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『僕って何』の続きを、いまも生きている。

人生を変えた本は何ですか?

そう聞かれたら、僕には一冊、思い浮かぶ本がある。

ただ、困ったことがある。

その本の内容を、僕はほとんど覚えていない。

三田誠広さんの『僕って何』。

覚えているのは物語ではなく、その文章を読んでいた時の心地よさと、国語のテストが終わったあと、図書館へ向かったことだ。

45歳になって、自分の人生を振り返ることが増えた。

何が好きだったんだろう。

何に夢中になってきたんだろう。

どうして今、Podcastをやったり、短歌を詠んだり、noteを書いたりしているんだろう。

そんなことを考えていたら、高校生の頃のことを思い出した。

高校時代、一番良かったことは何だったか。

今なら、たぶんこう答える。

たくさん本を読めたこと。



高校時代のある日。

国語のテストを受けていた。

問題文として載っていたのが、三田誠広さんの『僕って何』だった。

文章を読んでいて、

「なんか、この文章、好きだな」

と思った。

何が良かったのか。

高校生の僕には、うまく説明できなかったと思う。

後になって「文体」という言葉を知った。

たぶん僕は、三田誠広さんの文体が好きだったのだ。

物語の続きが知りたいというより、

この人の文章の中に、もう少しいたい。

そんな感じだった。

文章を読むことそのものが、心地よかった。

そして国語のテストが終わった。

僕は図書館へ行った。



今思うと、ここが少し不思議だ。

当時の僕は男子校に通っていた。

女性と話す機会なんて、ほとんどない。

そんな僕が、なぜか少し勇気を出して、図書館の司書の先生に聞いた。

「三田誠広さんの『僕って何』っていう本、ありますか?」

すぐに棚から出してくれたのか。

検索して探してくれたのか。

そこは、もう覚えていない。

でも、

あの日から、本を読むようになったことは覚えている。

『僕って何』を読んだ。

そして三田誠広さんのほかの本も読みたくなった。

『いちご同盟』も読んだ。

一人の作家を好きになって、その人の作品を追いかける。

僕が初めてそれをやったのも、三田誠広さんだったと思う。

さらに、小説を書くことについて書かれた本まで読んだ。

三田誠広さんが早稲田大学で文学を教えていると知ると、

「早稲田大学に行きたい」

と思った。

単純である。

好きな作家がいる。

その人が早稲田にいる。

だったら早稲田へ行きたい。

高校が高田馬場にあったこともあって、早稲田大学の学園祭にも行った。

今振り返ると、この頃から僕はあまり変わっていない。

何かにハマる。

もっと知りたくなる。

本を読む。

関連するものを探す。

その場所へ行ってみる。

そして、

「じゃあ、自分もやってみたい」

となる。

45歳になった今も、だいたい同じである。

Podcastが面白い。

じゃあ、自分でもやってみよう。

短歌が面白い。

じゃあ、歌人になろう。

イベントが面白そうだ。

じゃあ、出る側になろう。

興味を持ってから動き出すまでの距離が、昔からどうも短い。



『僕って何』から始まった読書は、その後どんどん広がっていった。

山田詠美さん。

村上龍さん。

そして、車谷長吉さん。

中でも車谷長吉さんの世界には、なぜかものすごく惹かれた。

『赤目四十八瀧心中未遂』。

主人公が、ひたすら焼き鳥の串を刺す。

国語辞典を読む。

決して華やかではない生活。

でも僕は、その時間を読んでいるのが、とてつもなく心地よかった。

『贋世捨人』もそうだった。

社会の中心から少し外れた場所で、一人の人間がずっと自分自身のことを考えている。

今になって思う。

僕は、そういう文章が好きだったのかもしれない。

物語の中の人が、自分自身を内省している。

その文章を読みながら、

僕も一人で、自分自身のことを考えている。

その時間が好きだったのだと思う。

『ソフィーの世界』を読んだ時もそうだった。

分厚い本だった。

一章読む。

本を閉じる。

考える。

また読む。

また考える。

僕は本を読むことそのもの以上に、

