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唯一無二の野球道 金森潤熙

唯一無二の野球道 One and Only Baseball


はじめに、NPB&MLBで唯一無二の野球道を歩んだ偉大な選手の言葉を贈ります。

唯一無二の野球道
ICHIRO 鈴木一郎

人は必ず障害に出会う
誰もが負けそうになる
そこで頑張れる人間になりたい
前向きな姿勢で夢を持って
歩んでいきたい
イチロー


鈴木一朗から
元マリナーズスカウト
ジム・コルボーンへ送られた
額縁写真
左:金森潤熙
右:ジム・コルボーン
Wikkipedia

「ICHIROのMLBでの活躍が『俺もアメリカで出来る』と思わせた」
ジム・コルボーン

MLBで生きて行く決意
イチロー

「僕がMLBで活躍が出来たからと言って通用するような甘い世界じゃない」
ICHIRO

RESPECT 51
貫けた事は野球のことを
愛したことだと思います

Q:これまでの生き様でファンに伝わっていたら嬉しいことは?

生き様というのは僕にはよく分からないですけど。生き方という風に考えれば、先ほどもお話ししましたけど、人より頑張るなんて事はとてもできないんですよね。あくまでも秤(はかり)は自分の中にある。それで自分なりに、その秤を使いながら、自分の限界を見ながら、ちょっと超えていく。ということを繰り返していく。

そうするといつの日かこんな自分になっているんだっていう状態になって。だから少しずつの積み重ねが、それでしか自分を超えていけないと思っているんですよね。一気に高みにいこうとすると、今の自分の状態とギャップがありすぎて、それを続けられないと僕は考えているので。

地道に進むしかない。進むだけではないですね、後退もしながら。ある時は後退しかしない時期もあると思うので。でも自分がやると決めたことを信じてやっていく。でも、それは正解とは限らないですよね。間違ったことを続けてしまっていることもあるんですけれども。でもそうやって遠回りをすることでしか、本当の自分に出会えないというか。

そんな気がしているので、そうやって自分なりに重ねてきたことと、今日のゲーム後のファンの方の気持ちですよね、それを見た時に、ひょっとしたらそんなところを見ていただいていたのかなという風に、それはうれしかったです。そうだとしたらうれしいですし、そうじゃなくてもうれしいです。あれは。

ニューヨークに行った後くらいからですかね、人に喜んでもらえることが一番の喜びに変わってきたんですね。

この点でファンの方々なくしてでは、自分のエネルギーは全く生まれないと言ってもいいと思うんです。

今まで残してきた記録はいずれ誰かが抜いていくと思うんですけれど、去年の5月からシーズン最後の日まで、あの日々はひょっとしたら誰にもできないことかもしれない、ささやかな誇りを生んだ日々だったですね。そのことが去年の話で、近いということもあるんですけれども、どの記録よりも、自分の中ではほんの少しだけ誇りを持てたことかなという風に思います。

今日の球場でのあの出来事…、あんなものを見せられたら、後悔などあろうはずがありません。もちろんもっとできたことはあると思いますけど、結果を残すために自分なりに重ねてきたこと、人よりも頑張ったということは言えないですけれども、そんなことは全くないですけれども、自分なりに頑張ってきたということはハッキリ言えるので。これを重ねてきて、重ねることでしか後悔を生まないということはできないのではないのかなと思います。

抱いた夢が叶おうが、叶わず終わろうが、大きな夢を持って前向きに歩み生きていく事の大切さを野球人の人生の生き方として教えてくれたと思う。

MLB最終打席

東京ドームに大きく鳴り響くICHIROコールが全てを語っていた。

ICHIRO ファイナル MLBゲーム
YouTube

全ての野球人には必ず終わりが訪れる

どのように死にたいのかで
生き方も変わってくる

今日のこの、あの舞台に立てたということは、去年の5月以降ゲームに出られない状況になって、その後もチームと練習を続けてきたわけですけれど、それを最後まで成し遂げられなければ、今日のこの日はなかったと思うんですよね。

