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鏡の揺らぎの共犯者 06|第五章 メッセージとの共犯

鏡の表と裏の回 ──三年前

第五章 メッセージとの共犯



数字は、 追いかけるのをやめたとき、
ふしぎと、近づいてくる。



年末の店販が、300万円に届いた。

私はその事実を、しばらくのあいだ、
両手で包むようにして感じていた。

間違っていなかった。
そう、思えた。

でも、おかしなことに、
どこか満足していなかった。

うれしかった。
手応えもあった。
スタッフの笑顔が、戻ってきた。

なのに——
胸の奥に、
小さな揺らぎがある。

ことばに、ならなかった。

ただ、夜、店を閉めて、
鏡を拭きながら、
ふっと、息を止める瞬間があった。

何かが、まだ足りない。
それだけが、分かっていた。

  * * *

ある夜、閉店後の静かな店で、
私はふと気づいた。
一人ひとりは、輝いている。

でも、その光が、
まだ少しずつ、
違う方向を向いている。

あるスタッフは、
仕上がりの美しさを、伝えていた。

あるスタッフは、
使い心地のよさを、話していた。

あるスタッフは、
自分自身の体験を、ことばにしていた。

どれも、間違いではなかった。
どれも、その人らしい、
温かい言葉だった。

私たちは、お客様に、
何を届けたいのか。

その問いに、
まだ、ことばがなかった。

  * * *

その夏。
私は、静岡のつま恋に向かった。

人生で、初めてのフェスだった。

家族と、一緒だった。
車の中では、子どもがはしゃいでいた。

窓の外の景色が、
少しずつ緑色に変わっていった。

仕事のことを忘れに行く。
そう、自分に言い聞かせていた。

でも、たぶん、
忘れに行ったのではなかった。

何かを、
受け取りに行っていた。

  * * *

会場に着いた瞬間のことを、
いまでも覚えている。

最初に感じたのは、においだった。

風のにおいも。
晴れの匂いも。
土と、草と、
遠くからの、
焼きそばのソースの匂いも。

夏の午後の光が、
強くて、まぶしかった。

私は、家族と一緒に、
後ろの方の芝生に座った。

ステージは、遠かった。
でも、それでよかった。

近くで見るより、
全体が、見渡せた。

寝転んでいる人がいた。
ビールを飲んでいる人がいた。

小さな子どもの手を引いて、
歩いている人がいた。

みんな、違うことをしていた。

でも、その場所には、
ひとつの空気が流れていた。

  * * *

会場のあちこちに、メッセージが
そして、ことばがあった。

モニターに、流れていた。
露店の小さな看板にも、
書かれていた。

でも、不思議と重くなかった。
未来のこと。
地球のこと。

大切な思いの中に
大切な事を伝える
この暖かい、やさしいフェスが
好きなんです。
そんな話をしている人もいた。

言葉や思いは
ともすれば、人を押しつぶす。

正しさは、強すぎると、
人の心を、遠ざける。

でも、つま恋の言葉は、
そうではなかった。

アーティストは、歌で届けた。
露店の人は、商品の並べ方で届けた。
スタッフは、笑顔で届けた。


そこには必ず、メッセージがあった。



ふと、耳に届いた言葉があった。

そして——想いは、誰かを通して、繋がっていく。

歌の中の、ほんの一節だったと思う。

 * * * 

問いかけでも、答えでも、なかった。
ただ、空気のように、そこにあった。

なのに、胸の奥に、するりと入ってきた。
届け方は、全員違った。
向いている方向は、同じだった。

その景色を見ながら、
私は、店のスタッフたちのことを思っていた。

みんな、違っていた。
それでも、ひとつの空気が、流れていた。

  * * *

夕暮れが、会場を
ゆっくりと橙色に染めていた。
風が、草を揺らしていた。

足元の土が、
じんわりと温かかった。

家族は、少し離れたところで
何かを食べていた。

子どもの笑い声が、聞こえてきた。
そういう景色の中に、
私は座っていた。

そのとき、ステージから、
ある一曲が流れてきた。

縦のものと、横のものが、
織り重なっていく、
そんな歌だった。

ばらばらに存在していたものが、
重なることで、
初めて、ひとつになる。

スタッフの顔が、浮かんだ。
お客様の言葉が、浮かんだ。
鏡の前で、少し表情が変わる、
あの瞬間が、浮かんだ。


——これだ。


声に出したわけではなかった。
でも、たしかに、そう感じた。

目の奥が、
少しだけ熱くなった。

それを家族に悟られないように、
空を見た。
橙色から、
紫に変わっていく途中の空だった。

ことばは、
押しつけるものではない。

歌のように、
届けるものなのかもしれない。

  * * *

帰り道、音楽は、
しばらくかけなかった。

さっきの一曲が、
まだ頭の中に残っていた。
それを、消したくなかった。

子どもは、後ろの席で、
すぐに眠ってしまった。

家族の寝息だけが、
車の中に流れていた。

うちのサロンが、
本当に届けたいものは、何か。

ハンドルを握りながら、
ずっと、それを考えていた。



スタッフが以前、何気なく
口にしていた言葉が、
静かに浮かんできた。

ある日の閉店後だった。

タオルを畳みながら、
そのスタッフが、言った。


「うまく言えないんですけど。みんなで、同じ方を 
向けたらいいなって。それだけなんですけど。」



その時は、そうだね、と
だけ答えた。

でも、その言葉は、
ずっと残っていた。

鏡の前で、
自分の髪を見て
あ、なんか変わった、と
思える、あの数秒。

その数秒の中に、
何かがある。

その「何か」を、
私たちは、届けたいのだ。

でも、それが何なのか、
まだ、うまく
ことばにならなかった。

その「何か」が、
ことばになるのは、
もう少し先のことだった。

  * * *

家に着いたのは、
深夜近くだった。

子どもを抱いて、
家の中に運んだ。

寝室の襖を、そっと閉めた。

ノートを開こうとして、やめた。
書こうとすると、
するりと逃げていく。

そういう種類の、
何かだった。



〔共犯メモ〕 全体のらしさを灯すために

・まずは、聞いてみる。
「うちが、いちばん大切にしていることは?」
答えがそろわない日が、はじまりの日。

・そろえるのは、やり方ではなく、向き。
伝え方は、人の数だけあっていい。
ただ、その全部が、同じ方を向いているか。
そこだけを、確かめる。

・ことばになるのを、急がない。
いま言葉にならない「何か」を、
ノートの隅に、一行だけ書いておく。



第六章 絲との共犯

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