりに、「本気」になっていた。いや、ならざるを得なくなっていた。
女は地面にうつ伏せになったまま、動かないでいる。顔のまわりには、わずかに血溜まりができ始めている。
と、そのとき 遠くから、パトカーのサイレンのようなものが、聞こえてきた。
……まさか。
「運営」の働きは、日本の警察機構の、さらに上をいっている。あたりまえだ。
「六面体委員会」は、「運営」について、そのすべてを知りえているとは言い難いが、まったくのゼロ、というわけではない。我々は、そこまで無知ではない。
「運営」が、国家権力の象徴たる警察機構を、凌駕する動きを示せるのには、ちゃんとした理由があるのだ。
いずれにせよ この死体(もとい。この女はまだ、たぶん生きている)は、「運営」によって、すみやかに処理される。
新宿や大久保界隈では、パトカーの出動する警察沙汰は、それこそ日常茶飯事だ。今聞こえているサイレンは、ただそれだけのことだ。
俺はきっと 少しだけ、ナーバスになっているのだ。
足元の女に最後の一瞥をくれると、俺は明治通りの方へと向けて、歩き出した。
▪️
二丁目の雑居ビルの四階に、俺の職場、「バー・キメラ」はある。
開店前で、入り口にある、河原さんの手描きのペイントによる「バー・キメラ」と描かれた明かりは、まだ消えていた。三件ある他の店も同じくだ。
扉を開け、中に入ると、おはようございます、と声をかけ、カウンターの中に入った。
鮮やかなショッキングピンクのムームーを着た、キメラ・河原さんが、洗い物をしながら、入ってくる俺を見るなり言った。
「……どうしたの、その傷」
俺は何も答えず 肩にかけていたリュックを置くと、かがみ込んで瓶ビールの入っている冷蔵庫を開け、クリスタルガイザーのボトルを取り出して、一口飲んだ。それを戻すと、袖をまくりながら、洗い物代わります、と声をかける。
「ほら、その口元の 」
「……櫂は? まだですか?」
聞くと、少し間をあけて、
「今日は休みじゃない」
と答えた。
そういえば、どこかに絆創膏があったはずだと思って、キャッシャーの脇の、雑多な物入れの中からそれを取り出すと、口元の傷に貼った。ついでに、髪を結い直す。
「ユーサイキアのあんたが、そこまで苦戦したの?」
俺は、黙って苦笑しながら、河原さんを見た。
彼女は、十年ほど前に女性戸籍になり、名前もそのとき、河原芳雄、から美佐江、に変えている。
二丁目で商売をやってる人間で キメラ・河原のことを知らない人間は、一人もいない。
彼こそが 我々「テセウス」のボスだ。
「……何か、妙なんです」
スポンジを食器用洗剤で泡立てながら、俺は言った。
「何が?」
「彼女らの、最近の変貌ぶりが、です。とにかく、気になるんですよ」
河原さんは、カウンターの上に置いてある、生ビールのジョッキに入っているぬるそうなウーロン茶を、一口手にして飲んだ。
「その話、ね」
「俺たちも、そしてパイドラの連中も このところ、すっかりアンティオペに押され気味になってるのは、あの動物めいた凶暴さのおかげだ、と思うんですよ」
俺は、あのセリアンスロープの異常さを思い返していた。
河原さんは、しばらくの間、黙って考えている。
「あんたは、その原因は、いったい何だと思うの」
……わかりません。
そう、正直に答えた。
「六面体委員会に、今度の議題として提出しようか、と思っているんです」
でっぷりと肉のついた、袖のあたりで日焼けのあとの境目ができている両腕をカウンターにつくと、河原さんは俺をまっすぐに見つめてきた。
「あんたはまだ あんなものに期待してるの?」
言って、河原さんは大きなため息をついた。
「もちろんです」
「いくらそうやって、みんなして集まって話し合っても 結局何も、解決しやしないじゃないの」
「……じゃあ、いったいどうすれば?」
河原さんは、横目で俺を流し見るようにすると、言った。
……決まってるでしょ。
皆殺しじゃない。
「とにかく、私たちを女と認めない連中は 全員皆殺しにする。ただ、それだけのことじゃないの」
