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食後の関係 第十五話

実里と付き合い始めて二度目の誕生日。
陽子は窓が映し出す青白い光とスズメの鳴き声で目を覚ました。すぐ隣には実里が静かに眠っている。陽子はその顔をじっと見つめた。
彼女の長いまつ毛が涙袋を覆っていた。真っ直ぐな鼻筋の途中には、日中つけている眼鏡の鼻当ての跡が少しだけ残っていた。卵型の輪郭はシャープで、枕に片頬を押し付けてもそのラインは崩れなかった。
本人に自覚はないだろうが、実里は整った顔立ちをしている。
内向的で最低限の装いしか必要としない性格と、黒くてしっかりした眼鏡がそれを隠しているだけに過ぎない。大学で関係を持ったという男性も、きっと気づいていたのだろう。そのタイプの男性は女性の隠れた美を見出すのが得意なものだ。
陽子は実里の頬を撫でた。自分にはない柔らかさがあった。
今日から三ヶ月間、また彼女よりも一つ歳を取る。彼女の誕生日が来ても、縮むのは一つだけだ。

実里の瞼が起き上がり、細いアーモンド型の目が露わになった。
「あ……。おめでとうございます」
開口一番、少し寝ぼけた声でいった。
「ありがとう。でも、寝る前にもいってくれたわよ」
昨夜、陽子が彼女からの口づけに身を任せていたとき、時計が零時を報せた。実里の唇がそっと離れた。
「……お誕生日おめでとうございます。今年はちゃんとお祝いをするので……」
去年、誕生日を知らないままだったことを気に病んでいるようだった。それを思い出して、陽子は少し笑った。寝ぼけなまこの実里は、その表情の変化に気づいていないようだった。
「去年は取り急ぎみたいになっちゃいましたけど、今年はちゃんとします……」
陽子は再び微笑んだ。
「それも、寝る前に聞いたわ」

この日の月影堂は、去年と同じように常連客からの祝いの言葉が飛び交った。
十三年前に月影堂を開店したとき、陽子は多種多様な人々が一緒に時間を重ねられる店にしたいと思った。
その思いは実現しつつあった。
最初は一人の常連客が祝ってくれた誕生日は、いつしか多くの常連客が言葉をかけてくれる日になっていた。陽子はときを重ねるごとに、おばあさんになってもこの店を続けたいと願うようになった。
去年からは吾郎も来てくれるようになった。卒業を控えた今年は忙しく来店の頻度は減ってしまったが、誕生日はメッセージアプリを通して祝ってくれた。
そして実里も——。
月影堂の店主になってから、一番幸せな誕生日は間違いなく今日のはずだった。
それなのに、その幸せを素直に掴めないでいる。
かつて手に入りそうだった幸せは、自分の感情を欺きたくないがために手放してしまった。今は、実里の将来を奪ってしまうかもしれない恐怖が、陽子の感情を欺かせようとしていた。

二十二時の鳩時計が鳴り、店内には陽子と実里の二人だけになった。
実里は付き合い始めて頻繁に家に出入りするようになってから、客席の清掃を担っていた。
「無理しなくていいのに。仕事終わりで疲れているでしょう?」
「平気です。二人でした方が早く終わりますし。そうしたら家で一緒にいられる時間も増えますから」
「……そう?」
実里の大胆さが体だけではないことに気づき始めたのもあのころだったと、客席を整える彼女を見ながら思った。まさかお客さんと——それも、こんなに年下の人と関係を持つ日が来るとは想像もしていなかった。しかも「身を委ねる側」としてだなんて。彼女の本に紙を挟んだときには、体の芯まで震えるような夜が訪れるとは思いもしなかった。あんなに激しく体を求めてくる人が、あんなにも真っ直ぐに好意を伝えてくれる日が来ることも、やはり予想できなかった。
実里はたくさんの驚きと幸せを陽子に与えた。
陽子はそれを返さなければいけなかった。けれど、それができる自信がなかった。
そうであれば——自分は実里のそばにいるべき人間ではない。彼女から与えられた幸せを返せる人こそが彼女のそばにいるべきだと、陽子は思った。

