権藤頼子はやさしい手をしている 第七話 猫に九世有り。ただひとつでも、かけがえのない存在
第七話 小川佳代の事情
朝起きると、しま子の姿は消えていた。
古民家は無駄に部屋数があって、頼子が寝起きしているのは、南側の奥の一番小さな部屋だ。雨戸を開けながら囲炉裏の部屋まで行ってみると、ストーブは消され、毛布もきちんと畳んで置いてあった。
彼らがここにやってくるのは、満月の三日前の夜半。それから三日の間に、もと飼い主の調査をする。当然、清掃のアルバイトがない日に行う必要がある。
毎月、その付近の数日間はアルバイトを入れないようにしている。調査に赴くには、なにかと事前準備も必要だからだ。
頼子は前夜のうちに、食パンに使用したのと同じ酒粕酵母で、あんパンの生地を仕込んでいた。朝見ると、元気に発酵してくれていた。いつものように、朝食を食べる前に生地を分割、ベンチタイム、成形をすませる。二次発酵を待つあいだ、家の空気を入れ替え、風呂場や土間を軽く掃除した。
今日の朝食は、ご飯に豆腐とワカメの味噌汁、自家製塩麹に漬け込んであった鮭、カブときゅうりの浅漬だ。本当は酒粕酵母の食パンに、トマト麹でスープでも作ろうとしていたのだが、パンはしま子がすべて食べてしまった。たまには和朝食も悪くはない。
洋食にしろ、和食にしろ、頼子はできるだけ発酵食品を摂るようにしている。パン作りの基本となる天然酵母以外にも、冷蔵庫には四季折々の発酵食品が詰まっている。
豆乳を発酵させたヨーグルトに、各種野菜の一夜漬け、キャベツのザワークラウト、発酵ジャム、料理の旨味を引き出すたまねぎ酵母。塩らっきょう、自家製糀みそ、梅漬け。大小のビンやタッパーが冷蔵庫に入っていると安心できる。どんなに疲れた日でも、具合が少々悪い日でも、数日買い物に行けない日が続いても、冷蔵庫に発酵食品があればなんとなるのだ。
酵母や菌が生命に多大な影響を及ぼすことを知ってから、頼子は、以前にもまして発酵食品を摂るようになった。
おかげでこの仕事を請け負ってからというもの、身体の調子がすこぶるいい。肌はもちもちとして、髪の艶も増している。
もっとも、それで美人になれるわけではないが。
そんなことをつらつらと考えながら食事を終え、片付けをしていると、メッセージアプリの着信音が続けて鳴った。
時刻は八時二分。相変わらず朝早くから仕事を開始しているらしい。
差出人は佐倉市役所、市民部市民課、猫班の鳴宮律―――たったひとりの仕事仲間である。
彼はたいてい、リアルな猫のスタンプを送ってくる。おはようございます、と。そして続けて、重要な情報を報せてくる。
今回は、小川しま子のもと飼い主、小川佳代の個人情報だった。
住所は、大佐倉。広大な農地が広がるあたりだ。
良かった、と頼子は今回も安心する。過去に一度だけ、飼い主が海外に越してしまい、着替えが成立しなかったことがある。この特殊な生まれ変わり制度には明確なルールがあり、飼い主は佐倉市在住に限られているのだ。それがなぜなのかは知らされていない。もしかしたら、全国には猫班を置く市町村がほかにもあるのかもしれない。
焼き上がったあんパンを箱に詰める。いつも通り、さっと身支度をすませ、戸締まりをして外出の準備を終えた。
小川佳代は七十四歳。頼子の祖母が亡くなったのも、その年齢だ。
大佐倉方面へ軽トラックを走らせながら、頼子は祖母のことを考えていた。
再婚した母から頼子を引き取ってくれた祖母は、足が不自由で、すでに年金を受給していた。生活は決して豊かではなかった。頼子は祖母の介護のために、高校を中退した。その後、祖母を看取り、気づけば十九歳になっていた。
祖母と住んでいたのは小さな戸建てだったが、県の住宅支援事業を利用した借家で、祖母の死後は出なければならなかった。もちろん、住居費のほか、生活するためには、働かなければならない。頼子はできるだけ人と話さずにすむ仕事を探した。市民病院の夜間清掃の仕事は、ぴったりだった。
祖母は亡くなる前の一年間は完全に寝たきりの生活だったが、頭は最後までしっかりとしていた。最後まで、頼子のことを案じていた。彼女は何度も謝った。高校を中退させてしまったこと。自分が死ねば迷惑をかけずにすむのにと。それなのに、死ぬ直前にはこう言ったのだ。
「おまえをひとりぼっちにしてしまうね」
祖母が死んだ時。頼子は確かに、ほっとした。これで自由になれると。でも、それ以上に苦しかった。愛する者の死は、想像以上の力で人を打ちのめす。それは決して慣れることのできない痛みだ。
小川佳代は、愛猫の死を、どうとらえているのだろうか。はたして生まれ変わりを望むだろうか。奇しくも祖母と同じ年齢の女性について、頼子はいつも以上にあれこれ考えてしまう。
小川家は、地図アプリに頼らなくてもすぐに分かった。というより、しま子が捨てられたあとしばらく根城にしていたという、壊れたショベルカーが目印になった。彼女は草むら、と言っていたが、そのあたりは広大な田んぼが広がっている。ショベルカーが打ち捨てられている場所だけが、雑草が生い茂っているのだ。錆びた車体にツタが絡まり、屹立している様子は、なんだか世紀末のような物悲しい雰囲気を醸し出している。
市道を挟んで反対側に、大きな家がぽつんと建っていた。市道から左折し、敷地内に躊躇なく軽トラックを乗り入れる。二階建ての家は、築年数がかなりいってそうだ。もしかしたら、市道の向こうの田畑もこの家が所有しているのかもしれない。敷地内には倉庫のような建物も見えたが、錆びたシャッターは下ろされたままだ。
引き戸式の、磨りガラスが入った玄関ドアの横についているインターホンを押す。鳴っている様子はない。さてどうしたものかと考えていると、右手から人が現れた。
「どちらさん?」
ああ、彼女が小川佳代だ。痩せぎすで、紺色の矢絣のモンペに長靴を履いている。両手で抱えた籠には、泥をつけたカブがたくさん入っていた。農作業の途中だったのだろう。髪は白く、日焼けした肌には深い皺が刻まれている。厳しい目をして、頼子を胡散臭そうに見ている。
「権藤頼子と申します。小川佳代さんですね」
「そうだけど。なに、なんかのセールスだったら……」
「小川しま子さんの依頼で、事前調査に参りました」
少しの間。皺に埋もれた目が、大きく見開かれる。
「……え?」
「お時間は取らせません。お話、うかがっていいですか」
佳代に案内されたのは、庭先だった。靴を履いたまま縁側に腰掛けて、手入れされた庭を眺めていると、佳代がお茶を載せた盆を手に戻ってきた。
お茶が置かれたタイミングで、頼子も手土産を渡す。朝焼いたあんぱんだ。中の餡子は前に大量に作って、冷凍保存しておいたものである。よもぎの粉を使った生地は渋みのある緑色で、アクセントに黒ゴマを散らしている。
佳代は無言のまま、隣に腰を下ろすと、あんぱんを食べ始めた。頼子はお茶をいただきながら、庭に目をやる。
ふと、庭木の根本に目が止まった。小さな御影石が置いてあり、菊の花が供えられている。
「しまちゃんは、あそこで眠っているよ」
ぽつりと佳代は言った。それから、しま子について語り始めた。