今まで残してきた記録はいずれ誰かが抜いていくと思うんですけれど、去年の5月からシーズン最後の日まで、あの日々はひょっとしたら誰にもできないことかもしれない、ささやかな誇りを生んだ日々だったですね。そのことが去年の話で、近いということもあるんですけれども、どの記録よりも、自分の中ではほんの少しだけ誇りを持てたことかなという風に思います。

貫けた事は野球のことを愛したことだと思います。これは変わることはなかった。

ICHIRO  SUZUKI

🟦日本人メジャーリーガー
🟡マーシー村上 1964年 サンフランシスコ・ジャイアンツ

左:金森潤熙
右:マーシー村上

🟡マック鈴木 1996年 シアトル・マリナーズ
(1992年サリナス・スパーズ球団職員 練習生)

右:マック鈴木
左:金森潤熙

🟡野茂英雄 1995年 ロサンゼルス・ドジャース
🟡伊良部秀輝 1997年 ニューヨーク・ヤンキース
🟡長谷川滋利 1997年 アナハイム・エンジェルス

長谷川滋利
金森潤熙

🟡金森潤熙 1997年 シアトル・マリナーズ (マイナー契約)
唯一無二の野球道 著者
🟡2000年 シアトル・マリナーズ 佐々木主浩

ICHIRO 入団会見

🟡2001年 鈴木一朗 シアトル・マリナーズ
🟡2018年 大谷翔平  ロサンゼルス・エンジェルス

2001年 ICHIROがMLBの扉を開いてから、「17年」。
NPBで二刀流「唯一無二の野球道」を歩んだ選手がMLB二刀流の扉を開いた。

唯一無二の野球道 
大谷翔平

大谷翔平 入団会見

「MLBで二刀流が通用しなければ野球を辞めたらいいだけです」大谷翔平、
MLB の二刀流を批判する記者に言い放った自覚と覚悟の言葉だった。


この道を行けば どうなるものか 危ぶむなかれ 危武めば道はなし 踏み出せば その一足が道となり その一足が道となる 迷わずいけよ 行けばわかるさ」

清沢哲夫が書いたこの詩は、アントニオ猪木の引退試合で使われて有名になる。哲夫は、暁烏の言葉で迷いを断ち切られて実家の寺を出る決意を固めたのだが、当時の心境を、ゲーテ『ファウスト』の中の「母達の場」における メフィストファレスとファウストの「歩いたもののない、歩かれぬ道」をめぐる対話をひいて、虚無の只中に前進するしかない世界の展開、自己発見として語る。

昭和26年に発表された「此の道を行けば/どうなるのかと/危ぶむなかれ」に始まる清沢の詩「道」は、後年「一休の言葉」と誤解したとみられるアントニオ猪木らによって、文言は多少違っているものが広く流布されている。2022年にNHKで放送された「燃える闘魂 ラストスタンド完全版」では、番組末尾のテロップで『「道」作詞 清沢哲夫』と表示された。

🟥大谷翔平、二刀流の軌跡
「不可能の反対は可能ではない、挑戦なのだ」

⚫️2017年オフシーズン
ポスティングシステムでロサンゼルス・エンジェルスに移籍。

🔴2018年 MLBデビュー
投打に活躍、日本人史上四人目の新人王を受賞。
打率 285 本塁打 22 打点 61

MLB二刀流
現代MLBのレベルの高さと
シーズンの過酷さから
二刀流が失敗するとの声が一般的だった

MLBでの唯一無二の野球道を順調に歩み始めたと思われたのだが、大谷翔平の右肘は悲鳴を上げた。

アストローズ戦で右肘の負傷

オフシーズンに右肘の手術を余儀なくされる事になった。

🔴2019年 2年目 右肘リハビリ
打率 286 本塁打 18 打点 62
オフシーズン 左膝の手術

痛みを伴っていた左膝を手術

🔴2020年
コロナパンデミック ショートシーズン
打率 190 本塁打数 7 打点 24
1敗 防御率 37.80

🔴2021年
打率 257 本塁打数 46 打点100
9勝2敗 防御率 3.18
シーズンMVP獲得

二刀流の復活

「大谷翔平のように打ちたいんだ」
アーロン・ジャッジ

金森運動原理E=C
ゴルフ&ベースボール理論

3eyesバッテイング理論によるスイング解析
🟥BarrelLine
🟨Power Line 
🟩3eyes Line
🟢Launch Angle
🟦Down Swing Line
🟡Up Swing Line

