見出し画像

【小説・ヴィーナス症候群】[946]ハラハラするんですけど

新大久保の職安通りから少し奥に入ったビルの2階。
韓流フェミニンブランド「HANEUL(ハヌル)」のアトリエ兼フィッティングルームには、レースや柔らかなチュール生地のドレスがずらりと並んでいる。

「……ふぅ」

撮影の合間の15分休憩。
万之瀬はるかは、義手の指先で繊細なシフォン生地を引っ掛けないよう慎重に扱いながら、ハンガーラックの隙間のパイプ椅子に腰を下ろした。

両肩の関節から先は、無機質で滑らかなシルバーの義手。
彼女は、「HANEUL」の専属試着モデル——通称「トルソーさん」だ。

膝の上にスマホを置く。
画面で再生するのは、今SNSで世界的なバズを起こしている配信ドラマ『ドミノ・ソウル』の最新話だ。

「……また始まった」
はるかは生唾をのみ込み、画面を食い入るように見つめた。

ドラマの舞台は、雨の降りしきるソウル・汝矣島。
画面の中では、地下の古い洞道で作業員が「まあ、このカバーの交換は明日でケンチャナヨ(大丈夫)」と笑いながら現場を後にするシーンが流れている。

(ダメだって! それ、絶対明日じゃ遅いヤツだから……!)
はるかは思わず心の中で叫んだ。

義手の指先がギュッとスマホの端末を握りしめる。モーターの小さな駆動音が静かな室内にかすかに響いた。
視聴者の嫌な予感は一秒も裏切られない。

小さな漏電から始まった煙は、点検費用が削減された消火設備をあざ笑うかのように地下を駆け巡り、汝矣島全体の通信ケーブルを焼き切っていく。

画面の中では、金融街の決済システムが沈黙し、地下鉄の自動改札が暴走を始めた。
「うわ、うわ……! 改札開いたまんまパニックになってる……!」

はるかは両手で口元を覆った。
金属の冷たい質感が唇に触れるのも忘れて、画面の中の惨状に引き込まれる。

事態を重く見た主人公の若手エンジニアが、「全域に避難勧告を出してください!」と上司に詰め寄る。
しかし、上司は「今そんな大騒ぎをしたら市長に怒られる。
明日には復旧するからケンチャナヨ」と事態を揉み消そうとするのだ。

(また出た『ケンチャナヨ』……! 頼むからその上司、一回殴らせて……!)
はるかの額にじっとりと汗が滲む。

画面の中では、警察への連絡が途絶えたことで漢江に架かる大橋の上で無謀な割り込み事故が発生。
後ろからは危険物を積んだ大型トラックが猛スピードで迫り、避難しようとした人々は車閉じ込め状態になっていた。

ピタゴラスイッチのように、ひとつひとつの「ちょっとした油断」が、ソウルという巨大都市をジワジワと、けれど確実に壊滅へと追い詰めていく。

「ああっ……! 逃げて! 後ろ! 後ろ見てー……!」
「——はるかちゃん? どうしたの、そんな声出して」
「ひゃいっ!?」

不意に声をかけられ、はるかは飛び上がるように弾けた。
ドアの隙間から、ブランドのスタイリストが不思議そうな顔で覗き込んでいる。

「あ、ごめんなさい! ちょっと……『ドミノ・ソウル』見てて……」
「あはは、あれね! 今みんなハマってるよね。安全基準ガタガタすぎて胃が痛くなるやつ」
「本当に胃が痛いです……あの、続きが気になりすぎて仕事に戻れるか怪しいです……」

はるかが情けない顔でスマホを掲げると、スタイリストは笑いながら「はいはい、あと5分で後半の撮影始めるから着替えてね」とパタンとドアを閉めた。

「ふぅ……」
はるかは小さく息を吐き、再生を一時停止した。

画面の中では、燃え盛る橋の上で主人公が絶望的な表情で立ち尽くしている。

「みんなが『大丈夫』って言ってる時が一番大丈夫じゃないんだよね……」

自覚なしにドミノを倒し続けるドラマの登場人物たちに深く溜息をつきながら、はるかは義手の指を器用に滑らせ、大切に保管されている「HANEUL」の次の衣装へ手を伸ばした。

(おわり)

#AI小説 #小説 #ヴィーナス児 #ヴィーナス症候群 #近未来小説
#万之瀬はるか
#アマノ文筆クラブ

いいなと思ったら応援しよう!