権藤頼子はやさしい手をしている 第十話 転生を繰り返す猫の、情念の物語
第十話 思いがけない依頼
その夜のことである。
満月もまだ先である。頼子は風呂からあがり、囲炉裏のそばに寝転がって、スマホゲームをしていた。髪を乾かすのも面倒だ。このまま寝ようかどうしようか迷っていると。
「たのもう」
野太い声が、玄関土間の裏口から響いた。
心底驚いて、パジャマ姿のまま、草履をつっかける。
「……どちら様ですか」
ここに越してきて一年。広大な敷地に性別一応女の自分はひとりぐらし。今まで、不審者が現れたことはない。はたから見れば怪しげな猫の化身たちも、律が持ってくる名簿に名前がある者たちばかりだ。
「名前はない」
と、戸の向こうの何者かは言った。
頼子は息を吸い込み、気持ちを落ち着ける。大丈夫。鍵はちゃんとかかっているし、戸も頑丈だ。もちろん、蹴破られたらアウトだが。
「申し訳ありませんが、お名前がない方は入れることはできません」
「どうしてもか」
「どうしてもです」
うーむ、と戸の向こうの何者かは低く唸った。普通に怖い。
「名前は、実は何個もある」
「いえ、ひとつでいいんです」
「全部教える」
「そういうことじゃなくてですね」
「太郎、ポンタ、豆助、とら吉、アントニオ……」
ああ、戸の向こうに来ているのは、野良猫の霊かなにかかな。名前からそんな気がする。アントニオっていうのが変わってるけど。
はたして。
「……サバオ」
頼子は、咄嗟に戸を開いていた。
黒い影がすかさず中に入り込み、一瞬の後、人の姿を取る。
そこに立っているのは、革ジャンに革パンツを履いた青年だ。首に褪せた赤いスカーフを巻いている。いや、スカーフではなく、バンダナか。その柄には、確かに見覚えがあった。
「サバオ?」
彼は頼子を見て、太い眉を持ち上げた。
「なんだ、顔が怖いねーちゃんじゃねぇか。奇遇だなあ、おい」
「おいって。え、え、どうしてここに?」
間抜けな声しか出てこない。
「あ、もしかして、死にました?」
「おうよ」
頼子は急いで戸棚まで走り、ファイルを手に取った。今朝、律が持ってきた名簿だ。何度確かめても、そこに、サバオの名前も、それらしき猫のことも、書かれていない。
第一、満月までまだ十日もある。
信じられない。名簿に載っていない猫(の化身)が、そこにいる。勝手知ったるといった様子で板間に上がり込み、自分でさっと座布団を出し、あぐらをかく。
頼子は混乱している。
どうしよう。いつものように、パンが出せない。
だってフルーツライしか焼いていない。ナッツやいちじく、レーズン、たくさん入っている。問題ないと言われても抵抗がある。今日に限って、冷凍保存しておいたパンもない。
それなのに、ぐう、とサバオのお腹が鳴った。
「お、お腹空いてるんですか?」
「まあ空いてるな」
「パンないんです」
「ぱん? 漬物はもう出してないのか」
「それは前任者です。わたしは、自家製酵母のパンを」
また、サバオの腹が鳴る。先程より大きく。頼子は追い立てられるように台所に立った。
もともと彼らがここで、発酵食品を食べるのは、自然の力を借りて摩訶不思議な変化を遂げるためだ。人間の姿で現れ、話し、生前とは違う猫の毛皮に着替えて、元の飼い主のところに行く。
サバオの場合は、たぶん違うだろう。名簿に名前がないのだから。
「なんか、食べたいものとか、ありますか?」
冷蔵庫をのぞきながら、一応、訊いてみる。
「団子を頼む」
「……だんご?」
「醤油色のタレがかかったやつだ。人間になったら食べたいと、ずっと思っていた」
ははあ。サバオが根城にしていた城址公園の庵のそばには、茶屋がある。それに、桜の季節になると、花見客を目当てに団子屋が露店を出していたはずだ。
それにしても、団子か。それもたぶん、みたらし団子か。
コンビニにひとっ走りする? いや、待てよ。
頼子は冷蔵庫にあった絹ごし豆腐を出すと、パジャマの上からエプロンをしめた。手を洗い、豆腐をレンジで水切りし、裏ごしをする。そこに残っていた白玉粉を混ぜる。手早くこねて、団子状に丸める。