俺は洗い物の手を止めると、黙ってうつむいた。
「それじゃ、『運営』の思うつぼです」
「それのいったい、何がいけない、っていうのよ」
俺と河原さんは、ここのところ、この議論ばかり繰り返し続けているような、そんな気がする。
今日もいつしか、その弊に、おちいっているようだった。
俺は、我々テセウスのボス、この、キメラ・河原のことを、心から尊敬している。
でも、唯一彼女に対して、軽い反発を覚える点が、ここなのだ。
確かに俺は 我々、新興勢力テセウスをバカにし、軽蔑し続けるあの連中のことは、憎い。
憎いけれども、むやみやたらに争えばそれでいい、とも、思ってはいないのだ。
それゆえに、三者の代表で結成され、「運営」に対して、唯一交渉する力を持つ組織、「六面体委員会」というものが存在するのだ。
「実は、最近 もう一つ、気になってることがあるんですよ」
俺はカウンターの入り口の上側にある、オーディオのスイッチを入れ、J -WAVEをうっすらと流した。DJの軽快なおしゃべりのあとで、甘たるいようなR&Bが、流れてくる。
「……何?」
「委員会に参加していて いつも妙に思うことが、あるんです」
そう言って、俺は河原さんに、ことの次第を語り始めた。
▪️
「六面体委員会」は、三ヶ月に一度、開かれることになっている。
場所は、歌舞伎町タワー。そこの四十階に、我々委員会用の部屋がある。
一泊十万近くするホテルの一室が買い上げられ、委員会用に改造され、我々に提供された。
もちろん、「運営」からだ。
その部屋が、我々セリアンスロープの幹部の話し合いの場になっている、なんて誰も知ることはない。
我々には、カードキーが一枚ずつ支給されていて、そのカードを常駐している「運営」の人間に渡すと、その人間がそれでドアを開け、中に入室する。
入室は厳密に管理されていて、エレベーターで上に上がる前に、ロビーのある階の別室で、一人づつ待機させられる。
だから、入室の際に、幹部同士ではち合わせすることはない。
この、一連のフローは 我々から委員会を立ち上げたいのだ、と「運営」側に話を上げたときに、それを円滑に執り行えるよう、考えられたものだ。
部屋の中に入ったら入ったで、中はちょっと、変わった作りになっている。
ガランとした部屋の窓の外には、宝石を散りばめたような、四十階からの東京の夜景が眺められる。その部屋の中央に、六つの小窓のついた、一本の円筒のようなものがあって、それを取り巻くように、六つの椅子の置かれた小部屋がついていた。
ようは、一つの大きな水車が横になって置かれているような、そんな格好だ。
そこに、我々委員会のメンバーが座るが、お互いの顔は見えない。
ただ、その手元と、手にした本だけが見える。
このような面倒な手間をかけることには、理由があった。それは、我々セリアンスロープの持つ特性に、関わっている。
我々にとって、正面から互いに視線を向けることは、「敵意」の表現になる。
そのときには視線をそらすのが、最低限のルール、というかマナーだ。
毎月の会合では、我々はただそのつど発表を聞きに行くだけだ。互いに交流しにいくわけじゃない。それを終えるまで、みんなおとなしく同じ方向を向いている。
ごくたまに勘違いするようなのもいるが、「運営」側も、トラブルの起こらないよう万全の態勢をとり、常に緊張もしていた。
そんな我々が 「面と向かった」話し合いの場を設けたい、と言ったとき、「運営」はかなり困惑したそうだ。そして熟考の結果、いまのような形に落ち着いた、というわけだ。
さらに、もう一つ、「運営」側から我々に勧告があった。この委員会を、「読書会」という体裁にするなら、それを行うことを許可しよう、と。
今回も、テセウスの代表としてやってきた俺は、与えられた座り心地の良い黒革の椅子に腰をおろすと、課題図書の本を据えられているテーブルの上に広げた。
といっても この建前だけの読書会は、まったく進んじゃいない。
