【小説・ヴィーナス症候群】[351]焚き火ヨガ 🌈虹色創作部🌈
赤坂にあるドレスブランド「Felice」の控え室には、シフォンやチュールの残り香と、スチームアイロンの熱が微かに漂っていた。
午後三時をまわった頃。展示会撮影が一段落し、専属トルソーたちは束の間の休憩を取っていた。
この職場では、生まれつき両腕のない女性たちが、ドレスを着て立ち続ける――いわゆる「トルソーさん」として雇用されている。
立ち姿の美しさと、衣装を邪魔しない身体。それが、この仕事に求められる。
檜皮谷奈緒(ひわだに・なお)は、その中の一人だった。肩に柔らかなチュールを添えた、静けさをまとうペールピンクのドレープドレスを着て、さっきまでカタログ用の撮影に立っていた。
「ねえ由美ちゃん」
奈緒が、鏡の前で前髪を整えていた夜久野由美(やくの・ゆみ)に声をかける。
「この前さ、練馬いいヨガ教室見つけたって言ってたじゃない。(第309話)
……私も世田谷で見つけたの。ちょっと変わってるけど、すごくいいの」
ソファに寝転んでいた武隈莉子(たけくま・りこ)が、クッションを抱えたまま顔だけこちらに向けた。
「なになに、どこ?」
奈緒の目が細くなる。
あの時間を思い出すように、ちょっとだけ、微笑んでから。
「毎週、近所の公園でね。焚き火を囲んで、みんなでヨガやるの。
足元に火があって、パチパチ燃えてて……でも周りは静かで。
すごいリラックスできるのよ。無になれるというか――」
「た、焚き火……?」
由美が眉をひそめ、莉子は爆笑寸前の顔になった。
「そ、それって……大丈夫なの? 通報されないの?」
「ちゃんと届出してるみたいよ。あくまで“教室”だから。先生もいるし」
奈緒は淡々と答える。「近所のマダムとかも来てるの」
「マダム……!」と由美が小声で繰り返し、莉子は笑いをこらえながら「ちょっと興味あるかも」とつぶやいた。
***
その日の業務が終わると、奈緒は着替えを済ませて控え室を後にした。
ロッカーに私服をかけた時点で、もう“トルソーさん”ではない。
彼女はLow bunにまとめた髪に手を添えず、背中で小さくうなずいた。
スパゲッティストラップのタンクトップにヨガパンツ、白いトレーニングシューズ。
肩から先のないなめらかなラインが、少しだけ夕日を受けて光っていた。
***
日が傾いた頃。
近くの公園にはすでに火が灯されていた。オレンジ色の炎が、小さな輪になって燃えている。
その周りにヨガマットが敷かれ、5人ほどが静かにストレッチをしていた。
奈緒は、音を立てないように靴を脱ぎ、そっとマットの上に座る。
誰も彼女の両腕がないことなど気にしない。ここでは、動きよりも「静けさ」を大切にするから。
炎が揺れるたび、頬や肩にあたる光の角度が変わる。
遠くで子供の声がして、風が草を撫で、誰かが深く息を吐いた。
奈緒はまぶたを閉じた。
「布の中の自分」でもなく、「商品を着せられる身体」でもない。
ただ、呼吸しているだけの、生身の自分に還る時間。
それが、焚き火の中にある静寂だった。

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