湯を沸かす。その間、タレを作る。しょうゆ、みりん、砂糖、水溶き片栗粉。
「団子とは、そうやって作るのか」
「まあ、間に合せの材料ですけど。それよりサバオ、いつ死んでしまったの」
「わからんが、夜だったな。空を見上げたら、月がまんまるだった」
ということは、先月の満月の日か。
ぐらぐらと沸いた湯に、丸めたタネを落とす。浮かび上がってくるのを、お玉ですくい、一度水にさらす。
茶碗に適量を取り、先程作ったしょうゆベースのあんをとろりとかけた。
冷蔵庫を物色してから、十五分ほどで、サバオが所望するみたらし団子(もどき)が完成した。
「さあどうぞ」
ことりと団子の入った椀を置くと、サバオは嬉しそうに目を細める。そして、漆のスプーンを器用に使い、ぱくぱくと食べ始めた。
頼子は彼に、冷蔵庫の甘酒も出した。これは前回、律がくれた米麹をもとに、じっくりと適温で発酵させたものである。砂糖を一切使っていないのにとても甘い。パンは出せないが、一応は発酵食品をサバオに摂らせることになるだろう。
頼子は満足そうに団子を食べるサバオに訊く。
「ここには、どうして来たんですか?」
「生まれ変わるためだ」
「おかしいな。名簿に名前ないんです。なんかの間違いじゃなくて?」
「間違いではない」
「そもそもサバオ、誰に恩返ししたいんですか?」
「恩返しは終わっている」
恩返しが、終わっている?
「でも、ここで着替えたいんですよね」
「いや、着替えはもういい」
「もういいって」
そこで、頼子は、ある可能性に思い当たり、はっとした。
「まさか、前に着替えたことがある、とか?」
サバオは頷いた。
「かれこれ、こんだけ、着替えている」
むちっとした指は、七を示している。
なるほど。ということは、八回、猫の生涯を生きたのか。それは、ベテラン感が出ているのも頷ける。どうりで、前任者についても知っているはずだ。
「最初の飼い主は、醤油屋の女将だった。かれこれ百五十年ほど前のことだ」
「ええー……」
それは、すごい。すごいとしか言いようがない。
「女将はよくできた女で、肥溜めに捨てられていた俺を、助けてくれた。ものすごく可愛がってくれてな。その女将に恩返しするために、俺は二度ほど、毛皮を着替えた」
最初は純白の猫だったのが、次に茶トラ、茶白と生まれかわったという。
「女将の死を看取った。苦労が多く、夫はひどい暴力男で、姑には虐められていたた女だった。だが、晩年は俺のおかげで、穏やかで幸せな毎日だと言ってくれた」
「それなのに、また生まれ変わったんですか?」
「三度目は、女将が歳をとってからようやく授かった息子のためだ。俺は女将に、息子を頼むと言われたのに、成長を見守ることもできず死んだ。それで、着替えを所望し、ここに導かれた」
大正の終わり頃の話だという。
「ここってそんなに昔から機能してたんだ……」
ここで仕事を請け負った者たちは、みんな、頼子のように身寄りがなかったのだろうか。そして、「やさしい手をしている者には役割がある」と言われて、どこからかリクルートされてきたんだろうか。
「あの頃は、ぱん、でもなく、漬物でもなく、味噌だった」
しみじみとした様子で、サバオがつぶやく。
「味噌の時代があったのは聞いてます」
「女がひとりで、味噌を仕込み、着替えを望む猫たちに、小皿に一匙の味噌を出していた。赤味噌、黒味噌、豆味噌から選べた。赤味噌は風味豊かで、黒味噌は力強い味がして、豆味噌は甘く、どれも美味だった」
「じゃあ、女将の息子の生涯も見守ったのですね」
「息子はまだ若かったから、俺も三度、ここで着替えるはめになった」
合計で、五回着替えたと。
「まさか、孫も?」
サバオは首をふる。
「孫のことまでは、女将に頼まれていない。息子を見守り、看取り、だから恩返しはすんだ」
「じゃあ、どうして」
「人間になるためだ」
サバオはそう言った。言葉を失い、まじまじと彼を見つめる頼子の前で、即席みたらし団子をすべて平らげたサバオは、甘酒もごくごくと喉を鳴らして飲み干し、舌でぺろりと口のまわりを拭った。
「転生を重ねた猫は妖力を持つ。六度目からは、俺は、人間になるために、ここにやってきている」
