【小説・ヴィーナス症候群】[374]どうか縛らないでください
品川駅近くの古い複合スタジオ――通称「Cスタ」。
テレビCMや演歌のレコーディングにも使われるその一室で、
矢野恵麻はマネージャーの長居紳助から案件の説明を受けていた。
「北条雪門の新作の仮歌の案件だってよ。日浦美夏に回す予定らしい」
長居がファイルを机に置いた。
「作曲は松井透、編曲は中堀。仮オケ上がってる。レコード会社のチェック前に、先に仮歌入れたいって話」
「北条先生、まだ書いてるんですね」
恵麻は義手をつけたまま、紙をめくる。
「“女心の北条”って呼ばれてた人ですよね」
「そう。“女心といえば北条雪門”。昭和の定番だ」
長居は缶コーヒーを開けて苦い顔をした。
「最近インスタ始めたらしいけど、スマホなんか使いこなせるのかね」
「すごいですね。時代に合わせてますね」
「合わせてねえよ。たぶん周りがやらせてんだ。
で、タイトルは――『どうか縛らないでください』」
「……渋い」
「渋いだろ。美夏に当ててるって言われりゃ納得だ」
恵麻は歌詞カードを見ながら、ふっと笑った。
「女心なんていいますけど、今どきこんな女いるんですかね~」
「いるとかいないとかじゃねえんだよ」
長居は机を軽く叩いた。
「こういうのは様式美だ。ラーメン屋に行ったら、ちゃんとラーメンが出てくるのと同じ」
「なるほど、昭和の味ってやつですね」
「そういうこと。じゃ、オケ合わせ行くぞ。一本で決めよう」
恵麻は立ち上がり、義手を外した。
金属の肩継ぎが照明を反射して光る。
さっきまでの軽口が消え、無表情になる。
黒いタンクトップの肩が露わになり、
鏡の前で髪を結い直すと、そこにはもう“歌う人”の顔があった。
「……行きます」
「おう。頼んだぞ」
長居はファイルを閉じ、つぶやいた。
「しかしまあ、あの人もブレねえな。今どき“縛らないでください”だもんな」
恵麻はスタジオのドアを押した。
ブースの白い照明がまぶしく差し込む。
「縛られたことがない人ほど、こういう歌好きなんですよ」
その一言だけ残して、
彼女はガラスの向こうのマイク前に歩いていった。

雨の舗道に 灯がにじむ
指のしぐさで さよならを告げた
夢を追うのが いけないのですか
あなたの胸で 泣けない女
淋しさに 背を向けながら
まだ未練(こい)が ほどけない
どうか縛らないでください
この髪も この心も
恋の鎖で つながれて
私 私 生きられないの
どうか縛らないでください
(間奏:サックス+ストリングスの哀愁ソロ)
夜のホテルに 風が吹く
時計の針が 泣いているようで
抱かれたままで 終われるならば
自由なんて いらないけれど
愛しさが 罪になるなら
罰もいいと 思えたの
どうか縛らないでください
あなたより 遠い夢を
追いかけたいと 泣く私
どうか どうか 許してください
どうか縛らないでください
(セリフ)「あなたの鎖は やさしすぎて、痛いの…」
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