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【小説・ヴィーナス症候群】[380]ススキノがすすき野原だった頃 🌈虹色創作部🌈

札幌の空に、秋の光が澄みはじめていた。
ライターの神俣葵は、取材ノートを胸に抱え、市役所の庁舎を出た。両肩から伸びる義手の金属が、低い日差しを受けて淡く光った。
この季節になっても、あの事件の余波は消えない。

この夏、札幌市内の木造アパートで起きた熱中症死亡事件。病気で働けなくなった男性が、電気代を惜しんで扇風機すら回せずに亡くなった。窓を開けていたため、異臭が外に漏れ、数日後に発見されたという。
秋に入って、遺族が行政の責任を問う訴訟を起こした。だが葵は、そのニュースを見て、ふと立ち止まった。

――訴える前に、誰かが助けることはできなかったのだろうか。
もちろん、取材者がそんな感情を挟んではいけない。けれど、福祉という制度と、人を生かす手の届かなさのあいだで、胸の奥に重たい痛みが残った。

気象台では、若い技官がグラフを示しながら言った。
「地球温暖化の影響は、高緯度ほど顕著なんです。札幌も東京と同じくらいの“熱帯夜日数”を記録するようになってきています」

市役所の担当者は、「制度上は支援の手を差し伸べられる段階ではなかった」と繰り返した。
葵はペンを止め、静かに息を吐いた。紙の上では、人の死も数値のひとつに変わってしまう。

取材のあと、少しだけ気を抜こうと思った。北大で開拓史を研究している友人――ポスドクの男と、ススキノで飲む約束をしていたのだ。
地下鉄の出口を上がると、夜風の冷たさが義手の金属をきしませた。ネオンが滲み、街は秋の湿気に光っている。

「文系の研究者も大変だよ。例の事件、ニュースで見たけど、他人事じゃない」
カウンターの向こうで友人が苦笑しながらビールを注いだ。

彼は北大のポスドク――三年任期の二年目。次の科研費が取れなければ、来春には机を失う。
「うちの研究室なんて、みんな任期付き。プロジェクトが終わったら全員バラバラ。次の採択落ちたら、その日から無職。アカデミアって、福祉より先に崩壊しそうだよ」

葵はグラスの泡を見つめた。
「そういえばね」と友人が話題を変えた。「明治の初め、このススキノ一帯はほんとうに“すすき野原”だったんだ。名前の通りさ。開拓使が最初に手を入れた場所で、ここから札幌のまちが始まった」
「すすき野原……」葵はつぶやいた。

友人は少し間をおいて、静かに続けた。
「この土地、もともとは“サッ・ポロ・ペッ”って呼ばれてたんだ。アイヌ語で“乾いた大きな川”。今の豊平川のことだよ。つまりこのまちは、もともと川と風と草の国だったんだ」

葵はガラス越しの街を見た。無数の電灯が咲き、車の流れが光の川のように街を横切る。
――かつて“乾いた大きな川”と呼ばれた場所に、今は熱気と光があふれている。

ノートを開き、葵は静かに一行だけ書きつけた。

――都市は、風と草と、誰かの生きた跡の上に立っている。

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