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【小説・ヴィーナス症候群】(367)兄貴分のような中学教師

第1章 教師としての不安

暮地祐司は三十歳。社会科の教諭として赴任して三年目、二年B組の副担任を務めている。
 生徒からは「クレチ」という苗字をもじって「ボチ」と呼ばれていた。
 冗談半分のあだ名だが、暮地本人は「生徒から親しみを込めてもらっている」と前向きに受け止めていた。

——けれど本当にそうなのだろうか。

授業中に軽い冗談を言っても、クラスは一瞬笑いかけて、すぐにシンと静まり返る。廊下ですれ違っても「こんにちは」と声をかけてくれる生徒はいるが、どこか上の空だ。
 (もしかして、俺は生徒に好かれてないんじゃないか……?)
 そんな不安が胸の奥に巣食っていた。

ある日の放課後、職員室で新聞をめくっていた暮地は、文化欄に目を止めた。庄戸正人のショートショートが掲載されている。国民的SF作家として名高い、あの庄戸正人だ。

短編の中では、両腕のない少女が「パート・アンドロイド」と呼ばれていた。(365
 未来的な響きと、どこか冗談めいた軽さを帯びた呼び名。

暮地は新聞を畳みながら、ふと思い出した。
 二年B組に、両腕のない生徒がいる。笠幡玲奈。おとなしく真面目な性格だが、決して浮いてはいない。友人もいて、昼休みには他の女子たちと一緒に笑い合っている。

(玲奈も、こんな言葉で軽くイジってやれば、もっとクラスで笑いが取れるかもしれない)
 暮地は安易にそう考えてしまった。

第2章 軽口

翌日の放課後、二年B組の教室はまだ賑やかだった。
 数人の男子が教卓の前で宿題を広げ、女子たちは窓際で笑いながらスマホを覗き込んでいる。
 笠幡玲奈も、その輪に静かに加わっていた。おとなしいが、自然に友人たちとやりとりしている。

暮地祐司――“ボチ”は、日直のノートを集めるついでに教室へ顔を出した。
「おーい、お前ら。まだ残って勉強か? えらいなあ」
 努めて明るい調子で声をかける。

数人の生徒が振り向き、「ボチ先生」と軽く手を振った。
 暮地は少し安堵しながら、ふと玲奈の机の前で足を止めた。昨日の新聞が頭に浮かぶ。

——ちょっとした冗談のつもりで。
 そう思って口が動いた。

「笠幡、お前……“パート・アンドロイド”だな」

一瞬で空気が変わった。
 玲奈の表情が固まり、目に光がにじんでいく。机に突っ伏して肩を震わせる。泣いているのだ。

教室のざわめきが止み、重たい沈黙が流れる。
 暮地は「しまった」と思った。

「……先生、それは言っちゃダメでしょ」
 前列にいた男子が、低い声でつぶやいた。

暮地はその顔を見た。普段は冗談に乗ってくるような、ヘラヘラ笑ってばかりの男子だ。
 ——なのに、今は真面目な顔をしている。
 その冷たい眼差しに、暮地の胸は鋭く突き刺された。

返す言葉を失い、ただ立ち尽くすしかなかった。
 冗談のつもりだった。場を和ませるつもりだった。
 けれど結果は、最悪の沈黙と玲奈の涙だった。

第3章 抗議

数日後の放課後。
 暮地祐司は校長室に呼び出された。

応接用のソファには、笠幡玲奈の両親が並んで座っている。玲奈も同席していた。制服の襟元をきちんと整え、背筋を伸ばしている。その横顔は毅然としていて、泣き出した日の面影はもうなかった。

暮地は正面に腰を下ろした。心臓がいやに速く脈打っている。

「先生」
 父親が低い声で切り出した。
「うちの娘を“アンドロイド”呼ばわりしたそうですね」

「い、いえ、その……新聞で読んだ言葉を、軽く冗談に……」
 暮地の声はかすれていた。

母親が遮るように言った。
「冗談でも、教師がそんなことを言うのは許されません。玲奈はクラスで普通にやっています。おとなしい子ですけど、友達もいて、みんなと一緒に過ごしてるんです。それをわざわざ傷つける必要がどこにあるんですか」