その本は、アブラハム・マズローの「人間性の心理学」だ。
「……それでは、始めましょうか」
アンティオペの代表(らしき)女が、そう口にした。もちろん、俺にはその手元と本しか見えない。
視界には、その女と、もう一人ぐらいの手元しかない。
俺がこの委員会に参加していて、いつも妙に思うのが、このことなのだ。
そのアンティオペの代表(らしき)者の手と もう一人の手とを見比べたときに、一つの顕著な違いを感じる。
普段の闘いからも、俺たちセリアンスロープというのは若い世代が多く アンティオペの女の手も、見ているとそのような者の手に見える。
が、そのもう一人の者の手が どうしても少し歳がいっている者のように見えるのだ。
「……それじゃあ、前回から引き続いて、テセウスとパイドラの、同盟問題について」
俺は、黙って軽く咳払いをすると、どこかに座っているのだろう、パイドラの代表のことを意識した。
ここからは、その女の存在は、確認できない。
つまり もう一人の、そのおばさんのような手の持ち主は パイドラの代表ではないらしい。
「テセウスとの同盟の実現可能性は、限りなくゼロに近い、とまず、言わなければならないわね」
パイドラの代表(らしき)者が言った。腕組みして聞いていた俺は、にわかに憤る。
「……どういうことだ」
アンティオペの女が、とたんに失笑したのが聞こえてきた。俺は、一瞬そちらの方を見る。
「私たちの内部で、慎重に検討した結果 あなたたちテセウスと、私たちパイドラが同盟を組む、というアイデアは、受け入れられない、という結論に至った、ということよ」
「……」
俺は、黙ってうなだれていた。
その間、三十秒近く黙っていても、誰も何もいうことはない。
……まず。
俺はなにも、どうしてもパイドラと組みたい、という思いから、このアイデアを提出したわけじゃない。
つまり、これは 我々テセウス、パイドラ、そしてアンティオペの三者の、一種の「停戦」への道のりの そのとっかかりとしてのアイデアでも、あったのだ。
もし、最大勢力であるアンティオペが、先にその話に乗ってきていたのなら、それはほぼ、完遂されたようなものだった。が、予想通り、その思いは、あっさりとあしらわれて終わった。
もし、仮に、パイドラと我々テセウスが組めば、アンティオペと拮抗し、あるいは脅かすような、そんな存在に変貌することになる。
けれどもそれは、本格的な三者の「和平」への エンパワーメントとしてのもくろみ、でもあったのだ。
だが、この女どもは この闘いを続けることを、どうやら選択したのらしい。
「先日 S谷区とS並区の『国境』付近で 私たちパイドラの量産型が、『運営』での会合を経ずに、三人消された」
「……なに?」
「……」
俺は、一瞬眉をひそめた。
同時に、アンティオペの女が、こちらの出方をうかがっているような、そんな気配を濃厚に感じる。
「どうなの、テセウス?」
「いや、確認していない 」
「私たちの内部では、それはテセウスのしわざだ、ともっぱらのうわさになってるのよ」
「……」
……櫂に、すぐにも確認を取らねばならない。
だが、少なくとも 河原さんからは、俺はまだなにも聞かされてはいない。
「とてもじゃないけど、そんな野蛮なおこないをする勢力と、進んで同盟を組もうだなんて気には、私たちは到底なれないわね」
「戻ったら、直ちに確認しよう。しかし 」
「そうそう、それと、SEUについて、あれこれ嗅ぎ回るのは、そろそろやめておいた方がいいと思うわ」
パイドラが、冷酷な声音で、畳み掛けるように言った。
「……事実無根だと、言いたいのか?」
「議長。これ以上の発言は、拒否します」
……認めます。
そう、アンティオペがまるでAI音声のように、無機質に言った。すぐにも俺の中に、強い怒りが湧き上がってくる。
「嗅ぎ回ってるのは、アンティオペも同じなんだということは、知ってるのか」
