権藤頼子はやさしい手をしている 第五話 猫に九世有り。ただひとつでも、かけがえのない存在
第五話 小川のしま子の事情
猫は生まれ変わる度に、毛皮を着替えるという。
茶トラがハチワレになったり、サビ猫になったり、あるいは三毛猫になったり。
権堂頼子は千葉県佐倉市で、そんな猫たちの「着替えどころ」を営んでいる。
営んでいるとはいえ、雇われである。
実はこの「着替えどころ」となっている古民家は、佐倉市の所有だ。そして頼子は、半年前から、市の属託職員ということで、給料を得ている。
頼子自身は、佐倉市の出身ではない。
生まれは東京北区。2DKのアパートで両親と頼子の三人家族で暮らした。この頃は、それなりに幸せだったように思う。しかし八歳の時、父が建設現場の事故で亡くなった。しばらくの間、母子で暮らしていたが、十歳の時、母が再婚した。さまざまな事情があり、頼子は父方の祖母と住むことになり、佐倉市に越してきたというわけだ。
不思議な土地だと、当初から思っていた。
成田よりは都心に近く、京成線や東葉高速鉄道を使って都内に通勤通学する者も多い。それでいて、少し主要な駅から外れるととたんに田園風景が広がり、印旛沼や、オランダ風車がそびえ立つふるさと広場もある。
この地に越してきてから、十七年。頼子はただの一度も、佐倉市から出ていない。
さて本日焼くのは、酒粕酵母を使った食パンだ。
頼子はこの家で、さまざまな種類の酵母を仕込んでいる。発酵の状態がよく、安定した出来栄えのパンになるのは、やはりレーズン酵母だろう。しかし葡萄やレーズンは、本来、猫にとっては毒になる。
この家に着替えに現れる彼らはすでに亡くなっていて、人型をとっていることから、基本的にはどんな食材を出してもいいとされている。それでも頼子は抵抗を感じ、レーズン酵母は使わない。
酒粕酵母を使用したパンは、風味がチーズに似ていて、食感はしっとり、とても美味しい。ただ、劣化が早く、取り扱いに気を使う。
パンに使う酵母種は、酵母液に強力粉やライ麦粉を混ぜて少しずつ発酵させたもの。しかし酒粕酵母だけは、その工程を短縮し、前種と呼ばれる状態で使う方が、風味が活きる。
前種の場合、一次発酵に時間がかかる。いくらこの家が発酵を促す環境であったとしても、最低六時間は見た方が良い。
九州産強力粉「南の香り」を使う。酒粕酵母、きび砂糖、赤穂の塩、豆乳、水を混ぜ込んで、こねる。こねる。こねる。
三十分放置。
ぼんやりする。
スケッパーで生地をいったん取り出し、こねる、こねる。バター三十グラム投入。こねる。こねる。
ラップをかけ、一次発酵開始。
テーブルの隅っこで、朝食をとる。今朝は、先週焼いて冷凍しておいたイングリッシュマフィン。解凍し、半分に切った片方に目玉焼き、ハム、チーズ、レタスを乗せる。もう片方には、糀と豆乳で手作りした発酵バターと蜂蜜をたっぷりと塗る。それから、カフェオレ。濃いめに淹れたコーヒーに、ミルクをしっかりクリーマーで泡立てて注ぐ。
我ながら、最高の朝食である。
その後は歯を磨き、髪を手櫛でさっと整え、身支度五分で終了。最後に作業台の上に置いたパン生地に挨拶をする。
「じゃ、仕事に行ってくるね」
おりこうにして、大きくなるんだよ。
着替えを請け負う猫は、月に一匹か、多くで二匹。市から払われる給料だけでは、生活はできない。家賃と光熱費がかからないのはいいが、暮らすにはお金がいる。食費にスマホ代。交際費や被服費はほぼ必要ないとして、それでも。だから頼子は、市民病院で清掃のアルバイトもしている。十九歳の頃から続けている仕事だ。以前は夜間のシフトだったのを、着替えどころとの兼業のため、昼間、週四、五日に変えてもらった。朝七時から午後三時まで。海隣寺町の古民家からは自転車で二十分ほどと、距離もちょうどいい。
