【小説・ヴィーナス症候群】[932]色眼鏡
レマン湖の夜明けは、常に微かな不実を孕んでいる。
窓外に広がるアルプスの稜線は、夜の帳を脱ぎ捨てきれず、蒼く沈んでいる。
その冷徹な輪郭は、鏡のように静まり返った湖面に映り込み、現実と虚構の境界を曖昧にしていた。
烏丸小路麗羅は、その不確かな蒼の世界を、リフォーマーの革張りのベッドに横たわりながら見つめていた。
「よし、レイラ。呼吸を止めないで」
パーソナルトレーナーの、無駄のない筋肉に覆われた腕が、麗羅の右脚にストラップを掛ける。
生まれつき腕を持たない彼女にとって、このピラティス・マシンは、四肢の機能を拡張する義体のような存在だった。
脚に掛かる負荷は、彼女の強靭な体幹を媒介し、存在しないはずの指先へと抜けていく。
ストラップを引く。機械的なスプリングのきしみが、静寂を破る。
「……何のために、こんなことを?」
麗羅は、内なる声に、ふと足を止めた。
トレーナーの視線が微かに動く。
「どうした? 重すぎるか?」
「いえ、違うわ」
彼女の感情は、常に洗練された静寂の奥に、注意深く隠されている。
「ただ、効率について、少しね」
彼女は再び、脚をゆっくりと旋回させ始めた。

何のために?
その答えは、彼女自身が最もよく知っている。
この完璧に均整の取れた体型を維持するため。
姿勢の美しさを、ミリ単位で修正するため。
そして、来るべきガラ・パーティーで、オートクチュールのドレスを、皮膚の一部のように着こなすためだ。
「並み居る『色眼鏡』に、隙を見せないため」
彼女は、心の中で、その言葉を苦く噛み締めた。
ジュネーブの社交界。ARMA Violetの令嬢。
彼女を囲むすべての環境が、強力な「色眼鏡」となって、彼女を規定している。
人々は、彼女の失われた腕の奥に、憐れみを見ようとする。
あるいは、彼女の巨額の資産の背後に、成金の傲慢さを見ようとする。
彼女が慈善活動に取り組めば、それは偽善だと見なされ、彼女が沈黙を守れば、それは無知だと見なされる。
彼らの視線は、彼女のありのままの姿を捉えることはない。
常に、彼らの偏見というフィルターを通した「レイラ」像を、彼女に押し付けているのだ。
この完璧な身体は、その視線に対抗するための、硝子の鎧だった。
傷一つない、完璧な美しさを見せつけることで、彼らの憐れみや侮蔑を、その表面で弾き返す。
「でも、それは、私自身も『色眼鏡』を掛けていることにならない?」
脚の旋回を、さらにスローモーションのように遅くする。
筋肉が、悲鳴に近い緊張を上げる。
私が、彼らの視線を先回りして、自分自身を品定めしている。
私が、彼らの偏見という監禁から、逃れられないと思い込んでいる。
「社会的動物として生まれてきた以上、色眼鏡から自由になることは、無理なの?」
彼女は、意識を、レマン湖の蒼から、もっと遠い、サバンナの光景へと飛ばした。
彼女の財団、Violet Horizonが支援する保護区。
そこに棲む象の群れ。ライオンのプライド。
彼らだって、社会を形成している。
象の群れは、長老のメスの経験則という「社会の目」に従って移動する。
ライオンの群れは、序列という「社会のルール」に基づいて獲物を分け合う。
彼らだって、仲間の行動を、群れの文脈の中で、規定している。
それは、彼らの社会を維持するための、生存戦略だ。
人間という群れにおいて、その「社会の目」は、より複雑で、より悪意に満ちた「色眼鏡」となって、個を縛り付けているに過ぎない。
「私たちは、お互いを品定めし合うことでしか、社会という群れに、留まることができないのかしら」
麗羅の体幹は、その哲学的探求の重みに耐えるように、完璧な静止を保っていた。
トレーナーは、彼女のその静寂に、驚異的な集中力を見ていたが、その奥底で蠢く諦念には、気づく由もなかった。
色眼鏡から、自由になること。
それは、人間としての社会性を、放棄することと同義なのかもしれない。
完全に孤独で、誰の目も気にしない、絶対的な個として生きること。
それは、あまりに寒々しい、完全な自由だ。
私は、この硝子の鎧を着て、彼らの色眼鏡の前に、立つ。
それは、私が彼らに媚びるためではない。
私が、この人間という滑稽な群れの中で、私自身の機会を、整えるためだ。
私が、私自身の「完成された世界」を、彼らの偏見から、守り抜くためだ。
「よし、レイラ。完璧だ。今日のセッションは、ここまで」
トレーナーの言葉で、麗羅の身体は、静かに弛緩した。
レマン湖の蒼は、いつの間にか、朝の陽光に、黄金色へと変わり始めていた。
麗羅は、リフォーマーから降り、トレーナーから手渡された水を、存在しない腕で、しかし完璧な所作で受け取るように、身体をわずかに傾けた。
「ありがとう。……良いセッションだったわ」
ガラ・パーティーでは、大胆でファビュラスなドレスを着よう。
彼らの色眼鏡を、その美しさで、弾き返す。
あるいは、その美しさの中に、琥珀のように、監禁してしまおう。
私は、私自身の「未完成の世界」を、この完璧な身体で、生き抜いていく。
社会的動物としての、滑稽な諦念と、絶対的な規律を、その胸に秘めて。
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