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空の回想録 Les Mémoires du Ciel ㉘

秋Ⅸ 斯芬克司スピンクスの最期

 それから、しばらくして。
 昼休みを挟んで、五時間目が英語だったる日。

 その日は視聴覚LL教室での授業だった。――今もそういう設備が有るのか知らないが、一人ずつ仕切られた座席ブースの有る特殊教室で、生徒は全員頭載式耳機ヘッドフォンを着けて、硝子ガラスで仕切られた別室にいる先生の指示を聞く、そんな授業を行うための教室だ。普段の教室で教科書を勉強するのではなく、一箇月に一遍くらいの割合で、某公営放送の教育番組の録画を見せられて、聴き取りとか発音の練習をする特別な授業が行われていた。皆、その授業前は、その特別感の所為せいだか何だかわからないが、ソワソワしていたものだ。

 次の授業が始まるまではまだ少し時間が有ったが、そんなわけで、大部分の生徒はもう視聴覚教室へ移動してしまった様子で、教室には、信悟のほかはほんの数人しか残っていなかった。信悟も(授業では扱わないが、お守り的に)教科書と、(覚書メモ代わりに)帳面ノウトを持って、教室から出ようとしていた所で、教壇に誰かの英和辞典が置きっ放しになっているのを発見した。

 その辞書は、中一の四月になる時に買った学習雑誌に付録で付いていたとかいう、教科書準拠のヤツ(例文に教科書で出て来た文を使っていた)で、例えば some と any の違いなど、文法事項の詳しい説明とかも二色刷りで書かれている、親切なつくりの物だった。信悟なぞは、新出単語の意味は一遍、教科書巻末の単語索引で見ればそれだけで頭に入ったし、文法の説明は教科書に載っている(あるいは授業で聞いた説明の)範囲で十分であり、態々わざわざかさ張って重たい辞書を毎回持って来る必要性を特段感じていなかったが、この組でも何人かは、その辞書を授業中使っているのを見た事が有る。
 教壇に置き忘れられた辞書も、二年半使い込まれただけあって、大分年季が入っていて、表紙の紙製の書套カヴァには破れた個所や折れじわが有ったり、前小口がくろずんでいたりした。

「絹川君、何してんの? 遅れちゃうよ。」
とうあいふなばしすみが同じように移動の準備を終え、信悟の後から教室を出ようとしていて、立ち塞がった信悟に声を掛けて来た。
「うん、これ……。誰かが辞書を忘れてったみたいで……。」
その辞書を取り上げて、愛に見せた。
「本途……誰のかな?」
引っ繰り返してみても、特に名前は書かれていなかった。

 と、ぺらっ、と後ろ見返しがめくれて、幼さが残る字で書かれた持ち主の名前が現れた。
「あ!」
「山崎のか……。」
愛と信悟はほぼ同時に声を発した。

「え、山崎君の?」
少し遅れて、愛に隠れて状況が見えなかったらしい香純が、愛の肩越しにのぞき込みながらき返す。

 持ち主が判ってみると、確かに彼らしい、真面目そうな、一画一画がしっかりした筆跡だった。

「あたしが届ける!」
と、愛が教科書等を持っていない方の手でパッと辞書をつかみ、引き寄せようとする。
「ちょっと待て!」
信悟は辞書を持ったまま手を離さなかった。

「え、何? 放して! ん〰〰!!」
「愛、頑張れっ!」
香純も、愛のもう片方の肘に腕を掛け、二人係りで、体を傾けながら辞書を引っ張る。
「ちょっと待てってば。」
信悟も取られじと腰を落として引っ張り返す。

「痛ぁい、すごい力。」
愛と香純の連合軍はつかの間頑張ったが、ぐにこらえ切れず手を放した。愛は痛みを払うかのように前腕を上下に振った。

 信悟はそんなに〝凄い〟力を出した心算つもりは無かったので、その感想は予想外だった。特に自分なんかは、運動スボォツ馬家バカたちと比べれば腕も細く、非力な方だ。それでもやっぱり、生理的に筋肉量の少ない女の子たちと比べれば、意識せずとも大きな力が出ていたのだろう。思わぬ所で自分が男である事(と言うか、男女の違い)を認識させられた。そんなに違うとは思ってもみなかった。

「お前たちの仲って、他の人たちには秘密なんだよな。」
信悟が何を言おうとしているのか予想が出来ずに、信悟の顔を見詰め、不思議そうな顔をしながらも、愛はこくりとうなづく。
「なら、みんながいる所でコレを渡したりするのは、まづいんぢゃね?」
「えー、ぢゃ、どうすればいいの?」
声音にいら付きが混じる。

「俺が渡すよ」
「えー。」
不満そうだ。愛にしてみれば、恋人に公然と接触できる稀少きしょうな機会だろう。「まー、そう言わず。何か伝言は有る?」
「……わかった。ぢゃ、『頑張って』って伝えて。」
渋々引き下がる。

「OK、『頑張って』ね。伝えるよ。」
何を頑張るのかは解らんが。
「んぢゃ、行こう。本途に遅れる。」
辞書を自分の持ち物の上に載せ、空いた腕を教室の出入り口へ向けて水平に払い、愛たちを教室外へ促す。
「うん。」

 彼女たちを先に行かせ、時間を置いて後から視聴覚教室へ入ろうとした所で丁ど、廊下の向こう側から、こちらへって来る山崎の姿が見えた。

「あぁ、良かった。はい、これ。」
視聴覚室の出入り口を行き過ぎて、山崎に英和辞典を渡す。唐突に親しくもない人物から見覚えの有る辞書を渡されて、整った顔に少し戸惑いが浮かぶ。