軽トラックは市の所有物。だから、調査目的以外ではできるだけ使用しない。普段はここ十年愛用している自転車で移動している。どんなに大雨の日でもだ。
仕事から帰宅したのは午後三時半。空を見上げる。満月まであと三日。不完全な形の白い月が確認できる。
土間に入ると、いつものように古民家特有の清涼な香りに、パン生地のいいにおいがした。
いつも、帰宅するたびに、ほっとする。
東向きに建てられている家の中は、すでに薄暗い。しんと静まった空間は、頼子が留守のあいだも、ゆっくりと時が流れているのだ。
テーブルの上、ボウルの中の生地はみちっとラップを突き上げる勢いで発酵している。手を念入りに洗い、すぐに作業再開。
粉を振った台にスケッパーで生地を取り出し、三分割。いちいち計らないが、大体同じ大きさ。ベンチタイムのあいだ、スマホのゲームアプリにログインする。
生地が力を取り戻したのを確認後、成形、バターをたっぷり塗った型に入れる。二次発酵を待つ間、軽く掃除と、風呂の準備。それから、自分の夕飯作り。
今夜は、味噌漬けにしておいた豚ロース肉のソテー。自家製キャベツのザワークラウト。オクラと梅肉の和物。大根の味噌汁。
生地をオーブンに入れ、約三十分。
ゲームの続きをしながら、テーブルの端で食事。奇怪な猫の軍団が理不尽に人の城に攻め込むゲーム。食事中なのに、と眉をひそめる者は誰もない。ちなみに、テレビは置いていない。固定電話もない。ここに越してきた時からそれらはなかった。
祖母亡きあと、頼子はひとりの生活を謳歌している。安普請のアパートであろうと、おんぼろの借家であろうと、敷地面積が無駄に広い古民家であろうと、生活リズムはあまり変わらない。
パンも、以前から焼いていた。自家製酵母でパンを焼くようになったのは、祖母の影響だ。祖母はそれこそ、自慢のぬか床を持っていて、味噌も仕込むような発酵食の達人だった。基本的に食いしん坊だった祖母は、お気に入りのパン屋があったのだが、そこの食パンがよく売り切れていることを不満に思っていた。何度か買いに行くたびに振られ、それならいっそ、と図書館でパンのレシピ本を借りてきて、焼いてくれた。
祖母の手作りの食パンは、少し膨らみは悪かったが、もっちりとして、風味が豊かで、味わいがあり、とてつもなく美味だった。
祖母が台所に立てなくなってからは、食事作りは頼子の仕事となった。必然、自家製酵母のパン作りも引き継いで、今に至るほどの腕前を身に着けたというわけだ。
そして祖母亡き後、頼子はしばらく、自分ひとりだけのためにパンを焼き続けた。
「ごめんください」
深夜零時少しすぎ、玄関土間兼台所の、裏庭側の戸口向こうで、声がする。
「どちらさまですか」
「……小川、しま子」
まだ幼い少女の声だ。
「どうぞ、お入りください」
返事をすると、戸が、からりと開く。影がにゅっと忍び込んできて、目の前に、五、六歳くらいの女の子が立った。
顎の線で切りそろえた黒髪。前髪もぱっつん。グレーのブラウスにウールっぽい厚地のプラム色のスカート。黒とグレーのボーダー柄のタイツに、もこもこの折返しがある黒いブーツをあわせている。
彼らにしては、なかなかおしゃれな方ではないだろうか。もっとも頼子自身、おしゃれという定義がよくわからないけれど。
大きなアーモンド型の瞳。すべてのパーツが顔の真ん中にぎゅっと寄っていて、好ましい顔立ちをしている。
招かれれば、堂々と入ることができる。
彼女はじっと頼子を見つめて、