「……ユーサイキアの数を増やそう増やそうと、いま一番やっきになってるのはあなたたち、ってことは知ってるのよ? テセウス?」
「……」
「あなたたちは まだまだ私たち女のことが、どうやらわかっていないようね」
とたんにアンティオペとパイドラの代表が、一斉にかん高い笑い声を上げた。
俺は、奥歯を噛みしめるようにして、耐えていた。
それにしても、櫂はいったいなにをやっているのか。
これでは俺の考えが、すべて裏目に出てしまったようなものだ。
あの「聖なる」紛争地域での 互いの量産型同士のいさかい、という、そんな可能性もあった。
だとするなら、非は我々ばかりにあるわけじゃない。
だが、そのことを指摘する前に、言っておかねばならないことがあった。
「……新たな議題を、ここで我々から提出したい」
「認めます」
アンティオペが言った。俺は再度、もう一人のおばさんの方を見る。
しかし、その手は組まれたまま、さっきから微動だにしていない。
「ここのところ セリアンスロープの『凶暴度』が、増しているように思う」
俺がそう発言すると、一瞬にして場が静まりかえった。
この、いまの俺の実感を、連中も共にしているのかどうかはわからないが。
「……どう思う?」
あなたは、その原因は、なんだと思うの、とアンティオペが、静かに聞いてきた。
「わからない」
素直に答えた。が、今回は、失笑は起きない。
「さらに、気になる点があるんだ」
「言ってみて」
「その暴力性は 我々だけにではなく、その者自身にも向いているように、俺には感じられるんだ」
俺のその発言のあとで、どこかから、小さなため息が聞こえたように思った。
「つまり、どういうこと?」
「つまり その時の相手は、自分自身の頭や体を、壁に向かって打ち付けていた」
「……」
「……要するにあなたは、『纏』が関係してる、って言いたいの?」
その声は、パイドラでもアンティオぺでもない、初めて聞いた声だった。
その声がした方を、見る。
……ひょっとして、いまの声の主は、
あの、おばさんか?
「あるいは、もしかしたら」
続けて、議長、と俺は、アンティオペの代表に向かって言うと、そのおばさんを指さした。
「この者は、いったい……」
「その質問に、答えることはできないのよ、テセウス」
アンティオペが、とたんにピシャリと言った。
いったい、どういうことなのか。
「ねえ。いまの問題の調査を、彼らテセウスに依頼してみたら、どうかしら」
ふいに、パイドラが言った。例のおばさんは、なにも言わずに黙っている。
「もし、この問題が発展するとすれば、私たち自身を蝕むことになる。それはきっと良くないことよ」
「……」
そうやってお前たちは いつも面倒なことだけを、我々男に押しつけようとする。
そのくせ ああしたいこうしたいと、身勝手な主張だけは、いっちょまえにするよな。
でも、我々テセウスは、そうじゃない。
「その依頼を受けても構わないが、引きかえに、我々とパイドラとの同盟を、引き続き審議することを要求しよう。非公式には 我々テセウスを受け入れることを、パイドラのセリアンスロープたちは認め始めている、という声も上がってきている」
「どうなの、パイドラ?」
アンティオペが聞いた。
「……そんな事態は、いっさい確認していない」
そう、パイドラは憤った様子で言った。
「私たちは依然、あなたたちテセウスを、由々しい存在だと認識している」
「……私たちも同じよ。今日は、妙に気が合うじゃない、パイドラ」
アンティオペが、茶化すようにそう言った。
……どうやら見事なまでに、現場レベルの声と、我々上層部との認識が、食い違っているようだ。
だが、これ以上議論をまぜっ返すのは、きっと得策じゃない。
セリアン凶暴化の問題を調べ上げ、連中に突きつけてやり、我々の発言力を増すことが、なにより先決だろう。
いずれにせよ 我々はまだ、新興勢力の立場なのだ。
▪️
委員会を終えると、歌舞伎町タワーを降りてトー横前に出、居並んでコンカフェに勧誘するメイド服の少女たちを眺めながら 二丁目に戻った。