3eyes理論による分析
3eyes理論による分析
2022年
アメリカンリーグ
シーズン最多HR記録を更新

「この宇宙で大谷翔平がNo1の野球選手だ」
ユニコーン、宇宙人など、二刀流でMVPを獲得した大谷翔平を称賛する声は止まなかった。

ジャッキー・ロビンソン

「人間の人生というものは、他の人の人生に少しでも意味を与えたとき、初めて本当の意味を持つ。他人の人生に良い影響を与えられないのであれば人生なんて大した意味はない」

ジャッキー・ロビンソン


初の黒人メジャーリーガーとして「唯一無二の野球道」を歩む。彼の功績により白人リーグのMLBで有色人種のプレーが可能となった。

🔴2022年
打率 273 本塁打 34 打点 95
15勝9敗  防御率2.33

🔴2023年
WBC 優勝 MVP獲得
打率 304 本塁打数 44 打点 95
10勝5敗 防御率 3.14
HRタイトル獲得
シーズン 2回目のMVP獲得

⚫️FA行使

🟦2023年12月 オフシーズン
ロサンゼルス・ドジャースと
北米プロスポーツ史上最高額の10年7億ドルの契約を結ぶ

入団記者会見

🔵2023年 結婚&愛犬デコピンと共に
ドジャースでのシーズンをスタートさせた。

家族、仲間、球団、スポンサー、ファンに支えられ、シーズン折り返し時点で素晴らしい成績を残している。

81試合時点

打率.320 24本塁打 60打点 16盗塁 40四球
出塁率.398 長打率.634 OPS1.032

単純計算で48本塁打、120打点、32盗塁ペース
LAD 50勝31敗 地区首位

デコピン
ニューバランス
始球式
金森運動原理E=C
3eyesバッテング理論
🟢3eyes Line
🟨Power Line 🟥Barrel Line 🟩LaunchAngle

「優先順位は、いちばん上。勝つことが今の僕にとっていちばん大事なことだと思うし、優勝に欠かせなかったと言われる存在になれるよう全力で頑張りたい」

大谷翔平

唯一無二の野球道 野茂英雄

1995年 野茂英雄はメジャーリーグで日本人選手の地位を築き上げる。

「ワシらの時代は大リーグを論外の世界やと思ってたんやぁ。野茂が遥か彼方、太平洋の向こう側の大陸を大阪の尻無川の岸辺に変えたんやでぇ」
金村義明

日本人MLBの歴史は、マーシー村上、マック鈴木の2名がメジャーとマイナーで活躍をしていた記録があったのだが、まだ当時の日本に大きなMLBのムーブメントは生まれていなかった。

思い起こせば1995年、選手のストライキによってアメリカ野球界が大きく荒れていた。この年に野茂英雄はマイナー契約を結ぶ事になる。この出来事によって1996年、MLBムーブメントの無かった日本に大きなムーブメントが巻き起こった。

このキッカケを作ったのは、MLBでは無名のルーキー投手の野茂英雄だった。

ロサンゼルス・ドジャース
トルネード 野茂英雄

ストライキによってMLBの人気は低迷、アメリカ国技のベースボールをストライキで失ったファンの落胆は大きかった。そんなMLBファンの胸に"野茂英雄" トルネード旋風が再び火を付けた。変則の投球フォームから投げ込まれる奪三振ショーにアメリカと日本の野球ファンが大いに沸いたのだ。

東洋から来た無名の日本人ルーキー投手がストライキを先導した強打者達を三振に仕留める光景にファンの不満は解消されて行った。

選手会への怒りを秘めていたアメリカ国民のストレスは、野茂英雄の背中を強く押し続けた。オールスター出場、「無名のルーキーの球に当たりもしないじゃないか」野茂の奪三振ショーは、まさしく痛快ショーそのものであった。

