短編小説「瀬戸際の棋士」
対局日の朝は、いつも妙に静かだ。
町は通勤のざわめきで満ちているはずなのに、三階建ての古びた将棋会館に足を踏み入れた瞬間、世界は薄い障子紙を一枚挟んだ向こう側へ遠のく。時計の針の音、廊下を渡るスリッパの擦れる音、湯呑みに注がれる茶の細い流れ。勝負の場にあるのは、たいていそういう取るに足らない音ばかりで、肝心の人間の声は小さい。
五十嵐修司は、その朝も一番端の洗面台で、剃り残した顎を指でなぞっていた。
鏡の中の自分は四十二歳にしては老けて見える。目の下の皮膚は少し垂れ、頬は以前よりこけた。かつて「将棋界の彗星」と言われた面影は、いまでは新聞の縮刷版にしか残っていない。
今日負ければ、降級点が確定する。
もう一つ降級点がつけば、フリークラス。そこから先は、引退の二文字が現実の影となって、朝も昼もなく彼の背後に張り付くだろう。
盤の前に座る前から、勝負はすでに始まっている。誰もがそう言う。だが、実際には違う。始まっているのは勝負ではない。終わりだ。勝負は、終わりの匂いを嗅ぎ分けるところから始まる。
「おはようございます」
背後から声をかけられ、五十嵐は振り返った。
相手の橘湊は二十二歳だった。細身で、背広がまだ身体に馴染んでいない。デビュー以来、AI研究会出身の新鋭として騒がれ、序盤の精度と終盤の速度で一気に順位戦を駆け上がってきた。若手の中では珍しく、笑うと幼さが残る顔をしていた。
「おはよう」
五十嵐が答えると、橘はきちんと頭を下げた。
「今日は、よろしくお願いします」
こちらこそ、と言いながら、五十嵐はその若さを眩しいとは思わなかった。羨ましくもない。ただ、恐ろしいだけだ。若いというのは、未来があることではない。こちらの過去を平気で踏み越えてくることだ。
対局室には床の間があり、季節外れの椿が一輪だけ掛花入れにさしてあった。赤が少し黒く沈んでいる。誰が用意したのか知らないが、血のようで縁起が悪いと五十嵐は思った。
振り駒の結果、後手番になった。
先手の橘は、初手を軽く打ち下ろした。7六歩。
その音を聞いた途端、五十嵐の胸の奥に、ずいぶん昔の別の音が甦った。
木製の将棋盤に、父が初めて駒を置いた音だった。
*
父は町工場の旋盤工だった。油と鉄の匂いを身体にしみ込ませて帰ってきては、夕飯のあとで将棋盤を広げた。決して強くはなかったが、負けず嫌いだった。七つの修司にとって、父の指す将棋は世界の規則そのものだった。
「いいか、修司。形勢が悪くなってからが将棋だ」
父はよくそう言った。
「いいときは、誰でも指せる。悪いときに、手が見えるかどうかだ」
その言葉を、修司は長いこと誤解していた。粘れば勝てる、最後まで諦めるな、そういう安い励ましだと思っていた。だが、父が本当に言いたかったのは、もっと別のことだったのかもしれない。
人間というものは、追い詰められたときにだけ、自分の本当の癖を知る。
攻めたくなる者。逃げたくなる者。きれいに負けたがる者。相手のミスだけを待つ者。修司は若い頃、形勢が悪くなると盤面を過剰に複雑にして、どこかで逆転の目が生まれることを期待する癖があった。その癖は天才肌だと褒められもしたが、三十を過ぎる頃には「無理攻めが多い」「収拾がつかない」と書かれるようになった。
賞賛は、ある日を境に欠点の別名になる。
*
昼食休憩までに、局面は橘の研究範囲に入っているとしか思えない速さで進んだ。彼は考えているように見せるのも上手かったが、指先が示す確信を五十嵐は見逃さなかった。指し手が盤上に着地するほんの一瞬前に、勝っている人間の駒はすでに居場所を知っている。
昼食は五十嵐が親子丼、橘がざるそばだった。
記録係の奨励会員が控えめな声で注文を読み上げたとき、五十嵐は自分が親子丼と答えたことを少しだけ後悔した。勝負の前に卵は縁起がいいとか悪いとか、そういうことをまだどこかで気にしている自分が嫌になる。
休憩室には古いソファがあって、そこに座ると背中のばねが変な音を立てる。五十嵐は湯呑みを持ったまま、スマートフォンの画面を見た。通知は二件。ひとつは出版社の担当からで、以前連載していた観戦記エッセイの単行本化についての事務的な連絡。もうひとつは、元妻の葉子からだった。
――今日、凛がそっちの対局を見てるって。帰りに電話できそうならしてあげて。
凛は高校一年の娘だ。中学に上がる頃から、五十嵐とはほとんど会っていない。会えばぎこちなくなるだけだと、互いに知っていたからだ。親権は葉子が持っている。離婚の理由は一言では片づけられないが、将棋が一因だったことは間違いない。
画面を見つめていると、隣に誰かが腰を下ろした。
