【小説・ヴィーナス症候群】[904]これっきりですか?
新大久保のアトリエを離れ、品川から京急へと乗り継ぐ。
車窓を流れる景色をぼんやりと眺めている万之瀬はるかは、今日の仕事の動線に思いを馳せていた。
まとうのは、『HANEUL』の新作であるノースリーブの韓流フェミニンワンピース。
両腕のない彼女の完璧なプロポーションを引き立てる、繊細で上品なシルエットの1着だ。
東京の喧騒を離れ、どこか哀愁漂う港町の風情が残る横須賀中央へ。
そこにある「横須賀別府屋デパート」での仕事は、はるかにとって少し特別な、胸が躍る「外仕事」だった。
アトリエに引きこもる普段とは違い、百貨店の華やかな照明の下で、動く芸術(トルソーさん)として多くの視線を集めることができる、誇らしい晴れ舞台。
別府屋の3階にあるHANEULのショップに義手を外して立つと、はるかは完璧な「トルソーさん」になった。
ノースリーブから伸びる滑らかな肩のライン。来店する客たちが、その美しさとドレスの佇まいに思わず足を止める。
ブランドの魅力を全身で体現するその時間は、彼女にとって至福そのものだった。
しかし、賑やかな一日が終わり、閉店後の片付けが始まった静かなフロアで、いつも親しくしてくれるショップスタッフの表情はどこか曇っていた。
「……はるかちゃん、ごめんね」

ハンガーの擦れる音の合間に、スタッフが申し訳なさそうに、ぽつりと声を漏らした。
「もうこうやって、別府屋の店頭に立ってもらうのも……今回がこれっきりになっちゃいそうなの」
はるかはハッとして、静かにスタッフを見つめた。
「……これっきりですか?」
聞き返した自分の声が、夜の百貨店にひっそりと吸い込まれていく。
理由は、何となく察しがついていた。アパレル業界の裏側を揺るがしている、あの不穏な噂。
「もしかして、Feliceの事件のせい……?」(本編903話)
「うん、たぶんそうだと思う」
スタッフは深いため息をつきながら、肩を落とした。
「アパレルの上の方もデパート側も、トルソーさんをあんな風に無防備に立たせるのは不用心だからやめようって、一気に自主規制の流れになっちゃって。HANEULは特にフェミニンなデザインが多いから、余計に目をつけられやすいみたいで……」
安全のため、危機管理のため。
大人が並べるもっともらしい「正論」の前に、はるかたちの愛する表現の場は、いとも簡単に奪われていく。
見知らぬ場所で起きた、男子中学生のバカな悪ふざけの余波が、巡り巡って、この横須賀の静かな売り場にまで物理的な「お仕事の消滅」という牙を剥いてきたのだ。
「はるかちゃんには、何の落ち度もないのに。本当にごめんね……」
はるかはただ、静かに微笑むことしかできなかった。
帰り道、再び横須賀線の車内の人となったはるかは、夜の闇に包まれた車窓を見つめていた。
ノースリーブのワンピースに包まれた身を小さく縮めるようにして、理不尽に狭まっていく自分の居場所と、時代の冷徹な変化の波を、その引き締まった身体の芯でじっと受け止めていた。
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