【小説・ヴィーナス症候群】[633]屋上春一番ローファー
ダンスウェアブランド・Confeitoで「トルソーさん」として働いている大里ひかりは、その日、実家の倉庫をひっくり返していた。
休日の今日は埃まみれの段ボールと格闘している。
居間のテレビでは天気予報。
「今日は関東地方で春一番が吹くでしょう」
倉庫の引き戸が、ガタ、と鳴った。
本当に風が強いらしい。
「ひかりー」
母が顔を出す。
「あんたの高校の頃の物、こんなに残ってるよ。使わないなら捨てたら?」
段ボールの中から、ぽろりと転がった。
黒いローファー。
かかとはすり減り、つま先には小さな傷。
何度も磨いた跡が、まだうっすら光っている。
ひかりは、それを持ち上げた。
軽い。
今、撮影で履くダンスシューズよりも、ずっと重かったはずなのに。

――高校の頃。
屋上に上がったことがあった。
何の用事だったかは、思い出せない。
掃除当番だったか、体育祭の準備だったか、誰かに呼ばれたのか。
ただ、風が強かった。
フェンスが鳴って、スカートがはためいて、
ローファーの底に砂が入り込んだ。
そのとき。
「ずるいね」
と、つぶやいた記憶がある。
誰に向かって言ったのか。
誰の何がずるかったのか。
思い出せない。
告白された?
断った?
親友が先に合格を決めた?
自分だけが泣かなかった?
どれも、ありそうで、決定的じゃない。
ただ、胸の奥が少しだけざらつく。
ひかりはローファーを床に置き、足を入れてみた。
きつい。
当たり前だ。
今はダンサーみたいな身体つきだし、脚も鍛えている。
立ち上がると、コン、と懐かしい音が鳴った。
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