「野茂にMLBは救われた」
MLBの誰もが口にした言葉となった。

時の利を得た野茂英雄の活躍と話題によって、MLBが日本国民に身近な娯楽へと変わって行った。この巻き上がった野茂英雄トルネード旋風は、次々と日本人選手をMLBに送り込む事になる。MLBは、NHK BS放送により一般的なテレビ娯楽へと認められるようになった。

「ヒデオは日本人にとってのジャッキー・ロビンソンだ」
トミー・ラソーダ

スカイブルー 夢のボールパーク

Take me out to the ball game,
Take me out with the crowd;
Buy me some peanuts and Cracker Jack,

I don't care if I never get back.
Let me root, root, root for the home team,
If they don't win, it's a shame.
For it's one, two, three strikes, you're out,
At the old ball game.


私を野球に連れてって
観客席へ連れてって
ピーナッツとクラッカージャックも買ってね
家に帰れなくったってかまわない
さあ地元のチームを応援しましょう
勝てないなんて許せない
ワン、ツー、スリーストライクでアウト
昔なじみの試合スタイルで


1995年5月2日

ドジャースタジアム球場に聞きなれないアナウンスが流れた。「野茂英雄」この時、MLBに新たな歴史が刻まれるとは誰も思わなかった。

1994年8月12日、MLB選手会と球団のサラリーキャップ労使交渉が決裂。このストライキの期間は、232日間にも及びワールドシリーズも中止となった。

アメリカ国技でもあるベースボールのストライキは、アメリカ国民の気持ちの行き場を失わさせた。

そんな行き場を失ったアメリカ国民のベースボールへの熱を再び沸騰させたのが、「野茂英雄」無名のルーキー投手だった。

その投手は、日本プロ球界から冷遇をされながらも夢のボールパークのマウンドを目指した。そして海を渡った無名の投手は、ドジャー スタジアムのマウンドに立ち両手を高く上げた。

背番号が見えるまで体を大きく捻るダイナミックなフォームから放たれたボールは唸りを上げて打者を襲う。火を噴くストレートと目線から消えるフォークボールで次々と三振を奪っていく。ドジャー スタジアムは、割れんばかりの歓声に包まれた。

人々は、TORNADO…日本からトルネードがやって来たと騒めいた。

この球場のざわめきと歓声が大きなウネリと成りトルネードの歓声は海を越え日本にまで届いた。

TORNARDOと呼ばれたMLBで無名の投手の名は、日本プロ野球界のエース。

 "HIDEO NOMO"

野茂英雄
HIDE〜O
野茂英雄のテーマ曲 (日本語歌詞)

『ヒ・デ〜オ
ヒ・デ〜〜〜オ

Nomoが投げれば大丈夫

ワン・アウト、
ツー・アウト、
スリー・アウト、チェンジ!

Nomoが投げれば大丈夫

直球、フォークで三振、アウト!

Nomoが投げれば大丈夫

(ヘイ、ミスター監督さん)心配いらない

Nomoが投げれば大丈夫

(ヘイ、ミスター監督さん)まかせときなよ!

Nomoが投げれば大丈夫

ヒ・デ〜オ
ヒ・デ〜〜〜オ

Nomoが投げれば優勝だ』

トルネード旋風は、歌となり日本列島にMLB ロサンゼルス・ドジャース ブームを巻き起こした。人々は、野茂のテーマ曲を口ずさみLAドジャースのキャップとTシャツを手に取った。

1997年、この野茂フィーバーから二年後、日本球界から無名の野手がMLB野手の扉を開いた。私、唯一無二の野球道 著者の金森潤熙がシアトル・マリナーズと契約をしたのだ。私のマイナーシーズンの活躍もありこの翌年には、マリナーズが韓国球界から秋選手(移籍テキサスレンジャーズ)と契約をする。また、オリックスブルーウェーブの複数名選手とICHIRO がアリゾナキャンプに参加をした。

