Vol.32 予防のパラドックス——「重症患者を治す」だけでは、社会は健康にならない。
私が予防医学の世界に軸足を移した動機の一つは、目の前の患者さんを助けたいという気持ちはもちろんですが、それ以上に自分や子どもたちが生きる「未来の日本社会」全体を健康にしたいという思いからです。そのためには、一人ひとりを診察室で治療するだけでなく、病気になる前の人たちに届くアプローチが必要です。今回は、その考え方の根底にある「予防のパラドックス」という概念を紹介します。
疫学者ジェフリー・ローズが提唱したこの概念は、一言で言えば「高リスクの人を治療するだけでは、集団全体の病気は減らせない」という逆説です。
具体例で考えてみましょう。高血圧が脳卒中の最大のリスク因子であることはよく知られており、否定しようのない事実です。しかし疫学的に見ると、社会全体で起きる脳卒中の絶対数として最も多いのは、実は診断基準を満たすほどではないが正常よりもやや高い「正常高値血圧」の人たちからです。
重症高血圧患者は一人ひとりのリスクは高いが、人数が少ない。一方、正常高値の人たちは一人ひとりのリスクは低くても、人口の中に膨大な数がいるため、集団としての発症数が最多になる。これがパラドックスです。
目の前の重症高血圧患者を治療することはもちろん正しい。しかし日本社会全体の脳卒中を減らそうと思えば、正常高値の人たちへのアプローチの方が社会的インパクトははるかに大きい。ただし、個々の人にとって直接的な恩恵は実感しにくい——これがパラドックスたる所以です。介入を受けた正常高値の人が「あなたは脳卒中にならなかった」と言われても、そもそも自分がなっていたかどうかわからない。予防とはそういうものです。余計なお世話として、個人から感謝されることもおそらくないでしょう。
予防医学はそもそもこの考え方が根底にあります。長く病院で勤務する臨床医だった私にはよくわかりますが、通常の臨床医にこの視点はあまりありません。仮に「正常高値血圧」の人が病院に受診しても「何しに来たの?」となりがちですし、紹介した医師が怒鳴られてしまうこともあるかもしれません。
もちろん、医療者側の意識を変えていくことは必要です。医療者への啓蒙も大切でしょう。でも私はそこに限界も感じています。だったらローズの予防パラドックスよろしく、ここでもアプローチを医療者から一般の方々へシフトしていく——その方が圧倒的に人口が多いのですから。私がこのコラムを続けている理由のひとつは、一般の方々への健康教育とリテラシー強化こそが、社会全体を健康にする最も効果的な道だと信じているからです。
出典:Rose G. The Strategy of Preventive Medicine. Oxford University Press, 1992.
Rose G. Sick individuals and sick populations. Int J Epidemiol. 1985;14:32-8.
Raza SA, et al. J Family Med Prim Care. 2018;7:1163-5
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