【小説・ヴィーナス症候群】[741]眠れない
眠れない。
プライベートジェットの機内で合わせたはずの時計は、到着した瞬間に裏切る。
カーテンの向こう、まだ夜明け前の東京。静かすぎて、かえって時間のずれが際立つ。
ベッドに横たわったまま、烏丸小路麗羅は視線だけを動かした。
スーツケースの中、黒いケースに収められた資料。今回の来日の理由――古美術。
公開オークションではない。
都内のどこかで、ひっそりと開かれる内覧。
茶碗が一点。桃山期、とされているが、来歴に空白がある。
「空白があるからこそ、いいのだけれど」
小さく呟く。
完璧に整った来歴は、すでに値段がつきすぎている。
誰も判断できない曖昧さ。そこにだけ、余地がある。
だが問題は別にあった。
明日――いや、数時間後の内覧は午前十時。
ジュネーブの感覚では、まだ深夜だ。
眠ろうとしても、意識は沈まない。
浅い水面を漂うように、思考だけが浮かび続ける。
あの茶碗の釉薬の流れ。
高台の削り。
もし本当に桃山なら、あの荒さは説明がつく。
だが、あまりにも“出来すぎている”気もする。
贋作なら、それはそれでいい。
問題は、“誰がどの意図で作ったか”だ。
「……結局、見に行くしかないわね」
身体を起こす。
眠れないまま、夜をやり過ごすのは慣れている。
時差ではなく、判断のために眠らない夜は、これまでにも何度もあった。
カーテンをわずかに開けると、遠くに光がにじみ始めていた。
東京の朝は、思ったより早い。
「時間は向こうから合わせてくるものよ」
誰に言うでもなくそう言って、麗羅は静かに支度を始めた。
眠れない夜は、取引の前触れにすぎなかった。

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