鏡の揺らぎの共犯者 02|第一章 大切な人との共犯

第一章 大切な人との共犯
景色を変えるのは、戦略ではなく
誰かの一言かもしれない。
二〇二〇年、十二月。
店販キャンペーンが、終わった。
ポップや棚を片付けながら、
私はまた、同じ数字を見ていた。
30万円。
今年も、目標には届かなかった。
やる気がなかったわけではない。
スタッフが、手を抜いていたわけでもない。
でも、届かなかった。
お客様は優しい。
嫌な顔をする人は、ほとんどいない。
「また、考えておきますね」
そう言って、笑ってくれる。
けれど、何かが違うことも、分かっていた。
二〇二一年の春。あるシャンプーと出会った。
ディーラーさんがやってきた。
パンフレットの一冊を、指で軽く前に押し出す。
「これ、今いちばん動いてるんです」
受け取って、ざっと目を通す。
他にも、いくつか紹介があった。
——そのパンフレットは、カウンターの
端に置いたまま、午後が過ぎた。
⸻
この日、最後のお客様を見送った。
扉が、ゆっくりと閉まる。
ガラスの向こうで、街の灯りがひとつ、
またひとつと増えていく。
閉店後のサロンに、夜が静かに満ちてきた。
ハサミをケースにしまう音。
椅子を定位置に戻す、小さな摩擦音。
誰かが、水を飲む。
近くにいたスタッフに何気なく聞いてみた。
「これ、知ってる?」
少し顔を上げて言った。
「これ前のサロンで使ってて、好きだったんです」
——好きだったんです。
その言葉のなかに、小さな体温があった。
⸻
最後の終礼がおわる。
おつかれさまの声がホッとする。
みんな、帰り支度を始めようとしていた。
私はパンフレットを手に持ったまま、
鏡の前に立っていたスタッフに声をかけた。
「ちょっと、聞いていい」
彼女は手を止めて、こちらを見た。
「今のシャンプー、どう思う?」
彼女は少し考えてから、
鏡越しに自分の髪を見た。
「……今のシャンプーも、いいと思うんですよ。
すごく優しいし」
でも、と続けた。
「優しいものを使うと、
毛先が、ちょっとまとまらなくて。
まとまりを出そうとすると、
今度は頭皮が気になってきて」
言いながら、毛先を指でそっとつまんだ。
確かめるように。
それから、少し苦笑いをした。
「なんか……どっちかを、諦めてる感じがして」
その言葉は、小さかった。
私は、うなずく事しか出来なかった。
しばらくして、彼女がパンフレットに目を落とした。
「……でも、これって、
手触りも毛先のまとまりもすごいのに、
頭皮にも優しいんですよね」
その目が、ふと柔らかくなった。
⸻
もうひとりに声をかけたのは、
そのあと、すぐのことだった。
彼女はロッカーの前で、
バッグの中を整えていた。
「このシャンプー、知ってる?」
振り返って、パンフレットを見た瞬間、
少し顔が変わった。
「あ—これ、知ってます」
そう言って、また手元に目を戻した。
「使ったことはないんですけど、
ずーっと気になってる商品なんです」
ずーっと。
その、伸びた言葉が耳に残った。
使ったことがない。
でも、ずっと気になっていた。
私はパンフレットを、
そっと折りたたんだ。
何かが、静かに動いた気がした。
講習を受ける前に、
スタッフ全員に、シャンプーを一本ずつ渡した。
みんな、きょとんとしていた。
ひとりだけ、受け取ったボトルを、
しばらく眺めていた。
商品の説明も、
成分も使い方も、
まだ何も言わないようにした。
ただ、二週間、使ってもらった。
⸻
スタッフルームの扉が開いた。
二週間が過ぎても、まだ半分も減っていないと、
自分の髪に触れながら、あの子は言った。
「確かに、わるくないですね。」
近くにあったパンフレットを見る。
「これ、もし導入するなら、
自分が使ってるって、言えますね。」
笑っていた。
まだ、何も説明していなかった。
朝のサロンに、椅子を引く音が、
いくつか重なる。
スタッフが、いつもの輪になる。
そして、パンフレットをみんなに配る。
スタッフが言った。
「香りが、ちょっと苦手かも」
短い沈黙があった。
私が、息を呑んだのかもしれない。
すると、他の声も出てきた。
「手触りは、いいと思いました」
「乾かしたあとが、違う気がします」
「私は、香り、好きです」
私は、その言葉を消さなかった。
その日は、結論が出なかった。
テーブルには、香りのサンプルだけが残った。
最後に、スタッフの一人が言った。
「どうするかは、任せます」
私は、それを、ただ受け取った。
⸻
このシャンプーと、どう向き合うか。
本心では、まだ、迷っていた。
うまくいくかもしれない。
そして同時に、あの景色が浮かんだ。
棚に残ったまま、誰にも選ばれない商品たち。
数字だけが、去年と同じ顔をする気がした。
パンフレットを、もう一度開いた。
そのころ私は、シャンプーを妻にも渡していた。
妻は、美容師ではない。
「せっかくだから、使ってみて」
——それだけの気持ちだった。
何日か経った夜のことだ。
子どもとソファに並んで、テレビを見ていた。
二十時を、少し過ぎたころ。
妻がお風呂を出たとき、廊下ですれ違った。
湯気が、まだ少し、残っていた。
ふと、香りがした。
いつもと、少し違う。
声は、かけなかった。
ただ、テレビに目を戻した。
それから少しして、ドライヤーの音が止まった。
リビングに戻ってきた妻が、
自分の髪に、そっと手を触れた。
誰かに見せるわけでもなく。
ただ、何気なく。ぽつりと言った。
「これ、すごいね」
すぐには、返事ができなかった。
テレビの音が、遠くなった。
その瞬間、胸の奥で、何かがほどけた。
声ではなかった。
けれど、たしかに、聞こえた気がした。
—これかもしれない。
—この人が言うなら、信じていい。
大げさに褒めたわけでもない。
何かが、ふっと、落ちたような言葉だった。
そして、取り扱うことに、決めた。
それから、私は、こう話すようになった。
「美容師じゃない、うちの妻が、
これすごいねって言ったんです」
それだけで、空気が変わった。
お客様が、少し前のめりになる。
「奥さんが?」
そう言って、笑う。
言葉は、上手でなくてよかった。
あの夜、妻がこぼした一言は、
私にとって、最初の共犯だった。
30万円という数字の向こう側に、
初めて、小さな光が、見えた気がした。
〔共犯メモ〕 自分の言葉を取り戻すために
・売り方を、先に教えなかった。
先に教えると、言葉が借り物になる。
・生活の中で、先に使ってもらった。
売り場より先に、日常の中で使ってみる。
本音は、生活の中から、見えてくる。
・否定的な声を、最初に消さなかった。
苦手、まとまらない、諦めてる。
そういう声の奥にこそ、本当の手応えが眠っている。
