【小説・ヴィーナス症候群】〔343〕失恋旅行
赤坂のドレスブランド・Felice。
その日、「トルソーさん」たちが集う控室に夜久野由美の姿はなかった。
シフト表では出勤のはずだ。だが朝、急に「今日は休みます」とだけ連絡が入っていた。(第333話)
同僚の武隈莉子も檜皮谷奈緒も、由美の胸の内をおおよそ察していた。
あの男――酔って王子の方で警察沙汰を起こした彼と、別れたいと思っていること。
けれど、別れを告げればストーカー化するのではと怯えて、ずるずる引き延ばしていたこと。
最近はその重苦しさに押し潰され、仕事に集中できない様子さえ見せていたこと。
「由美ちゃん、どうしたんだろうね」
奈緒がため息混じりに言うと、莉子は声を低めた。
「まさかあの子、変な気起こしてないでしょうね」
「やめてよ」奈緒は眉をひそめる。
だが胸の奥に同じ不安が広がっていることは否定できなかった。
しばし沈黙が落ちたあと、莉子はスマホを手に取った。
LINEで軽く送ってみる。けれど、いつもならすぐに光る既読マークが、一向に付かない。
嫌な予感がじわじわと強まっていく。
「まさか……」
思い余って音声通話に切り替えた。
数コールののち、意外にもあっさりと由美の声が聞こえてきた。
「もしもし?どうしたの?急ぎ?」
呑気な調子だった。
莉子は拍子抜けし、同時に安堵で肩の力が抜けた。
「いや、LINEの既読つかなかったから」
「ごめんごめん、いま金沢にいて金箔アイス食べてた」
「……金沢? 何よもう!びっくりさせないで!」
電話口の奈緒も思わず笑ってしまう。
「何かあった?」
由美の声は平板で、逆に落ち着いて聞こえる。
「いきなり仕事休むもんだから、ヤツの件で何かあったのかと思って」
「ああ、ヤツね」
由美はため息を混ぜた。
「ヤツ、バカだからまた酔っ払って通行人ボコボコにしちゃったの。それで今ブタ箱にいるよ。もう付き合いきれないと思って置いてきちゃった」
「……はあ。とにかく生きててよかった〜。ちゃんとお土産買ってきなさいよ!」
通話を切ると、由美は金箔の光をまとったアイスを見つめながら、ひとりごちた。
「莉子ちゃん、大げさなんだから」

由美は金沢に、一人きりで旅に来ていた。
閑散期に入り、平日なら宿泊も交通も割引が利く。そう思った瞬間、心が軽くなった。金沢に呼ばれている――そう直感したら、もう居ても立ってもいられなかった。
「近江町市場で夕食にしようと思ったら、4時か5時に閉まっちゃうんだね」
誰に言うでもなく口にして、肩をすくめる。
「分かってたらお昼に行っとけばよかった……」
観光地の夕暮れは、少し早い。
だが、その静けさこそが、彼女の胸にしみていくのだった。
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