そして2001年、満を期してポスティングによってICHIROがシアトル・マリナーズと契約をする事になるのだ。私の活躍はシアトル・マリナーズICHIRO誕生へ、少しながら貢献した。そんな私は生まれながら大きなハンディキャップを背負った野球人生だった。

小学六年生の時にエースで4番、硬式少年野球全国大会で優勝をした。「パスポートを準備するように」この時、アメリカ選抜の日本代表に選ばれるはずだった。しかし、私はパスポートを得ることが出来ずにアメリカの道が途絶えた。この時の挫折が、私の野球人生と人生を狂わせていった。私は中学生となり、荒れた生活を送りながらも名門野球部のある高校に入学をする事になった。高校一年の時、私に外国人登録証明書が手渡された。私は、自分の生まれを分かっていた。しかし、心に重石が落ち心が潰れて行った。

前年度、夏の甲子園準優勝の松山商業高校野球部で、一年生の夏からレギュラーとしてプレーを背負わされる責任と誰にも理解されない心の重石の葛藤の中で心が病みながらもがき苦しんだ。そんな心を繋いでいたのは、「王貞治のホームラン記録を抜く」思いだった。野球のホームランに憧れ取り憑かれていた心が何度も切れかけた野球を続ける心の糸を繋ぐ動機だった。こんな私だがドラフト候補になり注目を浴びるもドラフトで声を聞く事もなく…幼い頃に見た夢も心から粉々になり消えて行った。私の心に残ったのは、意味もなく「プロになる」だけだった。その後は、神戸市にある社会人野球チームに入社をした。初出勤の日…ロッカーで見た私の名前は通名の日本名になっていた。…まただ…、私の心に大きな重石がドスンと落ちてきた。

社会人のドラフト解禁から数年が経ったある日…、「プロになるだけ」この病んで壊れた心が野球を辞める決断をさせた。「日本のプロテストを受け、野球に見切りをつけて野球を辞める」私は会社を辞めて地元に帰った。この時、私の高校野球の恩師である窪田元監督に挨拶へと向かった。「テストを受けてダメなら野球を辞めます」胸の内を伝えた。野球から逃げた心を見透かされたのだろう。

一言、怒られた。

怒った恩師は、知人であるオリックス球団 井箟 代表に話を通してくれた。この話によって、数日間 オリックス 二軍練習に参加をする事になった。球団テストの結果は、不合格であった。しかし、井箟 球団代表の紹介でシアトル マリナーズ環太平洋部長ジム・コルボーンと赤坂プリンスホテルで出会う事になる。ジムは「アリゾナ キャンプがあるから、テストを受けに来い」と私に話した。

1997年2月 

私はアメリカへと単身渡米をする事になった。LAX空港に降り立った私は、アメリカの生活環境に入ると名前の心の重石が軽くなった事に気づいた。初めて会う人が私の名前を聞いても顔色が変わらない。この自然な空気感に出会いここが生きる場所だと感じてしまった。

アリゾナキャンプ中の私は、通訳も居ない中を一人戦っていた。支払われるミルマネーが終わると消えていく選手達の中で…、私は、最後まで生き残った。私はシアトル マリナーズとマイナー契約を結びAA'のランカスター ジェットホークに派遣される事になった。

「治安の安定した地域だから、言葉も、生活もできない君にはベストだ」

開幕第2戦目。私は、スタメンとして試合に出場し二本のホームランを放ち鮮烈なデビューを果たした。チームの月間MVPも取り、カリフォルニア リーグでもトップクラスの成績でスタートした。私の活躍がLAタイムスの記事に掲載された後のある日の事だった。球団事務所に呼ばれた。

「日本から来たんだよな。韓国パスポートの名前と試合で使っている名前が違うぞ。日本で生まれ育ったんだよな。日本で生まれたのだから日本人だろ。でも、パスポートは韓国。お前は日本人なのか?、それとも韓国人なのか?」私は、簡単な英語で説明をしたが理解されなかった。また再び、大きな重石が心に落ちてきた。