 その顔が面白くて、つい意地悪を言いたくなってしまった。
「嫁さんからだよ。」
「あ゙?」
途端に不機嫌そうな顔になる。
「『頑張って』ってサ。」
頼まれていた伝言を、約束通り伝える。
「誰のことだよ。」
とがった声で訊き返される。

「だから、お前の嫁からだよ。」
「そんなのいねぇよ。」
口振りにも若干の怒気が含まれる。真面目な山崎はどうやら、信悟の揶揄からかいを、字義通りに受け取ったらしい。そりゃ中学生に配偶者はいないだろう。

「あれ? 伊東はキミの嫁ぢゃなかったのかい?」
と、軌道修正を図ってみる。
「そんなんぢゃねぇよ。何だお前、最近、アイツと随分仲がいいぢゃねえか。本当はお前が好きなんぢゃねえか?」
「えっ違うよ。」
嫉妬からか、照れ隠しからか、有らぬ嫌疑を掛けられた。もしかすると、文化祭の準備中の謎々のくだり辺りから、疑いを持たれていたのかも知れない。慌てて即座に否定する。

「それならお前が付き合えよ。」
何だか無性に腹が立って来た。
「そんな事、するわけ無いだろ。お前こそ、末永く、お幸せに、な!」
信悟は山崎の無防備な股間を思い切り蹴り上げた。それは見事に的中クリーン・ヒットしたらしかったが、信悟はさっさときびすを返し、振り返りもせず、鼻息も荒く視聴覚教室へ入って行った。

 山崎は悶絶もんぜつし、声も無く股間を押さえてうづくまった。
 信悟は後に漏れ聞くことになるのだが、この後山崎は、あまりの痛みに、格好悪くも泣き出してしまい、授業も欠席したらしい。

 放課後にオヤマから生活指導室に呼び出された信悟は、この事件に関して注意を受けた。
「詳しい原因は聞かなかったけど、山崎君とけんしたらしいわね。どんな理由が有っても、暴力を振るってはダメ。特に今回の場合、大切な部分だからね、粗末に扱っちゃダメ。山崎君も、自分にも悪い所が有ったから、大事おおごとにしないで欲しいって言ってるの。山崎君には後でちゃんと謝っておきなさい、いいわね。」
予想していたよりも、かなり軽い注意だけで、解放された。

 その後、謝ったかどうかは、記憶に無い。多分、謝らずに有耶無耶うやむやにしたのではないかと思う。
 暫くって、愛と山崎は別れたと聞いた。信悟が二人の仲を引き裂いたに違い無く、非常に胸が痛み、又、男女の仲がこんなにもさいなきっかけで、もろく壊れてしまう事に、あっなさを感じた。

 珀耳修斯ペルセウスは、大神ゼウスと、阿耳戈斯アルゴス王・阿克里西俄斯アクリシオスの美しい娘・達那厄ダナエーとの子(半神)である。大神ゼウスの息子なので、美杜莎メドゥーサ討伐の際に、同じ大神ゼウスの子である偸盗神ヘルメース技芸神アテーナーの神器を借りられたりした。
 希臘ギリシャ神話の系図的には、達那厄ダナエーは、やはり大神ゼウスに愛され、浮気が妻にれそうになって牛に変身させられ、赫拉へーラーの送ったアブに追われて「世界」中を逃げ回った伊俄イーオーから数えて九代目の子孫であり、珀耳修斯ペルセウスは、赫拉克勒斯ヘーラクレースの曽祖父である。

 珀耳修斯ペルセウスの物語は、神託から始まる。一人娘の達那厄ダナエーしか子供がなかった阿克里西俄斯アクリシオス王が、世継ぎを授かるかどうかを問うた。すると、彼には男子は生まれないが、娘には生まれ、その孫に彼は殺される、と出た。そこで彼は子供が生まれないように、娘を地中、或いは塔の一室に閉ぢ込めたが、大神ゼウス達那厄ダナエーを見初め、金色の雨となって降り注ぎ、珀耳修斯ペルセウスが生まれた。王は予言通りの男子の誕生に激怒したが、直接手に掛けず、母子を木箱に入れて海へ投げ捨てさせた。この時も大神ゼウス海神ポセイドーンに頼んで波を鎮めたので、珀耳修斯ペルセウスたちは無事、或る島へ漂着することが出来、其処そこ珀耳修斯ペルセウスは青年まで育てられた。その後は諸説有るが、一説にると、その島の領主が達那厄ダナエーを見初め、珀耳修斯ペルセウスを厄介払いするため美杜莎メドゥーサの首を取りに行かせる。帰途、化け鯨ケートスを退治して安徳洛墨達アンドロメダーと結婚し、島へ戻って母に迫る領主から母を救い、故郷へ帰る。祖父は孫に殺されるのを恐れ、別な街に逃げるが、珀耳修斯ペルセウスがその街で行われた葬送競技(近年亡くなったその都市の名士をしのんで開催される運動競技大会)に参加中、不運にも投げた円盤が(風に吹かれたとも、老人が知らぬ間に場内に入り込んでいたとも)祖父に当たり、珀耳修斯ペルセウスにその意図は無かったものの、予言は成就する。

 斯芬克司スピンクスの謎を解いた俄狄浦斯オイディプースの場合もそうだが、希臘ギリシャ悲劇では、運命付けられた未来を回避しようとする本人たちの抵抗を裏切る形で、予言は必ず実現する。未来に起こるべき事は既に決まっていて、それは神々の力をもってしても変えられない、というのが古代希臘人の考え方だったようである。

 信悟も、意図せず、山崎と愛との関係を壊す役割を担ってしまった訣だが、これが、夢の中で信悟が珀耳修斯ペルセウスだった事の、真の意味だっだのではないだろうか。

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