【小説・ヴィーナス症候群】(745)痴漢に対してなら何をしても許されるんですか?
神田の雑居ビル三階、コルチカムの会の本部事務局は、いつもの午後の静けさの中にあった。
階上つばさは厚生労働省に提出する書類の整理をしている。書式の細かい違いを確認しながら、義手でキーボードを操作する。
その向かいでは、事務局長の守実徹が相談記録のファイルをめくっていた。
「すみません」
ドアが開き、中年の女性が入ってくる。少し険しい顔つきだった。
「はい、ご相談ですか」
つばさが応じると、女は迷わず言った。
「人を探してるんです。若い女性で、両腕が義手で……あなたたちのところの人じゃないかと思って」
守実が椅子を引き、「どういったご事情でしょうか」と促す。
応接スペースに移ると、女はすぐに話し始めた。
東上線の電車の中で息子が女性とトラブルになったこと。
酔っていて、触ってしまったかもしれないこと。
そして振り払われて腕を負傷したこと。
「神経をやってるって言われて、片腕が麻痺してるんです。近所でも聞きました。でも誰も知らないって言うんです。でも、泣き寝入りなんてできないでしょう?」(第742話)
つばさは思わず口を挟んだ。
「え、つまり痴漢したってこと? そもそも痴漢が——」

「だから!」
女の声が跳ね上がる。
「痴漢したからって、腕が麻痺するまで怪我させられて、知らんぷりで許されるんですかって聞いてるんです!」
室内の空気が一気に張り詰める。守実が間に入った。
「そのような件でしたら、まずは警察の方で——」
「とっくに行ってます!でも女性にも被害者性があるからって、個人情報だから教えられないって! ちょっと触られたくらいで何が被害者性ですか。こっちは後遺症が残る怪我をさせられてるんですよ」
守実は声の調子を変えずに続ける。
「あの、息子さんの受傷についてはご心配のことと存じますが、個人の名簿を提供することはできかねます。東上線沿線だけでも相当数いらっしゃいます。利用していたからといって在住しているとも限りませんし…」
女の表情が歪んだ。
「じゃあどうすればいいんですか? 国が被害者に泣き寝入りしろって言うわけですか?あなた達だって厚生労働省からジャブジャブ補助金もらってるんでしょ?」
「いや、そういう話では——」
そのとき、女の視線がつばさに向いた。金属の肩義手をじっと見据える。
「車が走る凶器であるように、あなた達は凶器を付けて歩いてるの。そんな鉄の棒を振り回したら危ないに決まってるでしょ!」
つばさは何も言わない。守実も口を挟まない。
女は椅子を引いて立ち上がった。
「そんな誠意のない対応ばっかりするならね、こっちも被害者の会、作ってやるから!」
そう言い残して、ドアを強く開けて出ていった。
しばらく誰も動かなかった。室内に残るのは、さっきまでのやり取りの余熱だけだ。
守実が小さく呟く。
「……まずいな」
つばさは視線を落としたまま言う。
「誰だろう。そもそも、痴漢するなって話だけど」
守実は頷いた。
「それはそうだが……各会員に注意喚起、出しておくか」
つばさは短く「うん」と答え、再びキーボードに向き直る。
さっきまでと同じ作業のはずなのに、画面の文字が少しだけ重く感じられた。
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