「昔、先生の棋譜を並べてました」
橘だった。彼は自分のざるそばの汁椀を丁寧に持ったまま、少し視線を落として言った。
「中学生の頃です。対三浦九段戦の横歩取り。あれ、すごかったです」
五十嵐は笑うべきか迷った。
「二十年前の将棋だ」
「でも、いま見てもすごいです」
「いま見れば、穴だらけだよ。AIにかければ、一時間で酷評される」
「それでも、人間がああいう手を指したってことに意味があると思ってます」
若者らしい歯の浮くような台詞だ、と思ったが、橘の言い方には媚びがなかった。事実としてそう考えているのだろう。
「先生の将棋って、怖いんです」
橘は続けた。
「たぶん、勝ってる側も。だから僕は、今日、序盤で決めようと思ってました」
なるほど、と五十嵐は思った。正直な若者は侮れない。
「じゃあ、まだ決まってないってことか」
橘は初めて少しだけ笑った。
「決まってたら、僕はこんなところでしゃべってません」
休憩終了の声がかかると、二人は同時に立ち上がった。そのとき五十嵐は、胸のどこかに、小さな火が入るのを感じた。それは若い相手への対抗心というより、まだ自分を終わった人間だと認めたくない、見苦しい執着に近かった。
だが将棋は、見苦しい執着を恥じる者から先に負ける。
*
午後三時過ぎ、局面は明らかに悪くなっていた。
五十嵐の玉は薄く、飛車は働きが鈍い。対して橘の陣形は堅く、攻め駒も充実している。控室の検討陣がどう評しているかは見なくてもわかる。後手苦しい。いや、敗勢かもしれない。
記録係が席を外したとき、部屋はいっそう静かになった。
静かなところへ追い詰められると、人間は過去の声を勝手に聞き始める。
葉子に、もうやめたら、と言われた夜のことを五十嵐は思い出した。まだ凛が小学三年の頃だった。
「なにを?」
「将棋」
葉子は食器を洗いながら、振り向きもせずに言った。
「少なくとも、生活の全部を懸けるのは」
「それしかやってこなかったんだ」
「知ってる」
「じゃあ、やめろなんて簡単に言うな」
言った瞬間に、ああ失敗した、と思った。葉子は簡単に言っていない。むしろ、何年も黙ってきたのだ。
「簡単だよ」と、葉子は水を止めて答えた。「だって、あなたは私たちに懸けてないもの」
そのとき、五十嵐は反論できなかった。盤の前ではいくらでも言葉が見つかるのに、日常では一手も浮かばない。たぶん、勝ち負けのはっきりしない場所では、人は自分の弱さを直視しなくてすむ手筋ばかり選んでしまうのだ。
数年後、離婚届に判を押した日、凛は何も言わなかった。ただ玄関先で、学校の上履き袋を握ったまま、父親をまっすぐに見ていた。その目が責めていたのか、ただ見ていただけなのか、五十嵐にはいまでもわからない。
盤上に視線を戻す。
悪い。
だが、即詰みではない。
そしてその違いだけが、将棋では宇宙ほど大きい。
五十嵐は長考に入った。読みを深く潜っていくと、局面はやがて盤の形を失い、ただ手順の明滅になる。銀を打つ。歩を垂らす。飛車を切る。角を捨てる。そのたびに、相手玉の呼吸が近くなったり遠くなったりする。
やがて、一筋の細い道が見えた。
それは最善手ではないかもしれない。AIに問えば、おそらく別の手を示すだろう。だが、人間の橘湊が、この長い一日をここまで過ごし、この部屋の空気を吸い、こちらの沈黙と粘りを感じ続けてきた、その延長線上にある一手としては、もっとも嫌な手に見えた。
五十嵐は、盤の右辺に歩を打った。
ぱちり、と乾いた音がした。
橘の目が、初めて大きく揺れた。
*
その一手は、詰めろでも好手でもなかった。
ただ、局面の意味を変える手だった。
受ければ勝ちに近づく。しかし受け方をひとつ間違えれば寄る。無視して攻め合えば、こちらにも際どい勝機がある。形勢判断を、数値から体感へ引きずり戻す手。若い頃の五十嵐が好んで多用し、年をとってからは「悪癖」と呼ばれた、瀬戸際の手だった。
橘は初めて長考した。
眉間に皺を寄せ、指を組み、ほどき、また駒に触れかけてやめる。残り時間はまだある。しかし、一度立ち止まった流れは戻らない。将棋では、時間そのものより、時間の感じ方のほうが人を追い詰める。
五十嵐は、相手の呼吸が浅くなるのを見ていた。
そのとき、奇妙なことに、自分の胸の内から勝ちたいという欲がすっと引いていくのを感じた。いや、違う。勝ちたいのは勝ちたい。ただ、それ以上に、ようやく盤の前でまっすぐに座れている気がしたのだ。
ここまで来て、取り繕う必要はない。
負けたくない。終わりたくない。娘に情けない背中を見せたくない。自分の将棋を、AIの評価値で過去形にされたくない。そういうみっともない感情が一つ残らず盤上に乗ったとき、将棋は初めてその人間の顔になる。
