【小説・ヴィーナス症候群】[624]ありがとう0円
鎮貪舎――日比谷に本社を構える大手広告代理店――の庶務課に勤める舘合翠は、定時きっかりにタイムカードを押し、いつものように地下鉄に乗った。車内の広告には、灯台の光が六角形に広がる青いポスターが並んでいる。
「受験生を、食卓から応援。」
ツナガール 新シリーズ
あたまがよくなる あたまぐろ
数日前、会議室で見たビジュアルだ。
プレゼン資料の表紙と同じ赤だった。
自宅最寄り駅で降り、駅前のスーパーに入ると、食品売場が異様にざわついていた。
ざわつきというより、空気が尖っている。
鮮魚コーナーの先、缶詰売場の前に人だかり。
赤いポップが揺れている。
ありがとう0円
あたまぐろ サンプル配布
店員が必死に声を張り上げる。
「お一人様1個まででーす! 押さないでください!」
だが、声はかき消される。
「うちの子は受験生なのよ!」
「模試が近いの!」
「兄弟いるんだから2つでしょ!」
カゴがぶつかり合い、コートの袖が絡まり、
赤い缶が瞬く間に減っていく。
翠は立ち止まった。

あたまぐろ。
灯台印のツナ缶「ツナガール」を出している陸前水産の新商品。
DHA強化、受験応援、限定パッケージ。
あぁ、そういえば――。
鎮貪舎の第七会議室。
プロジェクターに映し出された市場分析グラフ。
「魚摂取量は減少傾向ですが、受験期は関心が高まります」
「体験導入を最大化するなら、無料サンプリングが最適です」
「ありがとう0円で、好意度を取ります」
スーツ姿の人たちが、数字の上で未来を語っていた。
その未来が、今、目の前でカゴを振り回している。
「最後の一個です!」
店員の声と同時に、小柄な主婦が腕を伸ばす。
別の女性の手とぶつかり、缶が床に落ちる。
カラン、と軽い音。
一瞬の沈黙。
拾い上げたのは、白髪まじりの女性だった。
「まあまあ……一つでいいんでしょう」
その人は静かに缶を握り、レジへ向かった。
翠は何も取らず、少し離れた場所からその光景を見ていた。
受験。
不安。
期待。
無料。
会議室では「エンゲージメント」と呼ばれていたものが、
ここでは、焦りと声の高さに変換されている。
あの会議で、
「生活者目線を忘れずに」と言っていたクリエイティブディレクターは、
この売場を想像していただろうか。
ありがとう0円。
誰が、誰に、ありがとうなのか。
翠は、青いポスターをもう一度見上げた。
灯台の光は、静かに六角形を描いている。
売場の蛍光灯の下で、
その光は、少しだけ白く見えた。
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