【小説・ヴィーナス症候群】(8)「トルソーさん」という生き方
鏡の前で、静かに一回転してみる。
純白のウェディングドレスがふわりと揺れた。
チュールの重なりが作る柔らかなボリューム、胸元のビーズ刺繍のきらめき、背中に流れるロングトレーン。重さと張りがあるのに、動き出すとまるで空気のように軽やかに広がる。私の体に着せられたそれは、来年の春コレクション向けの新作だ。
この瞬間、私は「着る人」ではなく、「着せられる台」だ。
ウェディングラインの最終確認のため、今日も両腕の義手を外して立っている。腕のない私の肩から、布地が美しく落ちる。試作段階では確認できなかったドレスの輪郭が、ようやく完成したかのように映る。

社内での私は「トルソーさん」。静かに立って、動いて、回る。それが私の仕事。喜びや感動は要らない。ただ、形を見せることに特化した存在。
「いいわね……やっぱり莉子ちゃんに着てもらうと、スカートの広がり方が全然違うのよ」
商品部の島村さんが、かがみ込みながら裾を調整していた。
「ありがとうございます」
私は小さく微笑むけれど、胸の奥が少しだけ軋んだ。
――私なんて、所詮マネキンの代わりでしかないんだろうか。
ドレスが完成するための一部。だけど、それは“花嫁になる人”ではない。私は誰かの夢を纏いながら、その夢の中心にはなれない。
「第2のサリドマイド事件」で生まれた両腕のないヴィーナス児の女性が、こうした試着モデル――通称「トルソーさん」として採用されることは、今では珍しいことではなかった。むしろそれは、視覚障害者がマッサージ業に多く就くのと同じように、制度的にも文化的にも“当然の職業選択”として認識されつつある。欠けた身体が、そのまま衣服の構造と溶け合い、布の落ち方やシルエットを自然に可視化できる――そうした身体性の特異さが、今では一種の“職能”とされているのだった。
ウェディングラインでは特に、「袖なし」「オフショルダー」などのデザインに対応するモデルとして需要が高く、トルソーでは表現できない“肌の自然なカーブ”を確認するために、私たちが選ばれている。
大手企業の障害者雇用制度の一環として、それは表向き“善政”として評価されている。福利厚生も十分、給料も同年代の平均以上。ドレスも毎日違うものが着られるし、展示会のたびに、写真を撮られ、名前を覚えられる。
それでも――
更衣室で義手を外すとき、鏡に映る自分の体にふと息が詰まる。肩先からすとんと落ちたライン。ドレスの布が、あまりにも自然に体に馴染んでいて、それが“欠けていること”に由来する美しさであることを思い知らされる。
それでも、私はこの仕事を続けている。理由はたくさんあるけれど、そのひとつに「社食の時間」がある。
昼休み、義手をつけ直して社員食堂へ向かう。今日のメニューはかぼちゃのスープとオムレツ。義手の先でフォークを扱いながら、私は自分の体がまた“自分”に戻っていくのを感じていた。
「ねえ莉子、今日のドレス……ほんと綺麗だった。なんか、ウェディング雑誌の表紙みたいだったよ」
向かいに座った奈緒が、サラダを前に笑っていた。
彼女も、私と同じく両腕のないヴィーナス児だ。トルソーとして並ぶときは、二人とも義手を外して立つ。沈黙の中で、布をまとう。その時間はいつも、ほんの少しだけ孤独だ。
「ありがと。でも……あれ、私が結婚するわけじゃないしね」
私は少し笑って、スープをすくった。
「でも、莉子が着たことで、あのドレスに“人”が入ったんだよ。ただの白い布じゃなくなった」
奈緒の言葉は、優しかった。
「トルソーって呼ばれるの、最初ちょっと傷ついたけど…今はまあ、制服みたいなもんだと思ってる」
そう言った奈緒に、私は静かにうなずいた。
「制服、か……うん、わかるよ、それ」
私たちは、誰よりもドレスを着て、誰よりも動かず、誰よりも静かに美しさを見せる。
そうして、誰かの夢に触れるたび、少しだけ自分のことも許せるようになる。
それでもときどき、思う。
「トルソーさん」じゃなく、「莉子さん」と呼ばれたら、私はもっと――このドレスが、似合ったのかもしれないって。