その日の試合から、私の名前は韓国読みの呼び名で呼ばれるようになった。私がパスポートを作るまで知らなかった呼び方の名前だ。球場のファンからは、「日本人か?韓国人か?」と問いかけられる。再び心に重石を抱えた私は、HR16本、2割5分 程度の平凡な成績でシーズンを終えた。日本に帰国した私は、来日したジム・コルボーンと一緒にオリックス球団へと足を運んだ。

この時、泊まっていた新神戸駅オリエンタル ホテルのエントランスでICHIROのお父さんと雑談をした。会話の最後に「息子の夢を叶えてやってください」深々と頭を下げられた事に驚いた。この父親が居て幼少期のICHIROが育ったのだと感じた瞬間だった。厳しくも愛情深く育てられたのだろうと思った。NPBのトップスター選手の息子の父親が深々と長く頭を下げた光景を今でも忘れられない。その日、グリーンスタジアムの通路でジム・コルボーンと一緒にICHIROと雑談を交わした。

この時のICHIROは、ヒットを打ってもマスコミから内容を叩かれていた時期だった。新聞で事情を知っていた私は、ICHIROとの別れ際に「野球が楽しいか?」と問いかけた。「楽しいです、最高ですよ」ICHIROは、笑いながらも腹の中は「楽しいわけないだろう」マスコミに叩かれる現状がICHIROの顔に厳しい表情を浮かばせていた。私達がスカウティングする中のデーゲームでICHOROは、ホームランを含む固め打ちを見せてくれた。ジムは、私に問いかけた。「私ならMLBで2番か9番だが、ICHIROをどの打順で使う?」私は答えた。「一番だ」必ず一打席、自由に使える一番がICHIROを活かす事になる。ICHIROは、MLBで必ず数字を残せる。天然芝の内野、投手の投球は動く球でゴロになりやすい。私は、ジムのスカウトの相談に乗りながら翌年のキャンプに向けて準備をしていた。

キャンプ参加の二ケ月ほど前、私に一通の書類が届いた。「契約はしない」ジムに話を聞くと「ビザの関係」などの諸事情があったとの事だった。1998年 シアトル マリナーズのアリゾナ キャンプには、ICHIROを含め多くのオリックス選手が参加をする事になった。行き先をなくした私は、別の野球の道を探した。しかし、私が帰国すると作られた「メジャーと契約した選手は、日本のプロ野球選手と同じとみなす」このルールが日本球界への道を閉ざした。行き場のない私は、アメリカの独立リーグのチームと選手契約をした。しかし、怪我と労働ビザの関係で引退を決意する事になった。その後…帰国した私は、ジムのスカウト補佐として手伝いをしていた。

松坂、新垣世代の高校野球アジア大会のスカウトを終えて帰宅をするとテレビから訃報が流れた。スカウトの三輪田さんが自殺をした⁉︎つい先日、一緒に夕食を楽しく共にして語りあったばかりなのに…。私は、信じられない思いと共に心が砕け散った。「心の中の野球への糸がプツンと大きな音を立てて切れた」野球界がバカらしくなり…逃げるように距離を置くようになった。

その後、佐々木さんのスカウトで広島球場に誘ってくれた。二人で、佐々木さんのMLBの姿を楽しく語りあった。それでも私は、野球から…ジムから逃げ続けた。

時は経ち…2017年 8月。私は、福島良一のご縁でアメリカ野球愛好会の会員になった。野球から逃げ続けていたのに…。この頃、Ballpark vol.59(40周年記念号)の原稿募集の封書が届いた。

あの頃に思いをよせた私は、原稿テーマ「思い出に残るシーン」として自分の事を書いた。今、10年前に書いてあった文章を読み直してココに書き直している。

映画ジャッキー・ロビンソン

1997年4月15日、ジャッキー・ロビンソンの背番号42が全球団で永久欠番となる事が決定した。この時、私はアメリカの球場で42番を背負いプレーをしていた。「何故、皆が42番のユニフォームなんだ?」この事をチームメイトに聞くと「ジャッキーが居たから、俺もお前もいるんだぞ」ジェスチャーも交えて答えてくれた。