「こんばんは」
と、可憐な声で挨拶をした。
「こんばんは。わたしは、権堂頼子といいます」
「ヨルに生まれたからそんな名前なの?」
くすくすくす、と少女は笑う。
ヨル―――その言葉は、頼子にとって特別なもの。胸に痛みが走って、少し無言になってしまったけれど、静かに否定した。
「いえ、生まれた時間は知りません」
「ふうん? あたしはシマシマだからよ。ほら、これと一緒」
彼女はスカートをほんの少し持ち上げて、縞模様のタイツをよく見せようとする。
サバトラか、アメショーの子かな。
そんなことを考えた。
頼子は、背が低いしま子を、囲炉裏端に案内しようとした。しかし、彼女はダイニングテーブルのところに置いてある椅子のところまで行き、そこに腰掛けてしまう。その時、おや、と気づいた。左足を少し引きずっている。椅子の方が楽なのかもしれない。
案の定、大人用の椅子は彼女には大きすぎる。それでも、すました様子で
「お水ください」
と注文した。
「白湯じゃなくて、水でいいですか?」
「水が好きよ。冷たすぎなければ」
はいはい。言われた通り、水道の蛇口からグラスに水を注ぐ。佐倉市は水道水も普通に美味しい。なんでも五十%以上は地下水だという。頼子も都内から越してきて、まず水の美味しさに驚いた記憶がある。
グラスを手に、振り返った頼子は目を見張った。
しま子が、すでにパンを食べているではないか。テーブルの網の上、冷ましていた食パンを。まだカットもしていない。
「あの、しま子さん」
「美味しいよ、ヨルヨル。すんごく美味しい」
誰がヨルヨルだ。
「勝手に食べだすなんて、お行儀悪いですよ」
「味見だもん、あ、じ、み」
彼女はぺろりと舌を出す。
しま子は食パンの端っこを強引にむしり取って食べてしまっていた。
頼子は嘆息し、パン切り包丁を出すと、味見の被害に遭った端っこを切り落とす。それから八枚切りくらいの薄さに切り分けたものを、改めて、皿に盛って出してやった。
しま子はそれも、躊躇なくぱくぱくと食べた。
「うん。深い味わい」
「パン食べたことありましたか」
「まあねー。あたしの飼い主、大らかな人だったから、人間の食べ物は時々味見をした」
「大丈夫だったんですか、それ」
「玉ねぎ入ったハンバーグ食べようとした時は怒られたけど、それ以外なら、しょうがないなあって笑ってた。優しい人だから、あの人」
猫に玉ねぎはいけない。チョコレートも、各種ハーブも。厳密に言えば、穀類の大量摂取も、バターも、卵も、生肉生魚も。だから猫である時にパンを食べたことがある子はほとんどいない。しま子はよほど食いしん坊だったようだ。
今も、むしゃむしゃと夢中で食べている。
「んまんま、ふー、ああ美味しい。んまんま」
いくら人型とはいえ、大丈夫なのだろうか。頼子の心配をよそに、彼女は結局、一斤の半分も食べてしまった。水もおかわりをして、ごくごくと飲み、ゲップをした。
「失礼」
えへへと笑って、椅子を下りると、囲炉裏のある居間に移動し、座布団の上にころんと横になる。
「しま子さん、眠いんですか」
「うん。ちょっと寝ていい?」
「だめです。お話聞かせてください」
「えー、めんどうくさい」
「だって、そのために来たんでしょう。そのために、パン食べたんでしょう」
「そうだった」
しま子は、ぴょん、と跳ねるように飛び起きる。髪の毛がちょっと乱れてしまっている。
「じゃあ、聞いて」
頼子は板の間の上り框に腰掛けた。しま子は座布団に左脚を投げ出すようにして座り、話し始める。
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