「掃除、終わりました」
実里は厨房奥の引き戸の先にある裏スペースに、清掃道具をしまいながらいった。
「いつもありがとう」
陽子はいつものように感謝を述べた。
「それで、陽子さん。プレゼントなんですが……」
実里は左手をパンツのサイドポケットに忍ばせた。
それを見て、陽子は実里からプレゼントを受け取っていないことに気づいた。今日はずっと、これまで彼女から与えられたもののことばかり考えていて、すでになにかをもらえた気になっていたのだ。
「今年は慌てずに済んだのね」
陽子は少しいたずらっぽくいった。
「ええ。ちゃんと予約したので」
「予約?」
左手がサイドポケットから出てきた。実里が手を広げると、そこには四角い小さな箱があった。少し丸みを帯びたその箱は光を吸い込むかのような深い紺色の起毛に包まれて、泰然と佇んでいた。
陽子の視界が一瞬、揺らいだ。
実里の右手がそっと蓋に触れると、白いクッションに眠っている指輪が姿を見せた。
細身の指輪の頂点には控えめなダイヤがあった。
ダイヤは紺色の箱が吸収した光がすべてそこにあるかのように輝いていた。
「これ……って」
陽子のつかえそうな喉から無意識に声が出た。
「婚約指輪……の、つもりです」
実里は伏せ目がちにいった。
「私は陽子さんとずっと一緒にいたいので……、陽子さんがいいなら、受け取ってほしいんです」
実里は顔をあげた。それに気づいた陽子も、指輪から実里に視線を移した。
彼女の目はまっすぐに陽子を見つめていた。
陽子は速まる鼓動を静めようとした。でも、できなかった。
「本当にいいの?」
「もちろんです」
「歳が離れているし……」
「知っていて好きになりました」
「……よく考えた方がいいわ」
「よく考えた上で、一緒にいたいと思いました」
陽子は言葉につまった。
実里に後悔させたくなかった。指輪をしまわせなければいけない。そのための言葉を探した。でも、それはすぐに底をついてしまった。
黙ったままの陽子に実里が話しかけた。
「陽子さんが年齢を気にしていること、なんとなくわかっていたんです。だから、今日渡したかった。陽子さんの誕生日を、私とまた一年、一緒にときを重ね始める日にしたくて……。誕生日に罪悪感を覚える必要なんてないんです。だって私は……陽子さんといると、幸せだからです」
陽子は全身の神経が目に集中していく感覚を覚えた。
どうにかして涙がこぼれないように。
しかし陽子の神経は役に立たなかった。
「……本当にいいのね?」
掠れたような声が出た。
「はい」
実里はあくまでまっすぐだった。その声に迷いは見えなかった。
陽子の全身からゆっくりと力が抜けていくのがわかった。
陽子は右手で頬に流れた涙を拭いながら、いった。
「……それなら、いただこうかしら」
実里の表情が変わっていくのが見えた。
目は細くなり、唇の隙間から白い歯が見えた。店内の灯りが、その顔をよりいっそう明るく、愛らしく映しているようだった。
実里の唇が陽子の唇に触れた。
それは、今までのなによりも温かく、柔らかく、優しく、愛おしいものだった。

***

「——ちょっと待って、陽子さん。左手、変なもんついてない?」
「変なもの……? ああ、あなたもつけていらっしゃるものね」
夕食どきの月影堂。常連の男性客からの質問に、陽子は微笑みながら返した。
「俺、渡した覚えないよ……」
「そりゃそーだ。陽子さんみたいな人が、わざわざお前から貰わねーって」
顔馴染みの客がそういうと、カウンター席は笑いに包まれた。
「あーあ。陽子さんを口説きながら飯を食う楽しみがなくなった」
男性客はナポリタンを食べながらいった。
「お前って婚姻関係気にするの? 自分は結婚してんのに?」
「そりゃ相手の男に殺されたかねーもん」
「自分のお嫁さんに殺されるのはいいんですか?」
別の女性客がいうと、カウンター席は再び盛り上がった。
陽子は店の隅をちらと見た。
実里はいつもの二人掛けの席に座っていた。エビフライを食べながら、首からぶら下げた指輪を左手でいじっている。
彼女は指輪を指につけなかった。なんだか恥ずかしいから、といって。ネックレスとなった指輪は、いつも第一ボタンまできっちりとつけているシャツの中に隠れていた。それを今、彼女は表に出して触り続けていた。
その姿を見て陽子はある夜の会話を思い出した。

「実里さんは、いつ私を好きになったの?」
彼女は頬を赤らめながらゆっくりと答えた。
「はっきりとはわかりません。でも、きっと……常連のお客さん、男性の、既婚者の人……。あの人が、陽子さんを誘っているのを聞いたとき、すごく嫌な気持ちになって……。そのときには、もう好きだったんだと思います」
「ふーん。嫉妬してくれたんだ」
陽子が微笑むと、彼女は真っ赤な顔を掛け布団に隠してしまった。

ネックレスになった指輪は、抱き合うときに陽子の体をくすぐった。
「あ……、外した方がいいですね」
ネックレスを外そうとした実里の手を陽子はそっと止めた。
「ううん。外さないで」
彼女の指輪が体に触れると指輪を贈られた日を思い出す。
柔らかくて暖かい実里の体と、硬くて冷たい指輪。そのコントラストが彼女があの日にくれた感情を永遠のものだと感じさせてくれる。

明日も、明後日も、その次も——二人は熱いハーブティ—を口にする。

#創作大賞2025 #恋愛小説部門

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