【小説・ヴィーナス症候群】[422]あんな奴やめとけよ
赤坂のFeliceアトリエは、朝から冷え込んでいた。
古い窓枠の外では街路樹が揺れ、ニュースが流れている。
冬型の気圧配置の影響で、本日“木枯らし”が吹く見込みです──
スタッフは肩をすくめ、ホットコーヒーを手にしていた。
今日は 新作セミフォーマルドレスの前撮り。
しかし、その主役となるドレスがまだ届かない。
「首都高湾岸線、通行止め続いてます。浦安の倉庫が完全に足止めらしくて……」
とアシスタントが眉を下げる。
「仕方ないですよね」
と、トルソーさんの檜皮谷奈緒が穏やかに笑った。
長い黒髪をまとめ、肩には義手。
生まれつき両腕のない“ヴィーナス児”で、Feliceの撮影には欠かせない存在だ。
奈緒はふと思い出したように、紙袋から包みを取り出した。
「そういえば、徳島の実家から和三盆糖が送られてきたんです。よろしければ皆さんでどうぞ」
「え、いいの?こんな高級なの」
「本物の和三盆なんて久しぶりだよ……!」
箱を開けると、小さく干菓子が並んでいる。
空気のように軽く、舌に乗せるとすっと溶ける。
「徳島は和三盆の産地なんです。徳島市内じゃなくて、脇町とか上板とか、そっちのほうの」
奈緒の説明にスタッフが頷き、木枯らしの寒さとは対照的に空気が温かくなった。
ほどなくして「着きましたー!」と声が上がる。
遅れていたドレスがようやく到着したのだ。
エメラルドがかった緑の布が箱からあらわれ、場の空気が一変する。
スタッフは撮影モードへ一気に切り替わった。
奈緒も控え室に入り、静かにドレスへ着替える。
肩の義手を外し、滑らかな肩と首筋のラインが布を受け止める。
“動かない身体”が、衣装をもっとも美しく見せる──それが「トルソーさん」。

やがてセットに立った奈緒を、カメラマンがライトの位置を調整しながら見つめる。
「奈緒ちゃん、準備OK?」
「はい、大丈夫です」
少し間があき、奈緒がぽつりと言った。
「……私も、いつか撮ってもらいたいんです」
「え、誰に?」
「最近話題の宇佐美環さん。あんなイケメンで陰影のあるカメラマン……いつか、ああいう人に撮ってほしいです」
その言葉に、カメラマンの平岡は露骨に顔をしかめた。
「あー、あんな奴やめとけよ。」
「えっ」
「噂知らないの? あいつ、被写体の女の子をすぐ食っちゃうって業界中で有名なんだよ」
奈緒の目がまんまるになる。
「やば……」
スタッフの何人かが苦笑し、何人かは「まあね……」と目をそらした。
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