本を読んだあと、頭の中で何かが始まることが好きだった。

のかもしれない。

本から次の本へ行く。

本から人へ行く。

本から場所へ行く。

そして、

「自分だったらどうする?」

という妄想へ行く。

本を閉じても、読書が終わらない。

むしろ、

本を閉じたところから始まる。

そんな読書を、高校時代に覚えた。



図書館へ通うようになると、小説以外の本も読むようになった。

その中で、とてつもなく影響を受けたのが、斎藤一人さんの『変な人の書いた成功法則』だった。

まずタイトルが好きだった。

「変な人」

というところが、ものすごく良かった。

そして、

「ツイてる」

という言葉。

ツイてると言っていると、ツイてる人生になる。

とても単純だ。

でも、その単純明快さが好きだった。

「ツイてる」と言っていると、不思議とツイている出来事を探すようになる。

同じ一日なのに、見え方が少し変わる。

社会人になってからは「ついてる神社」にまで通った。

僕は熱中すると、どんどんやってしまうタイプである。

休みの日、奥さんとのデートがない日は通った。

そのうち、少し顔を覚えてもらうくらいになった。

斎藤一人さんの話を100回聞くというものも、本当に100回以上聞いた。

今思えば、これも僕らしい。

好きなものに出会うと、一回では終わらない。

何度も読む。

何度も聞く。

自分の中に染み込むまで繰り返す。



社会人になってからも、同じことをやった。

会社に、とにかくしゃべくりが上手い先輩がいた。

その人の講義が面白すぎて、録音した。

そして翌日。

朝から晩まで、ほぼ一日かけて文字起こしした。

今みたいにAIが一瞬で文字起こししてくれる時代ではない。

聞く。

止める。

書く。

戻す。

また聞く。

それを延々と繰り返した。

すると、その人の言葉だけではなく、

間の取り方や、しゃべるリズムまで、自分の身体の中に入ってくるような感覚があった。

その後、僕自身も会社で講師をするようになった。

東京。

仙台。

北海道。

九州。

場所を移動しながら、三時間しゃべる。

次の日には新幹線や飛行機で別の場所へ移動して、また三時間しゃべる。

そんな一週間があった。

たぶん、これまでの人生の中でも、かなり上位に入るくらい楽しかった。

しゃべって生活する。

人の前で話す。

反応が返ってくる。

最高だった。

思えば、高校時代には弁論大会にも出た。

連合大会で賞をいただいたことがある。

自分の言葉を人前で話して、それに何かが返ってくる。

その喜びを、僕は高校生の頃から知っていたのかもしれない。



考えてみると、高校時代の僕はいろんなものになりたかった。

小説家になりたい。

商人になりたい。

ホテル王になりたい。

お坊さんになりたい。

講演家になりたい。

我ながら、だいぶ忙しい高校生である。

結局、そのどれにもなっていない。

……と、少し前までなら書いていたと思う。

でも45歳になって振り返ってみると、

ある意味では、全部なったんじゃないか。

そんな気もしてきた。

かなり乱暴な話をする。

まず、小説家。

もちろん、小説を出版してはいない。

でも、こうしてnoteに文章を書いている。

ありがたいことに、それを読んでくれる人までいる。

高校生の僕に、

「45歳のお前は、自分が書いた文章を世の中に出して、それを読んでくれる人がいるぞ」

と言ったら、たぶんものすごく喜ぶと思う。

しかも最近は短歌まで詠んでいる。

小説家ではない。

でも、

歌人ではある。

自称だけれど。

でも自称した時点で、僕の中ではだいたい達成である。

次、商人。

営業マンをやった。

飛び込み営業もやった。

お客様に商品を買っていただいた。

だったら、もう商人と言っていい。

最近は人の良いところを見つけて、ヨイショすることばかり考えているので、

商いの「商人」ではなく、

笑いの「笑人(しょうにん)」

とでも名乗っておこう。

急に怪しくなってきた。

そして、ホテル王。

これも、もうなった。

仕事で出張しまくり、一年の3分の1近くホテルに泊まっていた時期がある。

ホテル王どころか、

僕はもうホテルである。

意味は分からない。