人で溢れかえる歌舞伎町を歩きながら、俺はひたすら、考えにふけっていた。
我々、テセウスは なんとしてもあの女どもに、我々が女に生成することを、認めさせねばならない。
そのことに、激しく抵抗するアンティオペとパイドラを駆逐するには、やはりSEUの存在を、突き止めなければならないのだ。
俺が、パイドラと同盟を組むことにこだわり、連中に接近を繰り返しているのは ひとえにパイドラに、唯一のSEUが存在している、との、うわさがあるからだ。
もっとも、パイドラはそのことを、ひた隠しにしているようなのだが。
SEUの力は この三者鼎立の均衡状態を、根底から覆す、そんなものなるに違いない。
道を曲がろうとするとき、一人のコスプレ少女と、目が合った。
彼女は目が合った俺を、ことさらに勧誘しようとはしてこない。
たぶん、同じ「新宿」の匂いを 俺が濃厚に発しているからだろう。
ふいにそのとき、先日渋谷でマークした、一人のパイドラのセリアンスロープのことを、思い出していた。
あの、泥のついたゴボウを振り回していた女の凶暴さといったらなかった。自分がこのことに考えが至ったのも、そもそもはあの女がきっかけだったのだ。
……あの女のことを もう少し、調べてみるか。
そう俺は考えながら、足早に一番街を下っていった。
▪️
大貫敦子
ゆう子は、抱え上げた自分の彼氏をベッドの上に放り投げると、黙って私を見た。
私は小さく息を吐くと ゆう子と目を合わせたあとで、彼を見つめる。
「……なあ。さっきからひどいじゃないか」
ベッドの上で、スプリングの勢いで彼は跳ね起きると、両手を広げたオーバーアクションで、私にそう訴えてきた。
私は、彼の黒縁のメガネを手渡すと、
「……ごめんなさい。でも、仕方なかったの」
と、弁解するように答えた。
彼は手渡されたメガネをつけると、ベッドから立ち上がり、両手で繰り返し髪を掻き上げ、その後自分がトランクス一枚のままでいることに気付いたようだった。ゆう子が彼のジーンズと、チェックのネルシャツを手渡す。
彼は、その服に着替えを済ますと、両手を腰にやって、
「うすうす自分は、この頃のゆう子の変化に気づいてたんだ」
と言った。
「でも、本当のところは、まだ何が何だかわかっちゃいない。さあ、全部説明してくれ」
ナス女のミヅハとの闘いの興奮が、いまだ冷めやらない状態で、心を落ち着けるのに苦労した。ゆう子の彼氏は、そんな私が何を言い出すか、じっとこちらを見つめながら、待っている。
考えるべきことは、まず。
自分がもし ゆう子の立場だったら、ということだ。
一方的に、自分の彼氏に不都合な真実を告げられれば、いったいどう思うだろう。
そう考えると、自分からベラベラと口にするのには、強い抵抗があった。
ゆう子に、そんな私の思いを口にせず、目配せで伝えてみる。すると、
「……私たちは、セリアンスロープなの」
と、ゆう子は静かに口を開いた。
「セッ、セリ……?」
私は、軽いショックのようなものを、受けていた。
自分たちはセリアンスロープなのだ、ということを、ただカミングアウトしただけで それ以上何も言わない、赤のジャージの上下姿のゆう子が、ベッドに腰を降ろした彼氏の隣に寄り添うように座った。彼氏はさらなる説明を求めるように、私の方を見る。
「……あの、私にも、本当のところはまだわからないんだけど」
そう、慎重に前置きしておいたうえで、私はかわりに続けて言った。
「とにかく、一つはっきりと言えるのは、私たちは何かに巻き込まれてる、ってことなの」
「……巻き込まれてる?」
ゆう子の彼氏は、目を丸くするとひどく不満げに、そう声を荒げて叫び、両手を広げた。
「なあ。君はさっき あの妙な女と一緒に、物凄いような顔をしていたよ。それは、自分から意識してそうしているようにしか、僕には見えなかった。それなのに、巻き込まれてる、っていうのは……」
その、彼氏の追求は、私の心にグサッとくる。
……そう。