あの時の私は、ジャッキー・ロビンソンの事を何も知らずに42番の背番号を背負いアメリカの野球場でプレーをしていた。

あれから27年。
今の私は、16年前に…病で難病の身体障害者となった。

1997年、CAランカスター、ランカスタージェットホークス球場で出会った福島良一から連絡を頂いた。「今治に行くので、松山でお会いしましょう」2012年、この一言が私に再び野球へと向かわせた。今では友人となった福島さんの連絡は「私へのプレイボール」のコールだったのかも知れない。「プレイボール、ゲームセット」野球と同じように人生には始まりと終わりがある。しかし、人生が終わったと思っても命ある限り人生を諦めなければ、またプレイボールのコールが響き渡る。病は、私にその事を経験させ教えてくれた。

「プレイボール」さあ、皆んなでベースボールと限られた人生を楽しもう。

42 ジャッキー・ロビンソン
1 ピー・ウィー・リース

ジャック・ルーズベルト・ロビンソン(Jack Roosevelt “Jackie” Robinson/1919年1月31日-1972年10月24日/男性)は、アメリカ・ジョージア州出身のプロ野球選手(内野手)。有色人種を排除していたメジャーリーグにおいて、アフリカ系アメリカ人選手としてデビューし、有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いたことで知られる人物。「黒人初のメジャーリーガー」と紹介されることも多いが、厳密には1884年にアメリカン・アソシエーションでプレーしたアフリカ系アメリカ人のモーゼス・フリート・ウォーカーが最初とされており、ジャッキー・ロビンソンは「近代メジャーリーグ初の黒人メジャーリーガー」という意味合いで、「黒人初のメジャーリーガー」と紹介されている。

「不可能」の反対は、「可能」ではない。「挑戦」だ‼︎

もし、他人に何かのインパクトを与えるような、生き方が出来なかったとしたら、人生などそれほど重要なものではないと思う。ジャッキー・ロビンソン

MLB 評論家の福島良一は、高校時代、大リーグの試合を観戦したことをきっかけに大リーグへの造詣を深め、パシフィック・リーグ広報部長で大リーグ通としても知られたパンチョ伊東からベースボールを教わった。「特定の応援するチームを作らないで、大リーグ全体を楽しんでほしい」と教えられた。

ベースボールに連れて行って
~Take me out to the ball game♬~

Take me out to the ball game,
Take me out with the crowd;
Buy me some peanuts and Cracker Jack,

I don't care if I never get back.
Let me root, root, root for the home team,
If they don't win, it's a shame.
For it's one, two, three strikes, you're out,
At the old ball game.

私を野球に連れてって
観客席へ連れてって
ピーナッツとクラッカージャックも買ってね
家に帰れなくったってかまわない
さあ地元のチームを応援しましょう
勝てないなんて許せない
ワン、ツー、スリーストライクでアウト
昔なじみの試合スタイルで


ドジャースタジアム


この歌詞には1908年版と1927年版があり、女性の名前が前者ではケイティ・ケイシー(Katie Casey)、後者ではネリー・ケリー(Nelly Kelly)となる。

「root for the home team」の「the home team」には、実際に自分が応援するチーム名に入れ替えて歌う。

「クラッカージャック Cracker Jack」とは、キャラメルでコーティングしたポップコーンとピーナッツが混ざったスナック菓子。

左 金森潤熙
右 福島良一
42 ジャッキー&ピー 1

「さぁ行こう、夢のボールパークへ」



#創作大賞2024  
#エッセイ部門
#オールカテゴリ部門
#ビジネス部門

BEN HOGAN The Secret LAB


ゴルフ理論
「復活は、新たなる創造である」BEN  HOGAN
金森 運動原理 “Energy = Circle”

Golf Swing理論
🟦3 circles energy理論
🟥3 eyes timing & balance理論
🟨Pendulum Grip理論
🟩X-system理論
🟫Right Brain visualization 理論
著作 金森潤熙

GOLF & BASEBALL 理論

著作者 金森潤熙


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