橘が、銀を打った。
五十嵐はほとんど間を置かずに飛車を切った。
記録係が息を呑む気配がした。
以下は秒読みだった。角が走り、金がはがれ、玉が逃げ、歩がと金になり、また何かが捨てられた。盤上の駒は減っていくのに、局面の密度だけが増していく。観る者にとっては一瞬でも、指している二人には何十もの分岐が同時に生まれては消える。
最後、橘の手が止まった。
持ち駒を数え、盤を見つめ、玉の逃げ道を追い、そして、ごく小さく首を振った。
「負けました」
その声は、若いのに不思議なくらい静かだった。
五十嵐は一瞬、聞き間違えたのかと思った。自分の前に並ぶ詰み筋をもう一度数え直し、ようやく勝ちを理解した。
「ありがとうございました」
礼をしてからも、しばらく指が動かなかった。
*
控室に戻ると、何人かの棋士が「すごかったですね」「あそこからひっくり返すとは」と口々に言った。だが五十嵐は、褒められている実感がなかった。人は本当に危ない崖から戻ってきた直後、景色の美しさなど見ていられない。
感想戦を終え、荷物をまとめ、会館を出ると、空はすでに夜だった。春先の風はまだ冷たく、ネクタイの隙間から入り込んでくる。駅へ向かう途中の自販機の明かりが妙に白い。
スマートフォンを見ると、葉子からまた連絡が入っていた。
――凛、すごかったって言ってる。電話、いま大丈夫なら。
五十嵐はしばらく画面を見つめ、それから通話ボタンを押した。
二度の呼び出し音のあと、出たのは凛だった。
「もしもし」
声変わりという言い方は女の子には使わないのだろうか、と場違いなことを考える。最後にまともに話した頃より、声が少し低くなっていた。
「ああ……見てたのか」
「うん。配信で」
「そうか」
沈黙が落ちる。親子の会話は、見知らぬ相手より難しいことがある。
「最後の飛車切り」と凛が言った。「あれ、読むの大変だった?」
五十嵐は思わず笑った。
「大変なんてもんじゃない」
「でも、ああいうの、好き」
「将棋やってたっけ」
「学校の将棋部、ちょっとだけ」
その言葉に、五十嵐は立ち止まった。駅前の人波が左右に流れていく。
「知らなかった」
「言ってないもん」
「そうだな」
「ねえ」
「うん」
「今日の将棋、途中すごく悪かったでしょ」
「見てたならわかるか」
「わかるよ。コメント欄も、もうだめだっていっぱい書いてた」
凛は少し間を置いてから言った。
「でも、あそこであの歩、打ったじゃん」
五十嵐の胸が、かすかに鳴った。
「あれ見て、なんか……まだ終わってない人の手だと思った」
街の雑音が遠のいた。会館の朝の静けさとは違う、夜の底でだけ訪れる静けさだった。
「そうか」
それしか言えなかった。
電話の向こうで、凛が息をする音が聞こえる。
「今度、教えてよ」
「将棋を?」
「うん。ていうか、今日の将棋。なんであの手だったのか」
五十嵐は空を見上げた。都会の夜空は薄く曇っていて、星は一つも見えない。だが見えないからといって、ないわけではない。
「いいよ」
声が少し掠れた。
「今度、ちゃんと教える」
*
その夜、五十嵐はひとり暮らしのマンションに帰ってから、盤を出さなかった。棋譜も並べない。代わりに、狭い台所で湯を沸かし、インスタントの味噌汁を作った。湯気が立ちのぼるのを見ているうちに、ふと父の言葉を思い出した。
形勢が悪くなってからが将棋だ。
ようやく少しだけ、その意味がわかった気がした。
悪くなった局面をひっくり返せるかどうか、それだけではない。悪くなったあとで、人がなにを捨て、なににしがみつくのか。そこにしか、その人間の将棋は現れない。
五十嵐修司の人生は、たぶんまだ好転したわけではない。順位戦の苦しさは続くし、失った時間は戻らない。葉子との距離も、娘との空白も、一局勝ったぐらいで埋まるものではない。
それでも、と思う。
瀬戸際には、二つの意味がある。
もう落ちるしかない場所。
それから、まだ踏みとどまれる最後の場所。
同じ崖っぷちでも、人はそこに立つまで違いがわからない。
味噌汁をすすり、ぬるくなった茶を飲み、五十嵐は静かな部屋の真ん中で目を閉じた。今日の盤面が、まぶたの裏にゆっくりと浮かぶ。悪い、苦しい、足りない。それでも一手、まだある。
将棋も人生も、その一手のために続いている。
窓の外で、どこか遠くの踏切が鳴った。
五十嵐は、明日の研究会に持っていく棋譜ノートを鞄から取り出し、新しいページを開いた。そして、いつになく丁寧な字で、最初にこう書いた。
――瀬戸際は、終わりではない。
その下に、今日の一局の初手を書きつけた。
7六歩。
世界はまた、そこから始まるのだった。