私はいまだに、何かに巻き込まれてる、って受動的に思うことで、なんらかの「現実逃避」をしたがっているんじゃないだろうか。
この人の言うように、自分は進んで、この世界に参入してきたのだ、ということを そろそろ認めなければならないのかも、しれなかった。
「私がパイドラに逃れて、この闘いが無事に終われば、私は木好くんにとって、もっといい子になれるの。だから、私たちがやってることを、信じて欲しい」
そう、キズキ、という名の彼氏の手を両手で取りながら、ゆう子は真剣な表情でそう言った。
「ゆう子……」
私は、そのゆう子の言葉を聞いて、何か打たれたような、そんな気持ちになる。
そして表現し難いような そんな奇妙な感情にも包まれた。
……自分はいったい、なんのために闘っているというのだろうか。
▪️
ゆっくりと回る天井についた大きなファンをぼーっと眺めてると 自分の考えも、それに合わせてグルグルグルグルとめどなく回っていくように、感じる。
回ってる、ってことは、べつにどこかにたどり着こうとしてるわけじゃない。
回り続けるか、それとも回ることをやめるか そのどちらかしかないのだ。
渋谷のファイヤー通りを職安のあたりで左に折れ、少し行ったところにある行きつけのカフェは 平日の午前中なのにもかかわらず、たくさんのお客さんで賑わっていた。空調のよく効いた室内から眺める外の世界は、東京の真夏の眩しく透明な光で満たされてる。
私は、水滴の浮きでた抹茶ラテのグラスを手に取ると、ストローで一口飲み、籐椅子の背もたれに、静かにもたれた。
先日の池袋での ゆう子と木好の件をひたすら考えてると、どうにも頭が混乱してくるのだ。
私たちは、パイドラに所属するセリアンスロープで アンティオペと闘いを繰り広げているのだ、と木好に説明しても、彼は「それはなぜ? なぜ?」とただ繰り返すだけだった。
……確かに、それも、そうだろう。
私には、それ以上答えることはできなかったし、ゆう子にはその意志すらないようだった。
とにかく、目の前の木好に対しては、自分の彼女のことが好きなんだったら、その子のことをしっかりと考えて、サポートをしてあげて欲しい、としか、私には言うことができなかった。
「……」
では、具体的にどうしたらいいのかなんて いまの私には、まったくもってわからない。
一人、背もたれにもたれたまま目を閉じて、ひたすら考えにふけってると テーブルの上のスマホが、ラインを着信した。
手にとって見てみると、武田駆さんからだ。
……ああ。
サイアクの、タイミングだ。
メッセの最初の何文字かをチラ見しただけで、私はなかなか開いて内容を確認する気にはなれなかった。
……でも、そうも言っていられない。
思い切って、それを開いて見てみた。と、うっすら心の中で予想してた通り、
「先日のことを、説明してくれないか」
と、彼は言ってきた。
駆さんとは、前回の渋谷での初めての食事の際、ダイコン使いの量産型に襲われて以来 それっきりになってしまってる。
あんな緊急事態ではどうしようもなかったとはいえ せっかく食事に誘ってくれた駆さんに、私は申し訳ないことをした、と思い続けていた。
……でも、困った。
どうしたら、いいのだろう。
選択肢は、いくつか考えられた。
まず、
1. ゆう子が木好に対してしたように、私も駆さんに、自分がセリアンスロープであることをカミングアウトして、彼に助けを乞う。
2. テキトーに誤魔化しておいて、今後も彼と、交際を続ける。
3. 私がセリアンであることを告白する必要はないし、これ以上彼と会うこともできない。もし、不用意にそうしたなら また彼にメーワクをかけることになる。
だから、彼と会うことは、もう金輪際やめる。
「……」
私の前に、これら三つの世界線が、分たれていた。
まず、2、はありえない。
だいたい、あんな奇妙な事態を、どう誤魔化せばいいっていうのか。
もし仮に誤魔化せたとしても、またすぐにボロが出るのは、目に見えてる。
じゃあ、1、は?