暮地は言葉を失い、玲奈を見た。彼女は視線を落としたまま、唇を固く結んでいる。

校長が机の向こうで咳払いした。
「暮地先生」
 抑えた声に、ぴりっとした緊張が走る。
「生徒と同じノリでやっていいと思っているのか? それも、生徒ですら言わないようなことを。教師は、言葉の重みをもっと自覚しなさい」

暮地の頬が熱くなった。視界がにじむ。
 (やっぱり俺は、生徒に“兄貴分”と思われてなんかいなかった。ただの“ボチ”で……軽薄な教師だったんだ)

玲奈の母親は深くため息をついた。
「この件は、コルチカムの会にも伝えさせていただきます。こんなこと、黙っていられませんから」

暮地は俯いたまま、小さく「はい」と答えるしかなかった。

第4章 教員不足なのに

翌日の昼休み。職員室の片隅で、暮地祐司は机に突っ伏すようにして座っていた。
 朝から授業に出ても、声が出ない。生徒たちの視線が気になって仕方がない。何を言っても、冷たい空気が返ってくるように感じてしまう。

——もう無理だ。
 胸の奥で何度もその言葉が反響した。

昼休みが終わる頃、暮地は校長室に向かった。ドアをノックし、中へ入る。
「校長先生……少しお時間、よろしいでしょうか」

校長は机から顔を上げ、暮地の表情を見てすぐに察したようだった。
「暮地先生……」

暮地は深く頭を下げた。
「私、この件で……教師としての自信を完全に失いました。もう、続けていくことができません。休職させていただきたいと考えています」

校長は椅子から立ち上がり、机を回って暮地の正面に来た。
「暮地先生、それだけは勘弁してくれ」
 声が切実だった。
「今どき、教員不足でなり手がいないんだ。あなたが抜けたら、代わりを見つけるのは至難の業だ」

暮地は俯いたまま、拳を握った。
「でも……私は、生徒を傷つけてしまいました。もう立ち直れる気がしません」

「失敗は誰にでもある」
 校長はきっぱりと言った。
「大事なのは、そこからどう立ち直るかだ。君はまだ若い。三十で辞めるなんて早すぎる」

暮地は顔を上げた。校長の目が真剣に自分を見つめている。
 だが、胸の奥に広がるのは、どうしても晴れない暗さだった。

「……分かりました」
 そう答えた暮地の瞳は、どこか死んだように濁っていた。

第5章 全国への波紋

その夜、笠幡家のリビングでは、玲奈の両親がテーブルを挟んで座っていた。
 夕食を済ませたばかりの玲奈は、隣のソファで静かにノートを広げている。彼女は普段通りに見えたが、両親の胸にはまだ昨日の校長室での緊張が残っていた。

「やっぱり、このままにしておくわけにはいかないわね」
 母親が言った。
「学校で謝ってもらったけど、また同じことが起きたらどうするの?」

父親は頷き、スマホを取り出した。
「コルチカムの会に連絡してみよう。あそこなら当事者団体だ。全国からの声を集めて動いてくれるはずだ」

玲奈は顔を上げた。
「……私、もう大丈夫だよ」
 そう言ったが、瞳はかすかに揺れていた。

父は優しく娘の頭を撫でた。
「お前が大丈夫でも、同じ思いをする子がいるかもしれないんだ」

翌日、コルチカムの事務局に電話が入った。
 事務局の女性スタッフは落ち着いた声で答えた。
「実は同じようなご相談が、今週だけでいくつも来ているんです。庄戸正人さんの“パート・アンドロイド”の件で……」

「うちの子もそれを引用されて——」
 母親が説明すると、スタッフは深くため息をついた。

「分かりました。会としても正式に声明を出さざるを得ないと思います。全国で問題になっていますから」

受話器の向こうの言葉に、母親は頷いた。
 それがどんな大きな波紋を呼ぶのか、まだ実感はなかった。

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