鏡の揺らぎの共犯者 08|第七章 「ことば」との共犯

第七章 「ことば」との共犯
鏡の前に立つ、誰かの朝を
想像したことがあるだろうか。
私が初めてそれを考えたのは、
パソコン画面の前だった。
630万円を超えた夜。
ひとり眺めていた。
うれしかった。
安心した。
でも——手が止まった。
もっと、見たい。
怖さではなかった。
静かな、欲だった。
ことばが、ブランドになる。
そんなことが起きるとは、
まだ思っていなかった。
あるミーティングの日のことだった。
みんなのらしさを、言葉にしてみよう。
そう提案して、ホワイトボードの前に集まった。
お互いの印象を、声に出して、書いていく。
自分では気づいていない自分を
誰かの言葉で知る。
そういう時間だった。
スタッフたちが、少しはずかしそうに、
でも真剣に言葉を選んでいた。
私の番になった。
一人ひとりが、何かを言う。
私はただ、聞いていた。
やがて、ボードにいくつかの言葉が並んだ。
その中に、こう書いてあった。
ことばを大切にする人。
しばらく、黙っていた。
うれしかった。でも、それより先に——
伝わっていたんだと、思った。
意識して見せてきたわけではなかった。
妻の「これ、すごいね」から始まって。
スタッフの本音を消さないようにして。
お客様の朝を想像するようになって。
その積み重ねが、いつの間にか
私という人間の輪郭になっていた。
それぞれのらしさが
「ことば」にできた、ミーティングになった。
次のミーティングがあった。
私はスタッフにこう言った。
「自分のお客様のことを、
少しだけ想像してみてください。
その人の朝は、どんな朝ですか」
場が、静かになった。
一人のスタッフが、
少し首をかしげて、手元の紙を見た。
彼女は、入って間もないころから
丁寧な人だった。
大きな声で場を引っ張るタイプではない。
でも、お客様の言葉を
最後まで聞ききる人だった。
お客様の話を聞くときも、
返事をするときも、
道具を片づけるときも、
ひとつひとつが静かだった。
でも、こういう問いには
まだ慣れていなかった。
何を書けばいいのか。
どう言葉にすればいいのか。
戸惑っているのが、
こちらにも伝わってきた。
私は、急かさなかった。
「たとえば、小さい子がいるお客様。
朝、どんな気持ちで鏡を見てると思う?」
しばらくして、
彼女がぽつりと言った。
「時間、ないですよね。
子どもの支度もあるし」
そうだね、と私は言った。
彼女は、少し遠くを見るような目をした。
彼女にも、そういう朝があるのかもしれない、
そう思った。
それから、ゆっくりと書き始めた。
子どもの水筒。
途中まで食べた朝ごはん。
片方だけ見つからない靴下。
洗面台の前に立つころには、
もう一日の半分を使ってしまったような朝。
「その人にとって、
うちの商品は何ができると思う?」
また、少し間があった。
「夜にトリートメントして、
朝のクセを少なくできたら……
少し、楽になるかもしれない」
その言葉を聞いたとき、私は思った。
——見えてきた。
商品の説明ではなかった。
その人の朝を想像していた。
それから何日か経って
彼女はミーティングにこう持ってきた。
「朝の5分で、を
このお客様のコンセプトにしようと思って」
朝の5分で。
その言葉の中に、
子育てをしながら鏡の前に立つ女性の、
あの慌ただしい朝が入っていた。
完璧じゃなくていい。
きれいに整っていなくてもいい。
ただ、5分あれば、少し楽になれる。
少し、自分に戻れる。
私は、いいと思った。
朝の5分で。
それは、みんなのコンセプトになった。
そしてある日、
ミーティングの中で彼女が言った。
「朝5、でいいですか」
朝5。
二文字だった。
誰かが決めたわけではなかった。
会議で採決を取ったわけでもなかった。
ただ、気づいたら、
他のスタッフも
「朝5」と言うようになっていた。
言いやすかったのだと思う。
でも、それだけじゃなかった。
その言葉の中に、
自分たちが見てきたお客様の朝が
入っていたから、
自然と口をついて出たのだと思う。
借りてきた言葉は、
広がらない。
自分たちが見たものから生まれた言葉は、
説明しなくても、伝わる。
ブランドとは、
そういうものなのかもしれなかった。
POPも、変わった。
彼女のPOPには、
「朝5」という言葉が入っていた。
手書き風がなんともいえない
あたたかさがあった。
それがよかった。
POPの中に、彼女の体温があった。
「朝の時間って、なくないですか?
起きて5分でできることを、見やすくしたんです」
その一言が、どんな成分説明よりも
お客様の心をほどくことがある。
チラシも、変えた。
キャンペーンの内容より先に、
イメージを届けたかった。
ディーラーさんが、
首をかしげながら言った。
「キャンペーン内容が書いていない
チラシ、初めて見ました」
私は少し笑った。
たしかに、ふつうではなかった。
でも、値段より先に、
イメージが伝わるものがある。
全部は分からなくても、
なんだか行ってみたいと思う場所がある。
そういうチラシが、
うちの店には合っていた。
八月から、予約を始めた。
イベントは、十一月だった。
それでも、夏の終わりから、
少しずつ連絡が入ってきた。
「楽しみにしてます」
「また来ますね」
その言葉を聞くたびに、
胸の奥が、少しあたたかくなった。
十一月のイベントが終わった夜、
外はもう、冬の匂いがしていた。
鏡の中に、
少し疲れた自分が映った。
でも、その顔は、
どこかうれしそうでもあった。
その年の終わり、
720万円という数字が、
そこにあった。
派手な変化があったわけではない。
ただ、一人のスタッフが、
お客様の朝を想像するようになった。
ただ、その想像から生まれた言葉が、
店に広がっていった。
その連鎖が、
720万円という数字の奥にあった。
ある日、別のスタッフが、
予約表を見ながらぽつりと言った。
「このお客様も、朝5かもしれないですね」
そのたびに私は思った。
想いが伝わっていると。
言葉が、店の中で息をしている。
私たちは、ブランドを作ったのではない。
ブランドに、育ててもらっていたのかもしれない。
〔共犯メモ〕ブランドを、育てるために
・相手の「朝」を想像する
願いの奥には、たいてい小さな不安がある
想像したとき、本当に届けたいものが見えてくる。
・ 自分たちの言葉は、広がる
自分たちが見た景色から生まれた言葉は、
説明しなくても、少しずつ口にできる。
・ブランドは、育ててもらうもの
ブランドは、作って終わりではない。
スタッフの言葉になり、お客様の表情になり、
店の一日になったとき、初めて息をしはじめる。