……ムリ。
それも、ありえない。
私には、できない。できるわけがない。
ゆう子はまだ 自分の彼氏にそうしたんだから、わからないでもない。
でも、私にとって 駆さんはまだ何者でもないのだ。
すると自然に、消去法で、3、が残った。
あんまりウダウダと躊躇して、返事を遅らせたくもなかった。私は、
《ごめんなさい。もう、会うことはできません》
そう入力して、駆さんに送信した。
送信してしばらく、全身から骨だけ抜けたようになって、何もできなくなった。私は、カフェの椅子に腰掛けたまま、そこで長い時間じっとしていた。
家に帰り、カンタンな夕食を作って食べた後で、アイスティーを作りそれを持ってソファに座ると、真美にラインをしてみた。
この、割り切れないような思いを共有してもらえるのは、真美しかいない。
でも、無論 なんで駆さんに対して、そんな態度を取ったのか、なんてギモンには、何も答えられない。
答えられないけど、誰かに話を聞いてもらいたくて、仕方がなかった。
いつもなら、送信したならすぐ、真美は既読をつけてくれ、即レスしてくれる。でも、しばらく待っても、なかなかそれは現れない。
仕事が忙しいのかな、と思って、先にお風呂を済ませることにした。ゆっくりと長い時間をかけ、お気に入りのハーブ入りバスソルトを入れた湯船に浸かり、たくさん汗を流したあとでお風呂を出ると、スウェットの上下に着替えてソファに腰掛け、もう一度スマホを手にとって見る。
……と、まだ、既読がついていない。
「……」
私は、スマホから目を離すと、しばらく考えた。
さいきん とくに、何か自分に隠し事をしていないか、と真美に突っ込まれて以来、せっかく心配をしてくれている彼女に対して、あまりにそっけないような、そんな態度を続けてしまったような気がする。
もしかしたら、そのことで少し、機嫌を悪くしてるのかもしれなかった。
これまでの経験上、真美がそうやってヘソを曲げた場合は、あの手この手を尽くして機嫌を取らないと、なかなか許してはくれない。
私はあらためて、真美にメッセを送ってみることにした。これまでの塩味対応を謝り、今度私のおごりで食事でも行かないか、と、誘いをいれてみる。
……でも、しばらく待っても、そのメッセにも、何も反応はなかった。
何か、おかしい。そう、私は思い始めていた。
その後、一日経っても二日経っても、真美は何も言ってこないままだった。
こんなことは、いままでに一度だってない。
次の休日に、私は代々木にある真美の家を、直接訪ねてみることにした。
山手線の代々木駅で降り、代ゼミの方に向かって十分くらい歩いた場所に、真美の住むワンルームのアパートはある。
アパートの建物には、オートロックはついてない。二階に階段で上がり、一番奥の部屋のインターフォンを押して、そこでしばらく待っていると、やがて応答があり、部屋の中と通じている状態になった。
でも、声はなにも聞こえてこない。
「……あ、真美? 私、敦子だけど ねえどうかした? 元気? 体調でも悪いの?」
通話口に顔を近づけ、そう言っても何も返ってこない。
向こう側に、私の声は聞こえている、その感覚だけは、ある。
いったん顔を離して考えてると、そのうちプツッ、と通話が切れた。
もう一度、呼び出しボタンを押してみても、今度はもう、何も反応はなかった。
真美が、何か妙な状態になってるらしいのは これでもう、間違いはなかった。
彼女は普段から快活な性格で 自分とは違い、深く落ち込んで引きこもったりはしないタイプだ。
……何か、「嫌な予感」が、しきりにしていた。
ある日、私は真美と同僚で、私とも共通の友達の一人に、さいきんの真美の様子を訊ねてみた。
と、彼女は、
「あの子さいきん、何かすごく塞ぎ込んでるみたいなの」
と言った。
「……どういうこと?」
「なんかいつも、すごく無表情で 仕事もなんでもないようなミスが多くなってるし。話しかけても、まったく反応がなかったりするのよ」
心配げに、友達は言った。
何かほかに、気になることはなかった? と聞いてみる。と、