最後の佐賀出張では、ホテルを出る時、清掃をしてくださる方へ、自分のメモ用紙にお礼を書いて部屋に置いてきた。

そこまでホテルと心を通わせたのだから、ホテル王を名乗ってもいいだろう。

……たぶん良くない。

次、お坊さん。

これは、さすがにまだなっていない。

資格もない。

お経も読めない。

でも、このあと実家の仏壇に手を合わせようと思う。

心の中でお経も唱える。

何のお経なのかは分からない。

ここまで来れば、

心は坊主である。

だいぶ無理が出てきた。

ところが最後の「講演家」は、少しだけ本当に叶った。

会社で講師をする機会をいただいた。

これまでの講義や研修、ワークを全部合わせれば、人前で話した回数は200回を超えていると思う。

高校生の頃にぼんやり憧れていた、

「文章を書いて、人前で話す人」

に、名前は違うけれど、少し近づいていた。

そう考えると、

「夢が叶わなかった」

という言い方も、なんだか違う気がする。

昔なりたかったものは、消えたのではない。

小さく形を変えながら、全部今の僕の中に残っている。



最近、僕は好きなものを全部混ぜ始めている。

本。

Podcast。

短歌。

落語。

AI。

ヨイショ。

そして餃子。

何屋さんなのか、自分でもよく分からない。

だから、

「ざっこく。屋」

でいいんじゃないかと思っている。

雑穀だって、一種類じゃない。

いろんなものが混ざっている。

僕も同じだ。

高校生の僕が今の僕を見たら、

「結局、何になったんだよ」

と言うかもしれない。

45歳の僕なら、こう答える。

たぶん、全部です。



そして、ここまで振り返って気づいた。

僕は本を読むのが好きだったんじゃない。

いや、本を読むのももちろん好きだった。

でも、それ以上に、

本を読んだあと、世界が広がっていくことが好きだった。

一冊読む。

知らない人を知る。

知らない考え方を知る。

知らない場所へ行ってみたくなる。

何かになりたくなる。

自分でもやってみたくなる。

その繰り返しだった。

そして僕は、同じことを繰り返すことそのものが好きなのではなく、

好きなものが、自分の一部になるまで繰り返すのが好きなのかもしれない。

本を読む。

人の話を聞く。

一人で考える。

何度も繰り返す。

そして、いつの間にか自分の言葉で話し始める。

一人で黙々と何かに夢中になる時間が好きだ。

でも、一人で作ったものが誰かに届く瞬間も好きだ。

弁論大会の賞。

講義のアンケート。

落語で返ってきた笑い声。

Podcastに届く感想。

全部、

「ちゃんと届いたよ」

という返事なのかもしれない。

一人で深く潜る。

何かを拾う。

作る。

人前に出す。

反応をもらう。

そして、また一人で考える。

たぶん僕は、ずっとそうやって生きてきた。



『僕って何』の内容は、ほとんど覚えていない。

でも、

その本を読んだ後の人生は、かなり覚えている。

高校生の僕は、国語のテストで、たまたま一つの文章に出会った。

「この文章、なんか好きだな」

と思った。

テストが終わって、

少し勇気を出して図書館の先生に声をかけた。

ただ、続きを読みたかった。

あの時は、その小さな行動が、その後の人生につながるなんて思っていなかった。

人生が変わる瞬間って、

ものすごい決断をした時だけじゃないのかもしれない。

「ちょっと気になる」

「もう少し知りたい」

そんな小さな気持ちのあとに、一歩動いた時、

知らないうちに、次の人生が始まっている。

高校生の僕が図書館で手に取ったのは、一冊の本だった。

45歳の僕がいまつくっているのは、

Podcastであり、

短歌であり、

このnoteだ。

形は変わった。

でも、

たぶん同じことをしている。

面白そうなものを見つける。

近づいてみる。

夢中になる。

自分の中に入れてみる。

そして今度は、自分なりの形で外へ出してみる。

だから、もしかすると僕は今も、

『僕って何』の続きを生きている。

そして今のところ、

その続きは、かなり面白い。

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