「あとね、なぜかさいきん、大きな肩掛けカバンを、いつもぶら下げてるの」
と言った。
「肩掛けカバン?」
「そう。ほら、あのIKEAの大きい青いやつとかあるじゃない。あんなような大きいカバンをいつも重そうに持ってるんだけど それが毎日中身でパンパンなの。ねえ、それ何? って聞いても、目を剥いて驚いて、何も言わずにそのまま行っちゃった」
「……」
……そう。
どうも、ありがとう。
私は、その友達にお礼を言って、その話を終えた。
その日の仕事帰り、私はもう一度、真美の家に行ってみることにした。
建物の裏手にまわり、二階の真美の部屋を見てみる。電気はついてない。
この日、真美は仕事に出ていることを、あらかじめその友達に確認していた。しかも、今日はちょっと残業になりそうだ、と言う。
一階の部屋に上がる二、三段の階段の前にある、植え込みのあたりで一時間くらい待っていた。スマホで時間を確認し、ふと前を見ると、駅の方角からこちらに向かって、一人の女性が妙な早足で駆けるように歩いてくるのが見えた。
その慌てたような 何かに追われ、せき立てられてもいるような、そんな様子に私は、非常な既視感があった。
……ああ。
私は その感じが、ものすごくよくわかる。
最後はほとんど走るようにして、ドタドタと話に聞いてたように大きな肩掛けカバンを抱えた真美が、暗闇から街灯に照らされて姿を現した。私は、意を決してその前に躍り出るようにすると、
「……真実!!」
と叫んだ。
ビクッ、と体を震わせるようにすると、真美は目を見開いて、これ以上ないくらいの恐怖の表情を見せた。そしてその肩掛けカバンを道路の上に放り投げるようにすると、中から大ぶりのキャベツを取り出して それを両手で抱え、私に向けて必死の形相で構えた。
「……真美 」
「あっ、あんたはパイドラね? まっ、まだ会合は先なはずじゃない!」
そう、真美は周囲の闇に轟くような金切り声で、絶叫した。
めまいのような感覚にとらわれてゆくのを、なんとかこらえねばならなかった。
「……私じゃない、真美。敦子だよ。わからないの?」
私は悲しみで、いまにも胸が張り裂けそうになっていた。さらに一歩近づいて、そう声をかけてみても、真美は気づくような様子はない。
口から涎を垂らしながら、真美はキャベツを振りかざし、いまにもこちらに向かって突進してくるような、そんなそぶりを見せた。私はもしものために ゴボウを持参していた。でも、とてもそれを取り出して、真美に向ける気になんかなれない。
……なれるわけがない。
「……真美っ!!」
私は、心の限り、さっきの真美の絶叫にも負けないほどの大声で、真美に向かってそう叫んだ。
もう一度、ビクッ、と体を震わせて、真美は体の動きを止める。
「……」
「……必ず、あなたを助ける! 待ってて!!」
これ以上ないくらいの声を張り上げると、私は真美に背を向けて走り出した。
▪️
……どうしたら、いいというのだろう。
まるで、わからない。
激しいショックのやり場が 私には見つからなかった。
あの時 真美が言っていた言葉が、頭の中でいつまでもリフレインしている。
……あっ、あんたはパイドラね? まっ、まだ会合は先なはずじゃない!
と、いうことは パイドラである自分は、真美の敵方になってしまった、ということを、意味した。
と、いうことは いつか真美とも、私は闘わねばならないかもしれない、ということをも、意味していた。
いまのところ、このことを相談できる相手は、同じセリアンスロープであるゆう子しかいない。
さっそく、ゆう子に電話をしてみた。電話に出たゆう子に、これまでの事情を話す。
大切な親友がセリアンスロープになってしまった、ということに関して、ゆう子はとくになんの感慨も抱いていない様子だった。そのことが、私にはかなり引っかかったけど、ひとまず飲み込んでおく。
「……自分には、よくわからない」
そう言うゆう子に、でもどうしても、その友達を助けたいのだ、と言うと、
「あいつなら、何かわかるかもしれない」
と、ボソリと答えた。
……あいつ?
「ミヅハよ。斎木、ミヅハ」
そう、ゆう子は言った。
つづく
